2022年04月01日

『希望とは何か』3

2022年3月10日に岩波書店よりテリー・イーグルトン『希望とは何か』を翻訳出版した(単独訳)。この翻訳について、裏話といってもたいした話ではないのだが、まあ裏話めいたエピソードを断続的に記しておきたい。今回は第三回目

既訳の使用について

今回、個人としての初の試みとして、原書中に引用されている語句や文について、既訳のあるものは、すべてそのまま使用することにした(既訳があることを知らずに見落としたものもあったかもしれないが、既訳があることを知っていながら、その訳文を採用しないということはしなかった)。

これまでも私自身、既訳のあるものは、一部、それをそのまま使ったりしたこともあったが、既訳はすべて使ったということはなかった。その意味で初めての試みだったが、それなりに苦労はあった。

いや、自分で訳すのではあく、他人が訳したものをそのまま使ったのだから、苦労などないはずと思われるかもしれないが、けっこう苦労した。

最初は、そのつもりはなく、既訳のあるものも、すべて自分で訳しなおすつもりだったが、途中で、既訳をそのまま使ったら(もちろん出典は明記する)、訳文にも変化がでて、多様性を実現できるのではないかと思えてきた。

【注記:もちろん私の翻訳の場合、引用文あるいは言及のある文献で既訳のあるものは、たとえ自分で訳しなおす場合でも、そのページ数を記載することを原則としているので、該当箇所の既訳を探したあと、その既訳をただ参考にするか、そのまま使用するかは、労力の点で大差はない(もちろん、使用した場合はその旨を明記する)。

もうひとつ、既訳の該当箇所は、これまで該当ページだけを記載していたが、その本を持っているか閲覧できるなら意味があるが、そうでなければ、あまり意味もないことがわかった――ただし既訳をそのまま使うなら、使用箇所を明記するためにページ情報は必要となる。また最近では電子書籍も増えているので、該当ページ情報は意味がなくなる。そのため、今回は、可能な限り、該当ページが、その著作のどういうところにあるのかも、該当ページとともに記載することにした。たとえば、二三六頁(第4章)というように。

なお、既訳情報までも丁寧に記載する、私の翻訳方法は、翻訳出版の敷居を必要以上に高くするのではないかと危惧する向きもあろう。それはそのとおりで、どの翻訳も、既訳のあるものは、私がしたようなこと(最低限でも既訳の出版状況と該当ページの記載)をすべきだと要求するつもりはない。どの翻訳もそのようなことをしたなら、私の翻訳の読者サービスや情報提供が他の翻訳に比べて格段に優れていることが見えにくくなる。敷居の向こうにある格違いの翻訳は私の翻訳だけでいい。】

最初は、すべて既訳のあるものないものの、すべて自分で翻訳するつもりで、全体の半分くらいまで翻訳作業をしていた。そこですでに自分で翻訳したところと既訳とを比較してみた。正直言って原文の解釈について既訳から教えられたところもあったが、ただ全体として既訳のほうが完成度が高かった。これは私の翻訳能力が劣っているということもあるが、まだ下書き段階の私の翻訳文と、推敲と校閲を経て何度もチェックが入ったうえで出版された既訳とでは、気合と費やされた労力が違う。既約の完成度が高いのは当然といえば当然である。このこともあって、最初から引用文で既訳のあるものは、それを使うことにした。

そこまではいいとしても、既訳を使うことにもリスクはあった。原書では、一部を切り取って引用するわけだが、その際、前後関係から隔離された引用文は、独特のオーラのようなものを帯び始めることになる。そのため元の文脈においては、目立たなかった意味なりニュアンスが、浮上し強調されることになる。そうなると、既訳の訳文では、新たに生ずるオーラなりニュアンスなりを伝えきれないという事態にもなる。しかし、こういう場合、そこは無視して既訳を使うことにした。ひとつは解釈がまちがっているわけではないこと。またすべての引用文の既訳がそうであるわけではないこと。またニュアンスをかぎとる読者の読解能力の高さを信頼してよいと判断したからである。

なお『希望とは何か』は、コンパクトな希望学大全といった趣があって、希望に関する数多くの引用に彩られているのだが、その引用で既訳のあるものすべてを使うといっても、けっこうな量の引用なので、具体的にどのようにして調べ確認したのかと苦労話を期待されるかもしれない。

調べることはけっこう苦労した。ひとつの引用の出典を調べ、日本語訳を突き止めるのに一日がつぶれたということはよくあった。しかしそれ以外に苦労はしなかった。日本語訳は図書館で調べればよいのだが、ただ、このコロナ過で大学図書館が開いていないことも多かったというか、実際どうなのか部外者にはよくわからなかった。またどこの図書館であれ、そこへの移動というのは、自粛生活中の身にとっては、けっこう抵抗があった。そこで入手できる既訳はすべて購入した。

唯一の例外は、キケロ―からの引用(第2章、原注96)。これは大学の図書館にいけばあるだろうが、タイミングと自粛生活から遠くまで足を運びたくない。古書でばら売りにもされているのだが、一冊でもバカ高い値段がついていて、とても貧乏人の私には手を出せない。『キケロ―選集12』(岩波書店)が欲しかったのだが、しかたなく、編集者の方に、岩波書店で保管されているであろうこの本を閲覧させてもらえないかとお願いした。早くて15分、長くても1時間で該当箇所は見つけるからとも伝えた。するとありがたいことに、コロナ過で、わざわざ出向いてもらう必要はない。本を送るから、×月×日までに返してもらえばよいといことだった。

本が届いた。思ったより分量のある著述だったが、20分くらいで引用されている箇所をみつけた。日本語訳は、英語訳よりもニュアンスをくんだ丁寧な翻訳だった。該当箇所とページも分かったので、その日のうちに返送した。

日本語訳を使わせていただいた本は、キケロ―の選集以外、すべて私が所持している。そう、使った既訳の本は、すべて手元にある。もちろんもともと持っていた本があるので、新たに購入したといっても多額の書籍費を費やしたわけではない。とはいえ、この経費と翻訳を献本した経費をあわせれば、完全に赤字になることはまちがいない。昨年末のイーグルトンの『文化と神の死』(青土社)と、今回の『希望とは何か』は、ともに赤字である。翻訳を出せば出すほど貧乏になっていることはまちがいない。

まあ、それはともかくとして、一つの著述に対して複数の既訳があった場合どうするかは迷った。たとえば原書ではシェイクスピアからの引用が多いのだが、シェイクスピアの既訳は複数ある。私は個人的にどれも名訳だと思っているので、特定の既訳だけを集中的に使用するという理由はない。そしてどの既訳を使っても、なんとなく角がたつようなところもある。

ただし、岩波書店から出版される本である。岩波文庫のなかには、シェイクスピア作品も、絶版のものも含めていくつか入っている。そのためシェイクスピアに限らず、岩波文庫にあるものは、優先的に既訳として使うことにした。実際、著者イーグルトンが引用する文章のほとんどが、岩波文庫に入っていたということにもなった。シェイクスピアに限ると、『マクベス』は木下順一訳、『リア王』は野島秀勝訳、『アントニーとクレオパトラ』は本多顕彰訳を使うことになった。どれも訳文として問題はないというかすぐれている。本多顕彰訳(絶版)は、固有名詞の表記が、やや古臭いのだが、そのままとした。

そして岩波文庫にないシェイクスピアの『冬物語』は、一番新しい日本語訳として、松岡和子氏のちくま文庫版を使うことになった。岩波文庫版と一番新しい松岡和子訳というのであれば、まあ、誰からも文句は出ない――いや、文句を言う人などいないと思うのだが、自分なりにバランスのとれた選択だったと自負している。
posted by ohashi at 18:00| 『希望とは何か』 | 更新情報をチェックする