2022年02月23日

『パラレル・ライフ』

パラレルライフ 2
『パスト&フューチャー』よりも古い映画だが、呪われた場所、呪われた運命があり、そこからいかに逃れることができるのか、逃れられないのかが主題となるのは韓国映画『パラレル・ライフ』(2010)でも同じである。

こちらの映画は、過去の事件にみられる法則性から未来の事件も予見できるという設定のために数学者と、彼が発見するエセ法則が導入されたのだが、『パラレル・ライフ』では、リンカーンとケネディが似たような人生を送ったということを一例とするような、人間誰しも、過去の誰かの人生と同じ人生を辿っているというパラレル・ライフ理論をもってきて、過去の事件の反復が起きかけている現在のなかで、過去の事件を解明し、宿命から逃れようとする主人公の苦闘が描かれることになる。

映画.COMの映画紹介:

仕事一筋の敏腕判事ソクヒョンは、美しい妻ユンギョンと愛娘のイェジンと幸せに暮らしていた。だがある日、何者かにユンギョンが惨殺され、ソクヒョンは失意の底に落ちる。事件の調査を進めるうちに、ソクヒョンは30年前に自分と全く同じような境遇に陥った男の存在を知り、異なる時代を生きる2人の人物が、一定の時間をおいて同じ運命を繰り返すという運命の法則“平行理論”の可能性を疑い始める。新鋭クォン・ホヨン監督がメガホンをとり、人気韓流ドラマ「宮廷女官 チャングムの誓い」のチ・ジニが主演を務める。


この映画に登場する韓国の女優はみんな美形で見とれてしまうのだが、みんなあっさり死んでしまうのは残念。また子役(女の子)が、ほんとうに天使。またさらにリンカーンとケネディが同じ運命を繰り返していたことの驚き(これについては、どこかで聞いたようなかすかな記憶がないわけでないが)。そして最大の驚きは、ゲーデル(あの不確定性定理の)が餓死していたことである。餓死といっても貧困ゆえの餓死ではないのだが。

さてこの映画の肝となっているパラレル・ライフ理論だが、これは二人の人生が似ているということだが、その前提にあるのは、二人がまったく違うということである。差異が大きければ大きいほど、類似性が目立つ。最初から似たもの同士だと、少しの違いでも目立ってしまい、類似性が打ち消されてしまうこともあるが、最初から差異が大きいと、少しの類似性でも、差異を打消し類似性が強調されることになる。これが重要な第一点。

第二点は、反復性。ひとつのシナリオが、時と場所、そして登場人物を変えて反復されること。AとBとCの三人が殺し合って、みんな死ぬという出来事があると、それから時を隔てて、違った場所で、XとYとZの三人が殺し合って死ぬことがあれば、AとBとCの三人とXとYとZの三人はパラレル・ライフになる。

第一点の差異を前提としての類似というのは、アダプテーションである。最近はやりのアダプテーション。いくつも本あるいは論集が出ている。かくいう私もかつて、アダプテーションの論集に寄稿させていただいたのだが、それが今月、その第二版が出版された(このことについては別の機会に詳しくは報告する)。アダプテーション流行だが、アダプテーションの基本は、差異のうえに類似性を確立することである。翻訳の場合は、いかに類似させるかが問題になるのに対し、翻案(アダプテーション)はいかにして差異のあるところに類似性を打ち立てるかである。翻訳の場合、分身そのものを、できれば、分身以上の本体そのものをめざすのに対し、翻案の場合はパラレル・ライフである。戦国時代の物語を、現代の日本の物語として作り直すことが翻案である。

いっぽう反復性のほうは、シナリオという言葉を使ったことからもわかるように、演劇性とかかわる。同じ人物あるいは同じ人物の行動なり運命を、異なる俳優が演ずる。演ずる者が異なっても、劇行為そのものは同じである。またシナリオといっても、それは骨組みであって、細部はとくに指定がないから、最初の劇と次の劇で、様相が変わることもある。そうなると翻案と上演は同じようなものになる。まあ、第一点のアダプテーション性と、第二点のドラマ性は、同じひとつの現象の捉え方の差異ということになるだろう。

第一のアダプテーション性は表層構造を問題にしている。同じ構造をいかに変化をもたせたうえで多彩に有意義に時に斬新に飾り立てるかがアダプテーションの成否を決定するのに対し、第二の反復性は、構造あるいは深層構造そのものに着目する。多様な要素がいかにして同じ構造を共有し、また多様な血肉化のなかに、いかなる共通構造が潜んでいるかが焦点となる。

第一のアダプテーション性を軸に考えると、パラレル・ライフといえる事例は、さがせば見つかるのだが、その時、差異が大きい関係であればあるほど意味深いが、ただ、そのような事例は可能性として存在することはわかるがみつけるのに時間がかかる(困難をともない、みつからないかもしれない)。

では逆に身近な事例となるとどうか。一例としてあげられるのは親子関係である。子どもが親と同じ人生をたどることはよくあることだ。たとえば親の後を継ごうとか親を見習う生き方をすれば、当然、子供の人生が親と似てくることは当然である。また親に反発をして親と同じ人生だけは辿るまいとする子どもがいても、つねに親のようにならないと意識しているわけだから、子供の人生は親の人生を反転させたものになる可能性がある。反転というのは輪郭が同じということだ。写真のネガとポジ、あるいは絨毯の表と裏。同じ輪郭を共有しながらも、表層はがらりとかわる。反転というかたちにアダプテーションとなるが、これもパラレル・ライフといえる。

こんなことを考えているのは、パラレル・ライフ理論の成立可能性についてではなく、パラレル・ライフ理論の物語解釈への適応性についてである。またそれがどのようなジャンル(文学的、映画的)を発生させるかを考えたいのである――すでにアダプテーション、演劇、反復、反転イメージなどを提出した。

この韓国映画『パラレル・ライフ』においては、主人公の敏腕裁判官が、30年前に自分と同じ若手敏腕裁判官一家に起こった事件(裁判官夫妻と子どもが殺される)を、自分の家族が反復再現しはじめていることに気づき、「異なる時代を生きる2人の人物が、一定の時間をおいて同じ運命を繰り返すという運命の法則“平行理論”の可能性を疑い始める」ということになる。この場合、主人公が自分や自分の家族に起こりつつあることから、30年前の事件と同じ悲劇的結末をいかに避けるかが物語の要となるのだが、30年前と現在との交錯は、前回の『パスト&フューチャー』と同じである。

また30年前の同じ経過をたどる事件をいかに防ぎ、その悲劇的結末からいかに避けるかについては、再び同じ事件、同じ人生を辿るのだから、ループ物といえなくもない。というか疑似ループものである。ただ、ループ物とちがうのは(とはいえループ物と同じとも言える部分があるのだが)、主人公は、ただの生まれ変わり、あるいは生き代わりではないので、事件の結末は知っていても、細部がどうであったかはわからず、ループ物で記憶を保持する主人公ならわかるような事件の細部が、この場合、見えてこなくなる。過去の事件の全容はわからず、調査し推理して、過去の事件を探ることが、現在おこりつつある事件の惨劇化を未然にふせぐことになる。また現在の事件経過をとおして、過去の事件に光が当たる面もある。まさに『パスト&フューチャー』の世界。ただし『パスト&フューチャー』の場合は、基本構造はわかるが、同じ構造を共有する複数の事件が間歇的に発生するその周期あるいは間隔の法則性を探ることがメインとなり、さらに同じ構造が中途半端にしか反復されていないことの謎と、その謎をとくことが未来に起こる惨劇から犠牲者を救うことにもなる。

ループ物の場合、反復される惨劇を防ぎ、変えようとするセカンド・チャンス的行為と構造性の優位というか、どうあがいても運命は変えられないという悲劇的宿命性とに二分されると思うのだが、この作品は、みればわかるように答えははっきりしている。ネタバレになるので、これ以上は書かない。

たった一度の人生は、実つは二度目、三度目、いやN度目であると考えることになかに人生の意味があると私は思うし、ループ物は、それを意識させる。忘れてしまっているかもしれないのだが、私の人生は、これで2回目、あるいは1万回めだという意識が私の人生を変えることになろう。

これに今回のパラレル・ライフ理論を加えると、私の人生は、誰かの人生と同じであるということになる。私の人生は、すでに誰かが一度経験したものであり、いま私は、それを新たに経験しつつあるという反復性、あるいは決まった人生は、どうあがいても変えられないといいう反復する人生の運命悲劇。それがもつ意味をさらに追究してみたい。
posted by ohashi at 20:11| 映画 タイムループ | 更新情報をチェックする