2022年04月18日

セカンドチャンス

タイム・ループ物の小説、映画、漫画、アニメなどをずっと考えている。いろいろな角度からの考察に開かれているジャンルだが、今回は、セカンド・チャンスと反復の問題としてタイム・ループをみてみる。

フロイトは『快感原則の彼岸』のなかで孫が行なっていたフォルト・ダ・ゲームについて報告し分析している。生後18か月の孫は、糸巻を小児用ベッドから放り投げ、「オー、オー、オー」と声をだし、糸巻の糸をたぐりよせて糸巻の本体があらわれると、「アー、アー、アー」と声をだし、この一連の動作を何度も繰り返したとして、これを「Fort・Daゲーム」と名付けた(「オー」という声はFort(行ってしまった、なくなった)を、そして「アー」という声はDa(そこにあった)を意味する)。

フロイトの分析によれば、この遊びは、自分の世話をしてくれる母親がいなくなる寂しさや不安を、糸巻を投げ、たぐりよせることを通して、緩和させるものである。糸巻の本体が、いったん投げると見えなくなっても、糸をたぐりよせればふたたび出現するように、母親も、いなくなっても、かならずまた現われる……、こうして幼児は、みずからを納得させ、寂しさを紛らわせるのだという。

ただフロイトの分析では、糸巻は母親なのだが、しかし、母親がいないとまだなにもできない幼児が、糸巻を母親に見立てて、遠くに投げるという発想をするのだろうか。むしろ糸巻は幼児そのものであり、母親は、幼児=糸巻を遠くに投げ捨ててしまっても、かならず糸をたぐりよせて糸巻=幼児をひきあげてくれるというほうが、幼児の空想としては蓋然性が高い。

ただ、糸巻が母親なのか幼児なのか、決着はつかいかもしれないが、重要なのは、消失と回帰という現象を幼児が演出することである。失われたものが回帰する。なくなったものが出現する、その快感と興奮――いないないばあ遊びに子供は敏感に反応することを思い出してもい。次にくるのは、喪失と回帰を自らの演出することである――大人から面白い玩具を示されると、次に子供はその玩具を手に取っていじりまわす、ときには分解し、ときには壊してしまう。「Fort・Daゲーム」についてフロイトが述べた言葉を借りれば、子供は、場面の支配者になろうとするのである。糸巻が自分なのか母親なのかは関係ない。糸巻の消失と再帰を自分の手でコントロールすることで、不安は解消され、快感すら覚える。子供はもはや大人や状況の犠牲者ではない。状況を創造しコントロールできる以上、状況の支配者である。

フロイトの『快感原則の彼岸』は、戦争神経症とかトラウマについての話である。このとき問題となるのは、嫌なことがあって、それを思い出すたびに苦しい思いをするとき、最良の克服手段は、忘れることである。忘れれば、あるいは意識に昇らせなければ、私たちは、その嫌なことに苦しむことはない。

ところが私たちは、嫌なことを忘れることができないばかりか、みずからすすんで嫌なことを思い出してばかりいる。そして苦しんでいる。これはなぜか。反復と場面の支配者への願望が、これを解くカギとなる。

たとえば男女どちらでもいいのだが(あるいは異性愛・同性愛どちらでもいいのだが)、恋人の裏切られたとしよう(たんにフラれたというのではなく、ひどい裏切られ方をしたということである)。その場合、心の傷をいやすのは、この一件を忘れることである。また世の中には不実の男女だけでなく、誠実な男女も多い(数からすればこちらのほうが多いだろう)。そのため自分を絶対に裏切らない誠実な男女を恋人に選ぶことも重要である。

ところがプレイボーイやプレイガール的男女を恋人に選んだ者は、裏切られてもなお、次に同じようなプレイボーイやプレイガールを恋人にしがちである。どうせまた裏切られることはわかっているのに。裏切り者的な男女のほうが、危険な香りと緊張感をにじませていて、魅力的にみえるということはあるだろう。と同時に、一度、そうした男女に惚れて失敗した者は、セカンドチャンスにかけようとする。一度失敗したのだら、二度目は、失敗しない。経験から学ぶことをした。相手の裏切りも予想できるから、先回りして、それを防ぐもしくは先手をとって相手の試みを挫く。最初は悲劇。二度目は、ハッピーエンディング。これがセカンドチャンス願望だろう。

物語とか映画のループ物のなかで、一回のループで終わるものは、ループ物と言わないことが多いのだが、しかし一回のループの成否がループの反復(同語反復だが)を決定するので、やはり一回でもループ物といってもいいだろう。一回のループ物の別名はセカンドチャンス物。最初は悲劇、二番目は喜劇。これがセカンドチャンスもの最良の結末となる。

藤子・F・不二雄の『未来の想い出』(1991)は、作者を彷彿とさせるような漫画家が、人気漫画家として成功するも、さしたる感慨もないばかりか落胆と幻滅の日々を送らざるをえず、おまけにスランプになってしまう。そんななか出版社主催のゴルフコンペに参加した主人公は、ホールインワンを出した驚きのなか心臓発作に襲われ死んだかに思えたのだが、過去にタイムリープしていた。そしてそこで人生をもう一度やり直す。二度目の人生は、最初の人生の失敗の教訓を生かし、幸福な人生となる。

浮気者型の男女を恋人にした男女が、次も同じような浮気型男女を恋人にすることが多いのは、セカンドチャンスを狙っているのである。つまり一度は失敗したが、二度目は自分でコントロールして裏切られることがないようにできると自信をもつのである。だが、そんなにうまくいくはずがない。二度目も裏切られ苦汁をなめる。はたからみていると、浮気型の男女を恋人にしたら絶対に裏切られるに決まっているのだから、どうしてもっと誠実な男女を選ばないのかと思うのだが、それでは最初の失敗から逃げるだけで克服はできない。同じような男女を恋人に選んで二度目に相手を屈服させてこそ、勝利といえるのである。もちろん結果は眼に見えている。二度目だが三度目だろうが、裏切られるつづけるのである。最初は悲劇、二番目は喜劇どころか茶番に終わる。

賭けごとにも同じことがいえる。大損をしたなら、賭けごとから手を引くのが、最良の方法であり、それこそが賭け事を克服する唯一の方法ともいえるのだが、賭け事にはまる人間は、次こそはと、賭け事をやめる気配はなく、毎回、次は勝てると思いつつ、負けてゆくのである。

セカンドチャンスで浮気型の恋人探しとはちがい、賭け事の場合は、自分ではどうにもならない偶然的要素に翻弄されることが多いので、状況の支配者どころか、運任せの受け身の姿勢を余儀なくされるのだが、逆にそうであるがゆえに時には賭け事に勝つこともある。大金を手にすることある。それでやめればいいと思うのだが、そうした場合、往々にして賭け事を続けて、結局、すべてを失うというのが定番である。なぜか。

賭け事の場合、一度成功すると、それが忘れられなくなって、結局、もうけたお金を全部つぎ込んで負けてしまうということもあろう。しかし、成功体験が破滅を導くこともあるかもしれないが、また、成功することが物足らない、むしろ失敗し、悔しい思いをし、絶望しながらも、次のセカンドチャンスにかすかな希望をつなぐ、苦杯、苦渋、苦悩、苦難の反復がなければ、なにか物足らなく、たんなる成功は、たとえそれがどんなに大きなものでも、欲求不満をもたらすしかないもの、そう失敗にすぎなくなる。失敗しないと満足しなくなる。だから成功しても、それは無視するしかない。失敗するために生まれてきた。失敗のなかに人生最高の輝きある……。

賭け事の場合、セカンドチャンスの失敗の周期は短いので、失敗しないと物足らないことは実感できるが、浮気男や女に恋して最後には裏切られる場合、その周期は、賭け事よりは長い。下手をすると数十年後に裏切られるということになれば、一生の間に、一度の裏切りは数ではないとすれば、二度しか裏切られないとなると、裏切られ中毒になるかどうかはっきりしないこともあるが、理論的には、ギャンブル中毒と同じで、裏切られ中毒はありうる。誠実な人と結婚し、もはや相手が裏切らないとなると落胆するのである。そうしたとき思う、あの裏切られる日々、信頼しきっていて油断したために裏切られ、絶望のどん底に落とされ、目の前が真っ暗になったあの瞬間はもうないのだろうか……。

裏切られない人生なんて、裏切られ悲嘆に沈むことのない人生なんて、人生じゃない。もう頭がおかしくなるほど裏切られたい、絶望したい。だがこうなると「場面の支配者」になるというフロイト的な願望はどうなるのだろうか。

おそらく「Fort・Daゲーム」は、「場面の支配者」になって、状況に翻弄されるのではなく、状況をコントロールする側になって、不安を解消したい、厳しい現実から逃避したいという願望の所産だけではない。それはゲームである以上、何度も繰り返される、リセットされてすぐに次の動きが来る。その永久運動への心構えであり、現実逃避ではなく現実直視のゲームではないか。同じことを繰り返す。いなくなったと思ったみつかる。だが、それでおさまらずに、またいなくなる、またみつかる、またいなくなる……。

それは絶望と希望、希望と絶望のゲームであって、絶望があるがゆえに希望があると同時に、希望があるがゆえにはげしい絶望も味わえる。この絶望と希望の永久反復、それが絶望するために生まれてきた人間の運命なのである。

いいかえると何度でもつづくセカンドチャンス。それなくしては人生など無味乾燥な営みにすぎない。

これは倒錯的人生観なのだろうか。絶望が人生の喜びであり、次は成功すると失敗を繰り返し、いつのまにか失敗していないと満足しない、失敗中毒になることが、人間の運命だというのは、ただの虚無的な人生観とでもいうべきものなのか。

実はここに最後のどんでん返しがある。なぜなら、失敗中毒――成功を希求しながらも、失敗することに慣れっこになってしまい、失敗しないと満足しないような失敗中毒--、この心的傾向こそ、ほかでもない、信仰と名付けられているものだからだ。

それはたとえば救世主が絶対に到来しないがゆえに信仰が成立していることとも関係がある。世界は必ず救われる、救世主は必ず現れるという確信はまた同時に救世主などいない、地球は救世の星では決してないという懐疑と背中合わせとなっている。この懐疑なくして信仰はありえない。懐疑ゆえに信仰がある。救世主は希求される。だがほんとうに救世主があらわれても、信心深い人々は、それはまがいものとして排除することだろう。そして救世主待望の習慣に再び戻ることだろう。信仰と賭け事は似ている。負け続けることが明日への活力なのだから。
posted by ohashi at 20:07| 映画 タイムループ | 更新情報をチェックする