ずいぶん前のような気がするが、文学理論の入門講義のなかで、脱構築について説明する際に、私は、こんなことを話していた。昔配ったプリントは電子化しているので、今、記憶を確かめることができる。
「メタファーは殺される」という文なりフレーズがあるとする。
これはつまり、メタファーは、否定、否認、却下、抹消されるということ。
しかし、生き物ではなく、無生物や概念に対して「殺される」という語句を適用するとき、その「殺される」は、メタファーとなり、全体がメタファー表現となります。ということはメタファーは「殺されていません」。残念な表現・文です。
これはメタファーを否定し抹消するその瞬間に、メタファーを登場させるメタファー表現を使うという矛盾です。
メタファーは不要とされながら、メタファーを使うことによって必要であると証明されてしまう言行不一致の実例でもあるのです。
メタファーは不要といいながら、自分でメタファー表現を使っている矛盾。
「殺される」というメタファーは、あるいはメタファー表現は死角に入っている。
メタファーは「殺される」というメタファー表現で、結局、メタファーは、否定されているのか肯定されているのか、死んでいるのか生きているのかわからない幽霊となる。
メタファーは殺されるのか殺されないのか決定不可能undecidableである。
脱構築について説明するとき、その基本は矛盾の指摘であると話す。「メタファーは殺される」という一文で、メタファーは殺されているのか活かされているのか決定不可能である。もちろんこうした矛盾を指摘することで、あなたが相手の怒りを買い、どんなに悲惨な人生をあゆむことになっても私は責任はとりませんからと、断るのだが。
あるいは「イズムは嫌いだ」「イズムにはコミットしない」というようなフレーズなり一文があるとする。
これを世界で初めて口にした人に対しては問題ないが、こうした言い方は誰もが一度ならず聞いたことがあるはず(もしそうでなかったら、ぼっーと生きてんじゃないぞと言われてもしかたがないだろう)。つまり「イズム化」してもおかしくない常套的な意見である。そしてまた「~イズム」がどんな場合にも悪であるとも言えないとすれば、「イズムは嫌いだ」というのは、「反イズム」の表明であり、みずからが「反イズム」といいう「イズム」に陥っていることになる。このことは重要で、みずからの「イズム」(ここでは「反イズム」的姿勢に無自覚なまま、あるいは自らの「反イズム」を死角として、他人のイズムだけを批判することほど、愚かで、また有害なものはないということになる。
しかし、同時に「反イズム」というのは、それ自体、「イズム」ではあっても、一理あるというか重要な姿勢であることはまちがいない。したがってみずからの「反イズム」というイズムに気づかずに「イズム」批判をするのは、愚かかもしれないが、同時に、誰もが犯す過ちかもしれない。先ほどの「メタファー」は殺されるも同じことで、否定されるメタファー表現を、みずから実践してしまうことは、愚かさの証拠というよりも、誰もが日常的に行なっていることであって、寛容になれとか大目に見よということではなく、言述行為に生ずる矛盾は、コミュニケーションにとって有害でもあり、また有益な働きをするのではないか。矛盾の指摘だけではなく、矛盾の効能みたいなものを考えてもいいのではないか……。
と、ここまでが脱構築の授業で話してきたイントロである。
しかし、今回、さらなる別角度から、こうした矛盾現象について語れるのではないかという気がしてきた。希望という観点である。
メタファーは重要なもので、私はメタファーが駆逐されたり亡くなったりするのはよくないことかと思うのだが、ただ一般には、なぜメタファーが殺されるのかピンとこない人も多いと思うので、前回の「想像力は死んだ」にもどそう。おそらく「想像力」というのはメタファーよりも明確に善いものとされているように思うので。
そうなると「想像力は死んだ」というのは、「死んだ」というメタファー表現が想像力なくしてありえないものなので、想像力は死んでない、つまり矛盾することになる。しかし、矛盾を指摘して終わりではない。
想像力というのが、もし言語道断の悪辣なものであるのなら、「死んだ」といいながら想像力の働きを維持しているという矛盾なり裏切りは許し難いものであり、この矛盾は強く指摘しなければならない。
しかし想像力は、よいものである。となると「死んだ」という表現のなかに、想像力の痕跡が残っていることは、よいことではないか。想像力消滅という暗いニュースの映像のなかで、消滅した想像力が、それでもぴくぴくとかろうじて体を動かしているのをみるようなものである。
矛盾というのは、一般に、虚偽、ごまかし、隠蔽、欺瞞の温床だが、同時に、生と死の共存、対立するものの共存であり、決して滅びることのない、その片鱗の残存をも意味することがあり、希望の温床ともなる。
イーグルトンが『希望とは何か』の最終章で語る、Hope against Hopeとは、まさにこのように脱構築的観点か指摘されるうる消去できぬ矛盾の存在のなかに、希望の光をみることとつながっている。そしてこのような希望の在り方は、脱構築によってのみ浮上するだけではない。文学作品そのものが、これまでずっと語ってきたことでもある。つづく
