2022年01月20日

『ハウンター』

自分の人生が何度も同じことの繰り返しというか、自分を人生をループしていると感じててしまう症候群があって、それに捕らわれた人間は虚無感にとらわれて最後には自殺してしまうという話を、米国のテレビドラマ『ブル』で知った。とはいえどのエピソードだったか忘れてしまい、どういう名前の症候群だったかもわからずじまい。いまCSで『ブル』の再放送をしているが、シーズン3かシーズン4のなかのエピソード(ただし、その症候群は余談のように語られたので、その回の主題ではない)だったと思うので、シーズン1が始まったばかりの再放送では、私が探すエピソードに辿りつける日までにはまだ時間がかかりそうだ。

タイムループ物はセカンドチャンス物の場合、最初の過ちなり失敗を正すことにもなって、うまくいけばハッピーエンドとなるのだが、うまくいかないと失敗の連続で地獄である。『オール・ユー・ニード・イズ・キル』は最後の勝利までに何度失敗したかわからない。失敗しても記憶は残るのという設定の場合、見かけは年をとらなくても、記憶が残っていれば精神的年齢を重ねることになり、疲労する。たとえ1年周期のループでも100回ループしたら、たとえ当人は1年しか年をとらないにしても、精神的には100歳の老人である。ル-プすることの疲弊感は、吉村萬壱『回遊人』が実に見事に描いている(この作品についていずれ語りたい)。

セカンドチャンスがあることは、夢だが、同じ失敗の繰り返しは地獄に閉じ込められているようなものである。賽の河原の話は知っているだろうか。反復は時として救いにもなるが地獄にもなる。

『ハウンター』Haunter(2013)は、ヴィンチェンゾ・ナタリ監督作品だが、この監督の『Cube』(1997)『カンパニーマン』(2002)『スプライス』(2009)までは見ていたのだが、『ハウンター』は最近まで見たことはなかった。怖がりの私は『ハウンター』はけっこうどきどきしながら見た。

主演はアビゲイル・ブレスリン。彼女の映画は『私の中のあたな』(2009)『ゾンビランド』(2009)『ザ・コール』(2013)『8月の家族たち』(2013)と見てきているので、さすがに健忘症の私でもすぐにわかったが、彼女が脚光を浴びたのは、言うまでもなく『リトル・ミス・サンシャイン』(2006)。この映画のなかで、アメリカ映画などではよくあるのだが、どこの家族にもいる独身の親戚(オジサンやオバサン)をスティーヴ・カレルが演じていた。彼はプルースト研究家の大学の教員で最近恋人にフラれたばかりのゲイ男性という役柄だった。その彼に私は自分を重ねた記憶がある。私も、また、どこの家族にもいる独身のオジサンだからだ。

『ハウンター』はアマゾン・プライムでも見ることができるのだが、そのなかのレヴューで最低だったものがこれ、

よくあるタイムループもの、これと言った捻りもなく驚くような展開はない。ハリウッド映画お得意の家族愛をホラーにぶち込むと言うスタイルも眠気を誘います。
ホラー系に必要なのは大きな裏切り、そしてなるほどなぁと納得させるだけの細かいディテールが必要。それを放り投げたら何でもありになる。この映画は典型的な何でもあり映画である。
個人的には、この手のストーリーや展開は散々こすり倒されたものであり斬新さは皆無。あの程度のラストで感動できるピュアさもない薄汚れたオジサンには、ただただ眠かった。
謎を謎のままにしていいラストは、よほど高尚なものではいといけない。この映画にそんなカタルシスはない。結論から言えば駄作である。

結論から言えば、こいつの頭が駄作である。確かに分かりにくいところはある。しかし同時に、他のレヴューでもわからないという意見のほかに、作品の構造というか構成を的確に読み解いているレヴューもあって、私も気づかなかったことを教えられた。そうしたレヴューを読めば自分の理解力のなさを痛感させられるだろうし、また作品への理解が深まるだろうが、この駄作男は、それもせず、自分の頭が駄作であることを棚にあげて、映画が駄作だとほざいている。

映画のせいにするな。自分のせいにせよ。もちろん、こういうと、最近の起こった刺傷事件の高校生について社会のせいにするなと語ったあほな政治家と同じ次元のことを話していると言われそうだが、いや社会のせいという私の立場はかわらない。駄作男が。自分の駄作ぶりを棚に上げて映画のせいにしたこと自体、そうした発想を許す社会のありかたに問題があると私は思っている。ふつうなら、自分の頭の悪さをさらけだして、映画のせいにするというのは、恥ずかしくてできないはずなのに、それを堂々とやるというのは、社会によって自分の行為は認可されていると、この駄作男は自信をもっているからだろう。いつから、こんなことになってしまったのか。

それはともかく、この映画を駄作だというバカがいるいっぽうで、高く評価するレヴューアーは多い。また内容については、ネット上の「映画ウォッチ」というサイトには、実に丁寧なあらすじが掲載されていて驚く。映画をみたら、ぜひこの映画ウォッチで確認されたい。こんなに丁寧に筋を追っている記述はみたことがない。そしてそこまで綿密に筋を確認するのなら、感想でもなんでもいいからコメントしろよといいたくなる。

以下ネタバレ注意。Warning:Spoiler

アレハンドロ・アメナーバル監督・脚本の映画で『アザーズ』(The Others)という映画があったが(2001年製作のアメリカ・スペイン・フランス合作のホラー映画。ニコール・キッドマン主演)、構成はそれと似ている。つまり今風にいうと事故物件に新たに住人が住み始める。『アザーズ』では、すでにいる住人が、なぞめいた新たな住人に悩まされるのだが、実は、すでにいる住人のほうが、幽霊で、新たな住人が現実に生きている人びとということだった。

幽霊(死者)と生者との交流がドラマを、あるいは恐怖を生むことになるが、『アザーズ』の場合、幽霊が自分が死んだことを知らず、生者たちを幽霊と思い込んでいる。『ハウンター』も、実は、四人家族で暮らしている少女が、幽霊からの呼びかけに悩まされているという設定だが、少女は自分ならびに自分の家族がすでに死んでいることを自覚するようになる――これはけっこう早い段階で少女は気づくので、観客のほうが置いて行かれそうになる。実際、この少女リサ(アビゲイル・ブレスリンが演じている)は頭の回転が速すぎるというか利発すぎる。結局、幽霊からの呼びかけは、この家に新たに住み始めた住人(同じく四人家族)のひとりオリヴィアからのものだったとわかる。

ちなみに、これは少女が活躍する話であって、まさに映画の王道を行く設定であるともいえる。少女こそ、映画における中心的存在であるのだから。

リサはウィジャボード(Ouija board)で死者と交信しようとするのだが(実際には自分が死者なのだが)、相手の生きているオリヴィアはiPadで交信してくる。そこが面白い。リサが閉じ込められている世界は1985年である。オリヴィアのほうは映画の公開時と同じ2013年である。だからリサが、知るはずもないiPadの操作がわかるのは、おかしいという意見と、リサの才気煥発な頭の良さが物語の原動力となっていると肯定的にみる立場と二つに分かれるようだが、私はウィジャボードというのがあることを知らなかったが、コックリさんのようなものかと容易に推測できた。iPadに初めて接する人は、よほど文明度の低い暮らしをしていないかぎり、その使いかはたわかると思う。だから、そんな変な設定ではない。

リサは1985年の自分の誕生日前日の一日に閉じ込められている。この屋敷では過去に子供が両親を殺害するという事件が起きる。やがてその息子が長じて、連続殺人犯となって、街で拉致した女性をこの家で殺して焼却する。また、自身も死んで、亡霊となってこの家に憑りつき、新たな住人となった家族を殺す。それは父親に憑りつき、発狂した父親が家族を殺すのである――映画『シャイニング』のような物語となる。リサの家族も父親に殺され父親も死んだようだ。そしてここにループがはじまる。

ただひとまずループを差し置くと、リサは、自分に交信してきた2013年のオリヴィアと接触するようになる。と同時に連続殺人の最初の被害者フランシスと接触できるようになる。フランシスは1954年の世界に閉じ込められている。1985年を起点として、1954年はから始まる呪われた家の物語。そして2013年の現在、いまそこに住む家族に危機が迫るということになる。

リサは16歳になる誕生日の一日前の時間を延々と繰り返し生活を送っている。しかし彼女は、両親や弟が無自覚ながら、自分は、ループしている現実に覚醒する。そして自分も家族もみんな死んでいることに気づく――おそらく父親に家族全員が殺される記憶がかすかに残っているのだろう。そこまではいいが、なぜ同じ日を繰り返すのか。日本風にいえば成仏できなかった少女とその家族の話なのだが、成仏できないまま憑りついているということか。

ここで日本のネット上のレヴューアーが無視していることがある。映画の冒頭、タイトルがでるシークエンスは、蝶々が暗い保管棚の周囲を飛びまわる象徴的場面である。保管棚にはおびただしい数の瓶が置いてある。アルコール漬けの標本のような感じがするが、その中身は暗くてよくわからない。叫び声をあげている人間のイメージが瓶のなかに浮かぶこともあるが、それも定かでない。最後の蝶々は、ある瓶の側面にとまるのだが、その瓶のなかに同じ蝶々の姿が浮かび上がる。ガラスの側面を境にして蝶々が対照的にみえる。その後蝶々は飛び去って、朝、目覚める少女の顔になる。

映画『コレクター』(The Collector,1965)は蝶のコレクターの男性が、女性を拉致監禁するが、彼女を死なせてしまう(『ハウンター』のフランシスの運命と似ている)。映画は彼が連続殺人犯になってゆく未来を暗示して終わるのだが、『ハウンター』において連続殺人犯は、犠牲者たちをコレクションして展示しているとみることができる。生きているときは直接手を下した。しかし死んでからは直接手を下せないので、父親の精神を操って、その家族に凶行におよぶよう誘導したとみることができる。

ではどう展示するのか。蝶のように防腐処理をした死体を針でケースに止めるのか。あるいは博物館のようにジオラマ仕立てにして飾るのか。しかし静止した状態では面白くない。そこで動画状態、少なくとも生きている姿をとどめておきたい。そのために同じ一日を繰り返すことになる。一日を無限にループするのは、ある種の防腐処理のようなものである。そして誕生日前の一日に少女は永遠に閉じ込められる。永遠の相でみれば、これは静止状態であるが、人間の時間尺度にすれば一日であって、動くジオラマのように犠牲者たちは死ぬ前もしくは生前の日常を永遠に繰り返すことになる。

蝶は、少女と少女の家族、そしてそれ以前の、またそれ以後の、犠牲者たちがコレクション状態で、この家に閉じ込められていることの象徴でもあろう。また、ただ一匹で、この保管庫あるいは保管棚の周囲を飛ぶ蝶は、自分の状態に目覚めて、外部に出ようとする、あるいは出ることのできた少女の欲望というか意志のようなものの暗喩だとみることもできる。

物語は、少女の家族も、この家の悪しき亡霊に操られていたこと、自分たちが死んでいることを少女と同様に思いだし、この家から抜け出ようとする。また少女は、過去の犠牲者たちや未来の犠牲者候補たちと接触することができて、犯人を捕まえ、彼が犠牲者を焼いた地下の火炉で、犯人自身を焼くのである。そして翌朝目が覚めると誕生日の日になっている。時間的には終わりのないループ、空間的にはこの屋敷の異空間に捕らわれ、コレクションの展示状態になっていた彼女は、そこから逃れ翌日に到達できたのである。彼女には家族から誕生日プレゼントが贈られる。家族の愛を取り戻した彼女は、こうしてハッピーエンディングを迎える。とはいえ最初から死んでいるので、日本風にいえば無事に成仏できた。あるいは家族ともども天国に召されたということか。

無事に死ねた、成仏できたのだから、まさにHappy Birth Dayではなく、Happy Death Dayである。この表現は、映画『ハッピー・デス・デイ』よりも、この『ハウンター』のほうに当てはまる。

ただし、もちろん最後までリサを呼ぶ声は消えない。天国にめでたく召されたか、また閉じ込めれるのか、一抹の不安をかきたてて映画は終わる。

ひねりがききすぎているかもしれないが、よくできた映画で、観る者をいろいろな意味で刺激してやまない。

ただし、それだけかというとそうではない。最初のほうに同じ日が繰り返される日常がある。少女は、反復に気づいているし、観客もそれに気づく。そこからなにが生まれるかといえば、現実が芝居がかってみえることだ。映画『時をかける少女』の原作の筒井康隆の『時をかける少女』(ジュヴナイル)では、同じ日の繰り返しに主人公の少女が、誰もが芝居を演じているように感ずるところがある(原文を引用すると――「まるで、おしばいをしているみたい!」)。日常の反復性に覚醒した者には、ありふれた日常を包み込むリアルの皮膜がはがれて偽りの嘘っぽい芝居がかった内実をさらすところがみえてくる。少女が感ずるこの苛立ちと恐怖と虚無感。それはまた十代の思春期の男女が抱くフラストレーションそのものだろう。

つまりこの映画の少女のいらいらは、なにも連続殺人犯の奸計で一家が殺されたのに自分以外の家族が誰も気づいていないという特異な物語をもちださなくても理解できる。そこには、ありふれた、そしてより恐怖の度合いが強い、あるいは嫌悪すべき日常が隠されている。十代の少女(あるいは少年)にとって、家族生活そのものが、抑圧的で、親は、自分たちを閉じ込める悪魔にみえるだろう。連続殺人犯が憑りつく悪霊の家という設定は、真の原因から注意をそらさせる安全弁でしかない。得体のしれない慣習が伝統が家族愛という重圧が、自由を求め外部に出たい若者たちを閉塞させる。家族愛は彼らを閉塞させるしらじらしい茶番劇なのだ。そのためこの映画があばく真相は、実は日常的な光景そのものである。この虚偽の日常、しらじらしい慣習実践、おしばいをしているみたいな家族愛は、十代の男女が感ずる日常への嫌悪をたっぷりしみこませた心象風景にほかならない。
posted by ohashi at 23:26| 映画 タイムループ | 更新情報をチェックする