2022年01月02日

くたばれ忠臣蔵

元日のテレビをみていたら、最近の10代の若者たちに認知されない言葉として『忠臣蔵』がトップにきたのを知って驚いた。と同時に、思わず、快哉の拍手をしてしまった。

まあ昔(とはいえいつ頃のことか?20世紀末までか?)は、テレビドラマで『忠臣蔵』が取り上げられたり、定期的に映画化もされて、忠臣蔵の物語は、一般にかなり浸透していた。それが最近は『忠臣蔵』のテレビドラマも映画化作品もなくなった。いまや『忠臣蔵』は絶滅危惧種か、もしくはすでに消滅しているのかもしれない。

だが私にとってそれは正月早々良いニュースである。

私は名古屋市出身の人間である。愛知県の人間は、いまはどうか知らないが、子どもの頃から、吉良上野介は、『忠臣蔵』では極悪非道の人間に描かれているが、実は、良い殿様だったという話を聞かされて育っている。まあ尾張の人間(名古屋市中心の地域)は、三河の人間をバカにしているのだが(私は、そんなことはないが)、それでも、吉良上野介の善政と名君ぶりは、その悲劇的な死とともに、語り伝えられている――まあ、あんな名君なのに非業の死を遂げてしまい三河の人間がバカだと尾張の人間があざ笑って、吉良=名君説を語り継いでいるとは、思いたくない、それでは尾張の人間は悪辣すぎる)。

だから私などは『忠臣蔵』に接するたびに、まさに抑圧され非業の死をとげた無念の名君のことが頭から去らない。吉良上野介の名君ぶりは、虚構かもしれないが、しかしでは、浅野内匠頭の側に、名君ぶりをうかがわせるような逸話が残っているかどうか――残っているのは、これも虚構かもしれないが、浅野内匠頭が切腹したという知らせに領民たちが大喜びをしたという逸話である(Wikipedia参照)。もちろん信憑性に乏しいのだが、信憑性のとぼしい名君神話と、信憑性の乏しい馬鹿殿逸話は、忠臣蔵の物語の圧倒的支配下においては、逸脱的・対抗物語性ゆえに真実味を増しているように思われる。

赤穂義士は江戸の町民には人気があったかもしれないが、忠臣蔵やそれに類する物語で描かれる浅野内匠頭は、その人間的美徳が褒められても、領民との関係はまったく見えてこないというか、そんなものは最初からなかった、領民にはたとえ憎まれてはいなかったとしても(いや実際には頭のおかしい色好みの殿様として憎まれていたかもしれないが)、愛されてもいなかったのではないだろうか。

私は頭のおかしい播磨赤穂藩の浅野内匠頭によって不当なまでにおとしめられ最後は非業の死を遂げた吉良上野介のためにも『忠臣蔵』は上演禁止、映画化禁止、テレビドラマ化禁止にしてほしいと思っている――そこで描かれるのは社会主義プロパガンダよりもたちの悪い偏向的物語なのだから。

ただ、禁止措置をとらなくても、いまや『忠臣蔵』は絶滅危惧種である。このままほうおっておけば安からに絶滅してくれる。

なお、愛知県人の抱いている『忠臣蔵』への不満と、ある意味、悲憤にかられた『忠臣蔵』論として、清水義範『上野介の忠臣蔵』 (文春文庫 2002)をお薦めする。Amazonの読者レヴューでは評判が良いのだが、どれも、この本を面白い冗談と受けとめているから評判がよいにすぎない。なかには、冗談だからもっと面白くしてもよかったという主旨のレヴューもあった。『忠臣蔵』による洗脳はかくも強いものかと絶句。むしろ『忠臣蔵』のほうが、真実を糊塗する悪い冗談だと、なぜ思わないのだろう。

posted by ohashi at 04:36| コメント | 更新情報をチェックする