『リア王』と希望
シェイクスピアの『リア王』を翻訳で読んだの中学生の時である。中学生の頃の私は学校から帰ると文学全集(当時、ブームだった)を読みふけっていて、それこそトルストイの『戦争と平和』とかドストエフスキーの『罪と罰』とか『カラマーゾフの兄弟』、あるいはショーロホフの『静かなドン』、そして『千夜一夜物語』(最後の夜まで読んだ)と、毎日、活字(当時は活版印刷だった)の海に溺れそうになっていた、というよりの勉強もせずに読んでいたので、完全に溺れていた(親は、本を読んでいれば学校の勉強しているものと思い込んでいたので、とくに勉強をせよとは言われなかった)。そのためシェイクスピアの戯曲の翻訳を読んだとき、戯曲だから長編小説よりも活字の数が少ないので、一作品をあっというまに読めた。いわゆる四大悲劇は全部、一日で読んだ。ものすごいハイスピードで読んだと思うが、まとまった作品を短時間で読める快感にひたった。
しかし大学の授業で、『リア王』を英語で読んだときには、全体の筋立をまったく覚えていなかった。そのため初めて読む作品とかわらなかった。なぜそんなことになったのか。記憶力なさすぎると我ながら反省したが、『リア王』は、シェイクスピアの他の悲劇に比べると、完全ダブルプロットで、筋が入り組んでいる。したがって翻訳で読みとばしたときには、複雑な構成を理解できないまま、結末までたどり着き、そしてすぐに次の『マクベス』を読み始めたので、読んだと言っても、字面を追っただけで、感動もしなかったのだと思う。そして内容はすぐに忘れた。それに比べて大学生で授業で一年間かけて読んだ時には、新鮮な驚きと深い感動をもって『リア王』を読むことができた(英語は難しいところがいっぱいあったというより、理解できなかったところが多くあったが、それでも琴線に触れる障害にはならなかった)。
『リア王』には問題点(とはいえ作品の欠陥とは言い切れない、むしろ作品の卓越性の根拠にもなっているのだが)は多くあって、そのひとつに、最後の締めの台詞が、この大悲劇のまとめの言葉としては、あまりにテンションの低い、ありふれた教訓となっていることがあげられる――「思っていることを素直に言おう」というのが締めくくりの台詞、なんだ、これは?と思う人がたくさんいても不思議ではない。イーグルトンは、その『シェイクスピア』(平凡社ライブラリー)で、この何の変哲もないありふれた台詞を、身体と言語記号との関係――相克と調和――という観点から読み解いて、私をほんとうに驚かせてくれた。
そして今回『希望とは何か』では……
しかし「希望」について語るのに、なぜわざわざシェイクスピアの『リア王』なのか。それが問題である。なぜなら『リア王』はシェイクスピアの悲劇のなかでも、もっとも絶望的な作品、救いのまったくない作品に思えるからだ。いったい、それの、どこに希望があるのか。
『リア王』が絶望的な悲劇となっていることと、その構造が昔話的であることとは関係がある。シェイクスピア劇の根底には、おとぎ話的構造があるという指摘は昔からあるが(たとえばCatherine Belsey, Why Shakespeare? 2007【著者は昨年2021年亡くなられた】)、とりわけ『リア王』は、老いた国王が、三人の娘を愛情テストをし、もっとも父親思いの末娘を忘恩の娘と誤解し追放することで、その後、艱難辛苦を舐める……という物語は、まさにおとぎ話。そしておとぎ話であるからには、ある種の理想的な世界が前提とされり、いかに悪が栄えようとも、いかに苦難の人生であろうとも、いかに大きな災厄に襲われようとも、最後には幸福が訪れるという希望の物語であることが、おとぎ話の前提である。
おとぎ話というイメージから醸成される期待の地平を、ひとつひとつ裏切り、壊してゆくのが『リア王』である。それゆえ受容者(観客、読者)にとっては、たんに悲劇的物語を傍観するのではなく、自身が、衝撃を受ける側になる。受苦は登場人物だけでなく観客もまた体験する。
あるいはラカン的想像界、現実界の考え方を使えば、おとぎ話的世界は、ある意味、すべてが都合よく望むままにすすむ想像界である(芸術作品としての戯曲であることを考慮すれば象徴界か)。しかし想像界に私たちが安住することを、この戯曲は許してくれない。予想を裏切る衝撃的な出来事は生まれ、私たちは言葉を失いかねない。まさに現実界の衝撃、あるいは抑圧された現実界の回帰が生まれる。
したがって『リア王』は、期待を裏切り、希望をひとつひとつ潰しにかかる以上、反希望の芝居、救いがまったくない芝居ということができる。
救いがまったくない芝居。だが、ほんとうに救いがまったくないのか。希望のかけらはひとつもないのか。
これは『リア王』のなかの有名な場面のひとつだが、ある人物(エドガー)が、自身の落ちるところまで落ちた境遇をかえりみて、もうどん底にきたのだから、あとは這い上がるしかないと、なにか晴れやかな気持ちで述懐すると、そこに、両目をえぐり取られ、眼が見えなくなって召使の手をひかれてやってくる父親がやってくる。エドガーは、これをみて「これが最悪だと言っていられるうちは、まだ最悪ではない」と嘆く。
どん底まできたのだから、あとは上昇するしかないというのは、ヨーロッパ中世の運命の車輪のイメージからくるものであり、またおとぎ話的な世界観でもある。どん底まで落ちればあとは這い上がるしかない。実際、観客もそう期待する。そしてさらなるどん底へと突き落とされる。期待は裏切られ、おとぎ話的世界はこなごなになる。だから甘い期待を抱いて生きるのは愚かである。オプティミズムは罰せられるのである。
ただし「これが最悪だと言っていられるうちは、まだ最悪ではない」という台詞には、言葉で「これが最悪だ」と言っていられる限り、まだほんとうの最悪ではないという意味にもなる。イーグルトンが『希望とは何か』で着目するのもこのことである。
もしほんとうにこれが最悪であるなら、言葉も出てこないし、生きる意欲は失われ、嘆く気力さえ消え失せるだろう。ほんとうの最悪は、言語表現の極北どころか、言語表現を彼方にある。逆に、これが最悪だと言っていられるうちは、まだ最悪ではないのであり、そこにかすかな希望がある。
前回の記事で、「想像力は死んだ、想像せよ」というフレーズについて考えたように、「想像力が死んだ」とい言える限り、想像力は完全に死んでいない、まだかすかに息がある。想像することは、まだ、ほんのかろうじてであれ、可能なのである。「これが最悪だと言っていられる限り、それは最悪ではない」は、たんに落ちるところまで落ちたのだから、あとは這い上がるしかないという、根拠のない甘い考え、オプティミズムだけを意味するのではない。「これが最悪だと言っていられる限り」、人間にはまだ言語能力がある。言語能力があるかぎり、最悪は回避される、最悪は消滅できる。最悪を見据えて生き続けることができる。希望はあるのである。この土壇場の、ぎりぎりの希望、それがイーグルトンが『希望とは何か』で私たちに伝える希望なのである。
「想像力は死んだ、想像せよ」というのは、「想像力は死んだ、【想像力は死んだと言える限り、あるいは、想像力は死んだと、想像力にもとづくメタファー表現ができる限り】想像力はまだ生きている」と読み換えることができる。そして『リア王』をふりかえれば、まさにこのことがあてはまる場面がある。
リア王は、冒頭で追放した末娘のコーディーリアに、最後には助けられる。娘にみずからの過ちを詫びる――和解する老王と娘。だが、このおとぎ話的結末に観客が安住することを戯曲は許さない。戦いに敗れ捕虜となった老王と娘に、暗殺命令が下る。通常なら、これはクライマックスとなるハッピーエンディングを盛り上げるためのサスペンスでしかないだろう。はらはらドキドキさせながら、結局うまくいくだろうという観客の甘い期待を裏切って、リアにとって残された唯一の救いであったコーディリアは殺される。彼女の遺体を抱きかかえてリアが登場する。コーディーリアとの再会で正気をとりもどしていたリアは、絶望のあまり再び狂気にとりつかれたかのようにみえる。
しかし最後の瞬間、リアは、コーディーリアがまだ息をしているという幻覚にとらわれる。彼女はまだ生きているという思い込んだままリアは息絶える。
「コーディーリアは死んだ、コーディーリアはまだ生きている」
かくして老王と娘は、天国で結ばれるとか、あまりに悲惨な運命に対してシェイクスピアは、たとえ事実とは反することであれ、リアに救いとなるような幻覚を抱かせたのだとか、狂気のリアは、コーディーリアが生きているという幻想なくしても死にきれなかったのではないかとか、いろいろ解釈はできる。
しかし、そうしたメロドラマティクな観点に一理あることは否定できないが、同時に、むき出しの真実が、ここにあるのではないだろうか。「コーディーリアは死んだ、コーディーリアは生きている」という台詞はないのだが、この言明どおりの展開を戯曲は形成する。それは「コーディーリアは死んだ」と言葉で表現でき認識できる限り、その言表行為の瞬間と、その余韻のなかで、コーディーリアはまだ息をしているのである。「死んだ」といえる限り、「まだ死んでいない」あるいは「かろうじて、息をしているのである」。コーディーリアの死を嘆くことができる限り、コーディーリアは死んでいないのである。
戯曲はいっぽうで言葉にならない悲劇に直面しながらも、それを言語表現によって伝えることができる限り、悲劇はまたかろうじて克服できるのである。だとすれば言語芸術としての悲劇が伝えているのは、言語表現を不可能にするブラックホールのような悲劇ではなく、悲劇が土壇場でかろうじて、ほんとうにかろうじて克服できることである、つまり言語芸術としての悲劇が使えるのは希望なのである。
