たとえば
演出が安っぽ過ぎて笑えた
カメラに向かって鹿の生血を飲むって何だよ!(笑)
全体的にスリラー演出迫力ないわぁ
音楽だけ盛り上げれば迫力でるわけじゃないことを再認識
キャラクターもチープで感情移入できない
復讐者を憐れめない…
加害者も憐れめない…
主人公も憐れめない…
韓国映画のてっぺんが非常にレベルが高いのは重々承知だが、しっかり裾野は荒れてますな
というようなコメントが多い。おまえの頭の裾野のほうが、よっぽど荒れていて、日本人にとって恥だと言ってやりたいところだが、ネット上にはバカばっかりではない。
幸い、こんなコメントもあった――
個人的には面白かった。
サスペンスかホラーかどっちつかずの方向性も、個人的には「両方の要素があっていいじゃん」と好意的に捉えられる。
同じ韓国だと「オフィス」なんかが似た雰囲気の映画だったが、パッケージがサスペンスっぽいので肩透かしを喰らう方が多いのだろう。
ところどころ安っぽい演出は気になるが、伏線を貼って回収していく韓国らしい緻密なサスペンス要素はお見事。緊張感もあって面白かった。ヒロインも美人。
私としては、このレヴューアーと同じ意見である。2015年の韓国映画『オフィス檻の中の群狼』について言及しているとこらかしても、私よりも明らかに韓国映画を良く見ているこのレヴューアーの判断基準からしても、この映画『デジャブ』は、悪い映画ではない。
ネット上には昨今の日韓関係からするという但し書きをつけてけなしているバカがけっこういるのだが、映画の内容は日韓関係とは全く無関係だし、日本の保守反動勢力が自分たちが韓国から批判されて憤っているだけで、多くの日本人は韓国、韓国文化、韓国映画は嫌いではないし、多くの日本人は、日本の保守反動勢力を嫌っているのだから、彼らに影響をうけた連中が、あるいは彼らそのものが、政治的に映画をけなすのは恥をさらすようなものである。
ただし、ひとつだけ挙げた(頭の裾野が荒れているバカレヴューアーの)否定的評価は、実は、それなりに映画の特徴をついているのだが、問題は、だからこの映画が素晴らしいとはならないことである。
たとえば「キャラクターもチープで感情移入できない/復讐者を憐れめない…/加害者も憐れめない…/主人公も憐れめない…」とあるのだが、これは正しい指摘なのである。あなたは頭がいい。頭の裾野が荒れているだけである。
なぜならこの映画の登場人物は全員悪人なのだから。たとえあやふやな記憶に苦しめられる可憐な乙女である主人公に対しても、最終的にわかるのは悪女であったということである。しかし、それは映画の欠点ではない。映画の古典的イメージについていえば、昭和の時代とともに失われた考え方かもしれないのだが、人物のアクドさ、クセの強さこそ、映画的人物であることのあかしなのである。だから全員悪人の映画は、映画的強度がマックスといえるかもしれない。いうまでもなくこの『デジャブ』はノワール系の映画であることからしても全員悪人なのは当たり前のことなのだ(ちなみに、これは『オフィス』の影響なのか、あるいは建設業者のステレオタイプのイメージの誇張かもしれないのだが、主人公の女性の婚約者は、建設業では現場監督というか現場責任者のような立場なのだが、部下を殴る。そして彼自身、会社役員の上司から殴られる。この企業は、ブラックを通り越してならず者企業である)。
逆に観る者の同情をひくような人物こそ、映画的にみれば観客におもねるチープな人物にすぎない。観客を苛立たせ、憤らせる、クセの強い人物が、映画の中心にいる。このことが頭の裾野が荒れている者にはわからないのは残念なことである。
映画のネタバレあらすじのまとめサイトhmhm(ふむふむ)から一部を引用すると
紹介:デジャブ(2017年韓国)ひき逃げ事故を起こしてから、恐ろしい幻覚を見るようになったジミン。警察や同乗していた婚約者からは、事故などなかったと言われるのだが…。
そしてネタバレなのだが、たぶん詳しい説明があってこそのまとめであるため、ネタバレにもならないかもしれないので、ここでさらに引用すると――
簡単なあらすじ ①婚約者・ウジンが女子高校生を撥ねた。その交通事故を隠匿したせいで繰り返し同じ夢を見るジミンは、警察にウジンの罪を話す。しかしウジンが撥ねたのはシカだった。ジミンの幻覚はエスカレートしていく。 ②遺体は別の場所に隠されていた。ジミンはウジンに薬を盛られ、そのせいで幻覚を見ていた。被害者はインテ刑事の妹、インテ刑事はウジンを殺し、自分もビルの崩落で死亡。
いずれ映画をみることがあれば、以下の記述を読めば納得してもらえると思うのだが、人物関係には二つの三角関係から成立する。ひとつは主人公の女性と、そのフィアンセの男性、そしてその男性の悪い友人(「ヤクザ」と字幕が出るのだが、「マフィア」と同じく、比喩的に語られているのか、ほんとうに「ヤクザ」なのか不明。反社会的勢力の一員ということなのだろうが)との三角関係。つまりこの悪い男が、自分の友人の婚約者の女性を奪おうとして緊張関係が生まれる。ただし、実は、主人公の女性のフィアンセの男も、その友人と同じく、かなり悪い男(部下を殴る、不正を金で解決しようとするのはそのほんの一端である)で、むしろ主人公の女性は、二人の仲を裂くというよりも、二人の仲を緊密にするような役割をになっている。
ちなみに「カメラに向かって鹿の生血を飲むって何だよ!(笑)」という頭の裾野が荒れている人物のコメントで触れられている場面は、ふたりのホモソーシャル男性が、実は、善人と悪人ではなく、ふたりとも悪人あるいは変態的狂人であることを示す驚愕的場面なのだが、二人は実は仲が良くて殺した野生の鹿を生き血をふたりで飲みあうような関係だと語る人物の言葉にかぶせて、口を鹿の血で赤く染めた二人の人物の映像が登場する。このとき二人ともカメラ目線なのである。ここを頭の裾野が荒れているレヴューアーは突いているのだが、指摘は正しい。ただしこれは映画的演出であって批判されることではない。ドゥルーズの用語でいえば、もしこれが「運動イメージ」なら、二人の男が殺した鹿の血をすするときに絶対にカメラ目線ではありえない。しかし「時間イメージ」なら、カメラ目線はありうる。つまりそれは二人の狂気を語る人物の意識のなかで加工されたイメージであり、客観的なものと主観的なものとがまじりあっているイメージなのだから。またいうまでもなく、二人の男が向かい合って黙々と鹿の生き血を吸っているよりも、誰に対してかわからないが、カメラにむかってこれみよがしに、彼らの狂暴な行為を誇示している、現実にはありえないクセの強い演出こそ、映画的なのである。
【なおドゥルーズの『映画論』における「運動イメージ」と「時間イメージ」の違いは、きわめて単純化していうと、文法用語でいう「直接法」と「接続法」の違いだと理解することができると思う。】
もうひとつの三角関係は、車にはねられて死亡した女子高校生、行方不明になったその女子高校生を探す兄の刑事。そしてこれは最後の最後でわかるのだが、その刑事の友人で、刑事の妹とも親しい精神科医。車にはねられ、まだ息のあるうちに埋められた女子高校生のために兄とその友人が、最初の三角形の三人に復讐する物語がこの映画ということになる。
そう、この最後の最後で明らかになる影の三角関係が、最初の三角関係に重なるというか復讐をとげることになる。よくできている物語構成ではないか。ちなみに最後に事件に深く関与していたことがあかされる精神科医は、映画のなかでは、さほど目立たないのだが、韓国映画では、良く知られた俳優が演じているため、私のように韓国映画にうとい人間ではない韓国映画ファンは、この俳優がこんな目立たない役で終わるはずがないと、その役割の重要性を最初から感知していたかもしれない――キャスティングの意味論と私が呼ぶ現象である。
表の三角関係に、影の三角関係が重なるというか襲い掛かり復讐をする。また表の三角関係のなかの主人公である女性は、影の三角関係のなかの車にはねられた女子校生のカウンターパート的存在であり、主人公と殺された女とが出会うときに物語は大団円を迎える。またそれは殺され埋められた女が掘り起こされることと、主人公の女性が埋葬された記憶を掘り起こすプロセスとパラレルになる。埋められた死体の露呈と、抑圧された記憶の意識内における回帰とが重なる。主題的にも計算されつくされた展開である。
また二つの三角関係については、偶然でもなければ私が勝手にそう決めつけているわけでもない。二重性、ぶれは、この映画の構成原理なのであって、このことはホラー的要素とサスペンス的要素との共存と、最終的にホラー的要素がサスペンスの枠組みのなかで暗示的に解決することからもいえるのである。二重性の刻印は映画のすみずみにまで押されている。
【なお主人公の女性と埋められた女子校生とがパラレルになることで(ここにもある二重性)、主人公の被害者性が高まり、かろうじて観客の共感を得ることになるが、最終的に、彼女は共犯者だったことがわかる。】
ただし、こうした重なり合い、パラレル化を、この映画は「デジャブ」と呼んでいるようなところがある(映画の中で、この言葉は一度も使われないのだが)。ある出来事が過去の出来事と類似しているようにみえたり、はじめての経験なのに、過去に経験したことのように感ずるのが「デジャブ」であって、おぼろげな過去の出来事を思い起こすとか、トラウマ的に過去の出来事が想起されることは「デジャブ」ではない。だが映画では、主人公の女性が、過去の出来事をぼんやり思い出すことを(ぼんやりとは、薬物によって記憶があいまいになり、さらには夢と現実との境目がわからなくなるからだが)、デジャブと考えているところがあり、この点、多くの観客が違和感を抱いたところかもしれない。
とはいえ主人公の女性に抑圧された記憶がよみがえってくるような時には、映像がぶれるという映画的な処理がなされている。物が二重にぶれてみえることで、表と裏、光と影、夢と現実、虚偽と真実とが重なる予兆を示すことになる――二重性のドラマが展開するのだ。
また主人公の女性は、死んだ女子校生のイメージに絶えずつきまとわれるのだが、そのはじまりは、鏡にうつった女子高校生の姿だった(ただし主人公の女性は気づいていない)。この鏡のイメージは強烈で、鏡から抜け出た女子高生が主人公の女性を襲うようなパターンが反復される。と同時に、主人公の女性にとって、この恐怖の女子校生は鏡の中の自分自身でもあって、結局、自分の真の姿に向き合うことで彼女は真相を知ることになるともいえる。このあたりも優れた演出である――鏡像との戯れと二重性。
この映画は、工事現場で、そこに居合わせた4人が下敷きになって死ぬことで終わりを告げる。その4人とは、
1)主人公の女性のフィアンセで女子高校生を車ではねて隠蔽工作を行った男(女子高生の兄で刑事の男に拷問を受けて殺される)
2)最終的に工事現場の地下に埋められていた女子校生の死体、
3)その女子校生を探していた兄の刑事。そして
4)主人公の女性をフィアンセから奪おうとした反社の男で、女性のフィアンセによって殺された。この4人である。
しかしほんとうにそうか。4)の男性は殺されたらしいのだが、誰が殺したのか、その死体はどこにあるのか、映画のなかで説明されていない。主人公の女性が、観客の眼からみれば第一容疑者なのだが、同時に、観客の眼から見ればたぶん彼女が犯人ではない。4)の人物の友人でり、彼女のフィアンセである男性が一番怪しいのだが、彼が殺したかどうか説明はない。むしろ工事現場で死んだのは4)の男性(あるいはこの男性の死体)ではなくて、主人公の女性ではないだろうか。
というのも過去の記憶が、薬物によって曖昧になってしまったという状態は、記憶喪失状態のひねりであって、記憶喪失物の常で、記憶を失う人物は、いくら過去において恐ろしい犯罪者とかプロの殺し屋であったとしても、善人に生まれ変わる。彼女も過去においては共犯者であったかもしれないが記憶を失ったあとは善人になる(だからフィアンセの交通事故を警察に告発することいなる)。そのため工事現場の崩落事故を生き延びたと考えたくなるが、また殺されて埋められた女子校生というカウンターパートと運命を伴にして、そこで工事現場で死亡したともとれる。
映画の最後で崩落事故を伝えるニュースの映像とコメント(字幕)からは、すくなくとも日本語字幕を信ずる限りでは、はっきりしないのだが、また私が見落とした可能性も大きいのだが、ただすくなくとも、このニュース映像は、たんに観客に向けての情報提供以上の意味をもっている。
つまりこのニュースをみている関係者がいるということである。もし主人公の女性が生き延びたのなら、彼女が見ているのかもしれないが、もうひとり、確実に観ている人物がいる。それがすでに述べた、影の三角関係を構成する、刑事の友人の精神科医である(正確にいうと、その精神科医の机のうえにある幼馴染三人組(のちの女子高校生・のちの刑事・のちの精神科医)の写真を通して、それがわかるのである)。
これで女子校生を殺した三人組をすべて破滅に導いた影の三角関係の存在があきらかになる。そしてひょっとして、この唯一の生き残りかもしれない精神科医が、友人の兄妹のために復讐をはたしたのではないかという可能性が示唆されるのである。
すくなくとももう一度見る価値の映画であることはまちがない。二重性とは反復と関係するのだから。
