原作は翻訳で読んだことがある。ディーノ・ブッツァーティ『シチリアを征服したクマ王国の物語』天沢退二郎/横山暁子訳(福武文庫、2008)を、以前に読んだことがある。本ももっている。これがアニメ映画になったのかと感慨深いが、なぜ、そんな児童向け童話を読んでいるのかと問われそうだが、アニマル・スタディーズ関連で動物物語には興味がある。そしてアニマル・スタディーズ関連の研究では、個々の動物についても専門的探究をすることがふつうだが、私の場合、対象は「熊」である。そのため熊に関するものには何であれ興味がある(ただし日本の熊事情については私など足元にも及ばない専門家からマニアまで多くの人がいるので、そこに介入するつもりはない。私の関心は、西洋における熊表象である)。
きっかけはアーサー王伝説においてアーサー王が死ぬときに熊になったというエピソードである。そもそも熊は、西洋人が実物のライオンを目にする前は、百獣の王と考えられていたし、直立歩行できる熊は人間にもっとも近い動物と考えられていた。シェイクスピアの時代のイングランドには「熊いじめ」という娯楽があったのだが、しかし、鎖につながれた熊いじめの熊の図像は、当時のウォリック伯家の家紋でもあって、ただの見世物の熊以上の象徴性を担っていた。などと話しはじめるときりがないからやめるが。
ブッツァーティの『クマ王国の物語』は、それにしても不思議な物語である。そもそもシチリアに熊はいない。山の多いシチリアには熊がいてもおかしくないとしても、熊がいた頃の昔々の話という設定とはいえ、完全に文明化された(船舶、汽車、サーカス、カジノ、銀行強盗などの)19世紀か20世紀の世界での物語になっている。熊は擬人化されているともいえるのだが、同時に、この物語の熊は、アレゴリー性をともないつつも、同時に、熊そのものでもある。ちょうど、チャペックの『山椒魚戦争』の山椒魚がナチスのアレゴリーであることは確かだが、『白い病』の病は、ファシズム化のアレゴリーかもしれないが、それ以上に、感染症そのものでもあるのと同じように、この熊は、もし熊が言葉をしゃべることができたのならという熊たちそのものである。
しかし、それよりもずっと気になっていたのは、この物語の主人公の熊の王の名前であるレオンツィオ。シシリア王のレオンツィオ? 私が知っている似たような名前の王は、シェイクスピアの『冬物語』に登場するシチリアの王レオンティーズである。まったく偶然だろうか。ブッツァーティがシェイクスピアのこの劇から霊感をえたのだろうか(この芝居と小説の物語はまったく違うから、パクリとかいうことではない)。
さらに気になるのは熊である。『冬物語』にはボヘミアの海岸に熊が出てくる。ボヘミアには熊がいる。この熊がシェイクスピアの時代に熊いじめのために捕獲されイングランドに売られてきた。しかしボヘミアには海岸などない。どうしてこうなったのか。一般にはシェイクスピアが『冬物語』の典拠としたのが、当時の作家ロバート・グリーンの中編『パンドスト』であり、本来ならシチリアの海岸に熊が登場するところ、シェイクスピアはボヘミアとシチリアの設定を入れ替えたので、ボヘミアの海外に熊が出没することになった。
問題は熊である。ボヘミアか、シチリアかよくわからないが、そこには熊がいる。そしてボヘミアの王の名前はパンドストだが、シェイクスピアはこれをシチリア王のレオンティーズに変えた。ブッツァーティの物語ではシチリアにレオンツィオという熊の王がいる。この連関を説明できる情報資源がないものだろうか。ずっと不思議に思っている。アニメ映画の上映を機になにかわかるといいのだが。
なお『シチリアを征服したクマ王国の物語』は、物語の随所に詩が登場する、物語と詩が同居している作品である。同じように詩が織り込まれている小説・物語というと、たまたま思い浮かぶのが、たとえばノヴァーリスの『青い花』であり、またこれは詩が織り込まれてはいないのだが、短篇と詩が交互にでてくるブレヒトの『暦物語』がある。これら三作品の翻訳を較べてみると――
ノヴァーリスの『青い花』(『ノヴァーリス作品集 第2巻』今泉文子訳、ちくま文庫、2006)は、散文の部分の翻訳は、実にみごとな訳文で、散文の部分が詩想にあふれ、さながら散文詩ともいえる完成度の高さを誇っているのだが、随所に織り込まれている詩の翻訳が、私の勝手な感想だが、なにか散文的で、原文が韻文とはとても思えない無味乾燥な翻訳となっている――意図的なものかもしれないし、原文の韻文を翻訳する場合、定型詩の形で翻訳しないとすれば、散文を行替えするだけのものとなってしまい、散文性はどうしてもぬぐえないことは分かっているのだが。
ブレヒトの『暦物語』(丘沢静也訳、光文社古典新訳文庫、2016)は、短篇と試作品が交互に登場するのだが、試作品の翻訳は、たんに行替えしたのではない、口調の良さがあり、また詩的な想像力をかきたてるもので、短篇の散文とおのずとコントラストが生まれていて素晴らしい。
そしてブッツァーティの『クマ王国物語』に織り込まれた詩は、子供のための新聞に連載されたとき人気がでて子どもたちが口ずさんだということらしいから、耳に心地よい定型詩なのかもしれない。翻訳では、スピード感のある語り口が、地の部分とのコントラストを際立たせていて、違和感なく読める。
最後に、
ブッツァーティの『タタール人の砂漠』は、同種の作品、ジュリアン・グラックの『シルトの岸辺』とかクッツェーの『夷荻を待ちながら』と較べて、一番肩すかしをくらったというか、え、その終わり方でいいのかとがっかりした記憶があるが、むしろ、その素朴さこそ評価すべきだったのかもしれないと、この『シチリアを征服したクマ王国の物語』をあらためて読んで思ったことを記しておきたい。
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