2022年04月08日

『希望とは何か』7bis

前回の記事『希望とは何か』7の内容と重複するというか屋上屋を架すような記事なので、むりに読まれなくてもかまわない。むしろ、こんな記事は書かないほうがよかったと思われるにちがいなのだが。

ノースロップ・フライ(カナダ出身)は英米圏の文学批評分野において、アメリカの新批評が、その歴史的使命を終えたあと、そしてフランス現代思想の構造主義が英米圏を席捲する前の一時期、唯一本格的で英米文学に留まらないスケールの大きな文学理論を構築した聖職者であり文学研究者であって、その主著『批評の解剖』の見事な翻訳がまだ出版され前から、翻訳紹介されて日本でもよく読まれた。

個人的なことだが、大学院の入試面接のとき、大学院では、どのような研究をするつもりかと聞かれ、いくつか手短に話したなかで(これは想定される質問ではあったので、答えは用意していたのだが)、ノースロップ・フライが行なっているような批評研究をしたいと答えた記憶がある。のちに指導教官となる小津次郎教授は、ああ、フライねと言ったきりで、フライのことを知っているのか知らないのかもよくわかない、曖昧な顔というか、あまり嬉しそうな顔をしなかった(と私は感じたのだが)。そのためまずいことを言ってしまったのかと悔やんだが、幸い入学できた。

やがて大学院で、小津次郎先生のシェイクスピア・エリザベス朝演劇の授業を受けることになったのだが、ある時、先生は、授業の最後に、突然、いまノースロップ・フライが日本に来ていて、これから学士会館(今はなき学士会館分館)でセミナーと歓迎会をするので、みんな残って出席するようにと言われた(もちろん都合が悪ければ院生は帰ってもよかったのだろうが、私も含め全員が、そのまま学士会館の会議室に移動した)。フライ教授夫妻は、日本英文学会が全国大会時に招かれて来日したのだとあとでわかった。

ノースロップ・フライ夫妻を囲んで、学士会館の小さな会議室でのセミナーが行なわれた。出席者は駒場と学外からの名の知れた先生方数名と、私たち院生だけだったが、冒頭で簡単な歓迎スピーチをした小津先生が、英語で、フライ教授にはわが英文科も恩恵を被っていて、これまで何度も教授の文章を大学院入試問題に使わせてもらった(とそのあと版権上の問題がどうのと面白いことを話されたのだが、今は覚えていなかった。またその部分がとくに受けたわけでもなかったのだが)と語って、私は驚いた。フライのこと知ってんじゃんと内心思いつつ。

セミナー後、場所を食堂にうつして、そこで歓迎の夕食会をもよおしたのだが、私の記憶にあるのは、私と同期の正岡和恵さん(まだ成蹊大学英語英米文学科教授なのかどうかわからないが)が、フライ夫人と熱心に話し込んでいたことだけで、私自身も、フライ教授に、なにか簡単な質問めいたものを個別にしたように思うのだが、何を話したのか記憶にはない。【なお正岡和恵さんには「シェイクスピアと犬」という優れた論文(2021)がある。明らかに私よりも高い生産性を誇る研究を今もされている。】

ただ、大学院ではフライ的な批評研究をしようと意気込んでいた私が、フライ本人と出逢うチャンスを手にしたくせに、案外、あまり感激していない点、違和感を抱かれるかもしれないのだが、その時点で、私にもわかっていたのだが、フライ自身は高齢の大御所的存在(実際にはその後、カナダを代表する知識人にまでなるのだが)であって、仰ぎ見るような存在ではあっても、熱狂的に教えを請いたいような存在ではなくなっていた。本人をまぢかで観ることができたのは、よかったとしても、握手した手を洗わないでおこうというような気持ちが起こることはなかった。

そのフライだが、どこかで、シェイクスピアの『リア王』に触れ、劇作家自身、この救いのない芝居を書いたものの、それでなにか世をはかんで自殺するということはなくて、おそらく「やったね」とみずらかの作品の芸術的出来栄えに満足し、絶望などしていなかったに違いないというようなことを書いていた(「やったね」とは書いていなかったのだが)。

身もふたもないことをいえば、たしかに、『リア王』がいかに絶望的な悲劇を語る作品だとはいえ、作者も、役者も、その戯曲にかかわったらからといって自殺などしないし、廃人になったり自暴自棄になったりして生きる気力を失ったりするわけではないから、いかに救いがない作品とはいえ、ほんとうに救いがないわけではない。暗い絶望的世界観が披露されても、それはビジネス絶望でしかない、ということになる。

しかし、これはまがいものの絶望ということなのか。そうではあるまい。シェイクスピアは『リア王』を通して甘い期待を抱くことの愚を伝え、幻想を打ち破るリアルなるものに観客の注意を喚起しようとしたということはできる。

絶望について語る、絶望的状況を提示する、絶望を体験する、絶望をパフォーマンスする――すべて、絶望を関われば関わるほど、絶望を提示する技術が洗練されるように思われる。絶望技術のエラボレーション。それはもう絶望とは無縁の、希望の領域の出来事である。絶望をつきつめればつきつめるほど、逆説的に希望が湧いてくるのである。カミュがいうように(『希望とは何か』で引かれている)、絶望の文学は、ありえない。それは言葉の矛盾なのである。

シェイクスピアは空前絶後の絶望的悲劇芸術を完成させた。その悲劇芸術が高い完成度を誇れば誇るほど、絶望は遠のく、あるいは絶望を遠ざけることになる。フライの言明の趣旨はこういうことだろう。唯一の問題は、それはなにもフライ自身でなくても誰もが言いうるこということだが。

ちなみにこんな文章を書いてしまったらイーグルトン自身は、気にいらないに違いない。というのもフライは、テリー・イーグルトンのことが嫌いだからである。個人的にどうのこうのということではない。聖職者であり保守的な文学研究者であるフライが、マルクス主義批評家のイーグルトンを好きなはずはない。批判的文章を残している。

これに対し、イーグルトンが引用するフライの文章がすごい。フライは、自分と他の批評家たちとを比べて見てた場合、とくに自分が優れているとは思わない、ただ、自分には天才が備わっていたと述べているのだ。このバカがとは書いていないが、それに類するインプリケーションをもってイーグルトンは引用している(『批評とは何か』青土社)。参考までに。
posted by ohashi at 09:10| 『希望とは何か』 | 更新情報をチェックする