2022年04月02日

『希望とは何か』4

2022年3月10日に岩波書店よりテリー・イーグルトン『希望とは何か』を翻訳出版した(単独訳)。この翻訳について、裏話といってもたいした話ではないのだが、まあ裏話めいたエピソードを断続的に記しておきたい。

メニッポス的諷刺について

すでにイーグルトンの『希望とは何か』が、「希望」という異例のテーマであることに戸惑いを感じている読者も多いかもしれない。このことはすでに『希望とは何か』2(2022年3月)で述べた。

べつにむつかしく考えなくていい。イーグルトンは希望についての哲学的・神学的・思想的そして文学的な観点について列挙しながら、「希望とは何か」(本書のなかで最長の第2章のタイトルがこれである)について語っている。そこはむつかしくない。私の翻訳がうまく訳し切れているとしての話だが。

むしろむつかしいのは、議論があっちへ行ったりこっちへ来たりと、議論が、なにかとりとめもなく放浪している感じがするというところだろう。キルケゴールの『死に至る病』(つまり絶望)についても、まとまったページが割かれている。もちろん、話題にそってその都度発揮されるイーグルトンの記述の瞬発力ははんぱではなく、キルケゴールの『死に至る病』についての記述は、凡百の啓蒙書を凌ぐ。嘘だと思うなら、ほんとうに『死に至る病』についてのなんらかの解説書・解説文と、本書の記述を読み比べていただきたい。

ただし、絶望の話までして、どうなるのかとか、第3章の終わりは、希望もなければ絶望もしない、ただ享楽的に破滅と戯れる「バカップル」アントニーとクレオパトラの話で締めくくられるのも、その話は本当に面白いのだけれども、なぜ、ここでという疑問は残る。

私は訳者あとがきのなかで、本書が「メニッポス的諷刺」の体裁をとる記述であることをくどいほど指摘した。最初は、あとがきで書くことがなくて、無い知恵を絞って苦し紛れでメニッポス的諷刺の話をしたというところもないわけではないが、今となっては、実に的確な指摘ではないかと、我ながら、自分の慧眼に驚いている。

私は近代のメニッポス的諷刺の典型としてヴォルテールの『カンディード』やサミュエル・ジョンソンの『ラセラス』を考えているのだが、それは主人公が、なんらかの叡智を求めて旅をし、いろいろな哲人・賢者の話を聞くことにある。彼ら賢人たちが説く思想はどれも一理あるものだが、同時に、どれも限界を抱えていることがわかる。結局、絶対的な真理などないことを納得した主人公は自分なりにゼロから物を考えることを決意する。

このメニッポス的諷刺の、物語ではなく、論説面でのヴァリエーションというのは、百科全書形式とかアナトミー形式と呼ばれるもので、これは諷刺性というよりも網羅性を重視する。なんらかの主題について、多様な観点を、網羅的に過不足なく、可能な限り、その全体像を俯瞰できるように語ることが重要になる。多様な観点について優劣はつけない。超越的な絶対的な観点というものは示さない。俯瞰図が提供できればいい。百科全書形式というのは言い得て妙である。

だから『希望とは何か』の読者は、イーグルトンという観光案内人のあとをついて、希望についてのさまざまな観点について、みてまわるというように考えてもらえればいい。そのため、重複とか似たような例がつづいたり、議論が反復的になったり、超越的な観点がなくても、読者は気にしないでいただきたい。観光地をめぐると考えていただければよい。

また、この観光案内人、皮肉な笑いや諷刺的笑い、さらにナンセンスな笑いおよぶユーモア感覚に優れているのだが、いつものようなユーモアは、ないわけではないが、今回は控えめになっている。

しかし個々の事例についての、つっこみはいつも優れていて、なるほどと納得させられるのだが、同時に、この観光案内人、いろいろな希望観について紹介してくれるのだけで、どの希望観が優れているとか、どの希望観にコミットすべきかについては、語ってくれない。

もちろん、これがメニッポス的諷刺あるいは百科全書形式の特徴なのである。最終的解答が示されることはない。あるいは最終的結果は読者が選ぶしかない。そしてそのことの最悪の結果は予想できる。メニッポス的諷刺の対象となるのは、どちらかというと先端的で流行をいく現象なり事物なり思想である。そして諷刺の対象になるのだから、そこで語られ展示されたものは、どれもがクズであるという暗示がある。だから、全部廃棄しても問題ない。どれも知らなくても支障はきたさない。かくして従来通りの保守的な観点が守られることになる。先端的知であれ叡智であれ、新奇な流行現象であれ、そんなものはすべてゴミ芥、あぶくのようなもので、コミットするにおよばない。コミットしないほうがいい。従来の保守的観点なり姿勢こそが素晴らしいという暗示されるのである。

あるいは百科全書的に展示された網羅的知は、学ぶべき対象などではなく、廃棄すべきゴミなのである。そしてゴミを片づけることのできる語り手は、読者であるあなたは、賢人や哲人の所説にまどわされることのない最高の叡智を身に着けた超越的な人間ということになる(実際には、こうした所説を提供できるような知恵も力もありませんと、読者であるあなたは謙虚な姿勢をとることになるが、もちろん、内心では、このクズがと最高度の傲慢さで、メニッポス的諷刺の対象を嘲笑することになる)。

しかし、『希望とは何か』の案内人は読者をこうしたところに導こうとしているのではない。読者は心配するには及ばない。観光地案内が終わったあと、この案内人は、自分の希望観を最後に披露してくれるからだ。つづく
posted by ohashi at 19:15| 『希望とは何か』 | 更新情報をチェックする