イマジネーション・デッド、イマジン
イーグルトン自身が考える希望観については、その最終章に披瀝されるのだが、それはたとえば、Imagination Dead Imagineとでも言えるような絶望のなかのかすかな希望あるいは絶望にのみこまれつつも最後の一手のようなものと考える。
Imagination Dead Imagineはサミュエル・ベケットの散文作品(1965)であり、それ自体、興味深いテクストなのだが、ここではタイトルのみにこだわることにしたい。
ちなみに私がイギリスで生活していた頃、いまもそうかどうかわからないが、庶民の日常生活を構成するあらゆる事物が、がたがきていて、よく壊れた。ただし、よく壊れるのだが、すぐに直してくれるという点で制度そのものはまだ健在だった。
そんなとき電話が通じなくなった。電話は日本からもよくかかってくるので、この状態が続くと日本の家族とか知人に余計な心配をかけることになりかねない。そこで電話局に通報して一刻も早く直してもらうことにした。自宅の電話は使えないから、町の公衆電話を使った(ちなみに携帯とかスマホがまだない時代の話である)。
電話が通じなくなったと言おうとして‘My telephone is’と言いかけたが、さて次に何とつづけたらいいか言葉が出てこない。今、冷静に思い返せば、いろいろな言葉、フレーズを思い浮かべることができるが、その時はあせって、思わず‘My telephone is dead.’と言ってしまった。
しまった!なんて稚拙な表現を使ったのだと後悔したが、それで完璧に通じて、その日のうちに復旧してくれた(フラットのある建物の電話設備の点検時に切られたスイッチをもとにもどし忘れたというそれだけのことのようだった)。だから、それでいいようなものだが、その時は、私としては「僕の電話がね、死んじゃったの」という、まともな大人なら言いそうにない表現を使ったと思い恥ずかしくなった。まあ相手は外国人だからと大目にみてくれるかもしれないとしても。
しかしその時はわからなかったのだが、 ‘My telephone is dead’というのは立派な英語である。私自身、それが思わず口をついて出たというのは、どこかで耳にした、どこかで読んだかして、記憶されていたからだろう。別に子供じみた表現ではないし、それでスムーズに相手に伝わったのだから常套的表現であった。実際、その時は知らなかったのだが、これは英和辞典などに例文としても掲載されている。
Imagination dead imagineのdeadというのも機能しなくなったということでMy telephone is deadのdeadと同じである。そのことを言わんとしてどうでもいい思い出話をと怒らないで欲しい。それは想像力が死んだ、枯渇した、働かなくなったのに、どうして想像できるのかという問いとも関係する。
もし「想像力は死んだ、想像せよ」が『希望とは何か』で最終的に語られる希望のイメージなら(と、私は考えるのだが)、なぜ、すべてが失われ可能性がなくなったときに、なぜ想像できるのかが問題になるはずである。まあ、やけくそで、だめでもともとで、とにかく「想像する」のだという根性論に通ずるものがあるかもしれない。あるいは旧約聖書の『ヨブ記』にあるいように、「たとえ神が私を殺すとしても、私は神を信仰する」という無根拠・無償の信仰・信念とどこかでつながるものがあるのかもしれない。どちらもイーグルトンは首肯するかもしれないが、また、希望とは、なんとかなるさというオプティミズムとは異なり、根拠のあるものだという説もイーグルトンは紹介している。そうImagination dead imagineのimagineを可能にする根拠は、このフレーズのなかにある。
Imagination deadのdeadは、機能不全、不可能になったということを「死んだ」と表現するメタファーである。生きているものは死ぬ。しかし生物以外のものについて、「死んだ」というのはメタファーである。My telephone is deadも、ある意味、幼児が使うような稚拙なメタファー表現かもしれないが、一般には、メタファーとして意識されることのないありきたりなフレーズと化しているとしても。
想像力が枯渇する、働かないという思いに嘘偽りはないとしよう。しかし、そのことを「死んだ」というメタファーを使うことで、かろうじて想像力は、その土壇場のぎりぎりのところで消滅間近の瀬戸際で生きていた。この最後の想像力の一片、このなけなしの想像力、日常的なフレーズのなかに埋没しつつもかろうじて息づいていた想像力のひとかけら、これがあるかぎりに、想像力は絶滅していない。そしてこのミニマムな想像力を賭けることはできるだろう。ほんとうにゼロになることはない。なにかが残る。その微小な可能性にすがることができる。
だからこそ「想像力は死んだ」⇒「死んだ」といえるかぎり想像力はまだかろうじて生きている⇒この最少の想像力があるかぎり、想像はできる。
あるいはこうも言える。何かが死んだといえる限り、それは死んでいないとも。希望はないと言える限り、希望はあるのだ、と。 つづく