これはとくにタイム・ループ物の映画ではないのだが、パラレルワールドに行き、まったく同じ世界、まったく同じ自分に出会うという趣向は、タイム・ループ物に近いので、やや無理があるが、タイム・ループ映画にしてしまう。
なおアマゾン・プライムをはじめとして、いろいろなところで配信されているようなので今は簡単に視聴可能。私はDVDでみたのだが、DVDで購入する価値のある映画だと思っている。日本での、ネット上の評判はよくないのだが(海外では評判はよい)。
アメリカのSFスリラー映画と言っても、彗星が地球に接近すると不思議なことがおこる。そのなかを通ると、パラレルワールドに行ってしまう不思議な空間が地上に生まれるという設定。とくにそれ以上の科学的説明はない。
ウィキペディアによる内容紹介は以下のとおり。
あらすじ
ミラー彗星が地球に最も接近する日、エムは恋人のケヴィンと伴に、友人リーとマイクのホームパーティーに訪れる。ワインと料理を囲み、久々に集まった男女8人は、彗星にまつわる奇妙な出来事の話題で盛り上がる。すると突然、停電で部屋が真っ暗になり、パニックになる8人。不安に思ったエムたちは、隣家の様子を見に行くことに。しかし、エムたちが目撃したのは、まったく同じ家に住む、まったく同じ自分たち。さらには、家の前に置かれた謎のアイテムと、自分たちの写真。次々に起こる不可解な現象に戸惑う8人。彼らは徐々に互いに疑心暗鬼になり始め、やがて別世界の自分たちが、同じ空間に同時に存在するという驚愕の事実を目の当たりにする。
あらすじの常だが、これだけで、この映画の魅力は伝えられない。まずこの映画は、同じような設定の『The Loop永遠の夏休み』も、この映画のような工夫をすればもっと面白くなったというくらい洗練されている。というのも『The Loop』と同様に、閉じ込められた8人が、自分と出逢う話である。『The Loop』のほうは、自分の死体と出逢うという衝撃的展開になるが、この映画では停電で閉じ込められた8人の男女が、自分たちのドッペルゲンガーと出逢う話である(ウィキペディアの紹介のように)。ただし、そこまでわかるのに緊迫の展開があり、状況がわかっても、さらなる展開が待っている。
ホームパーティに招かれた8人が、近くの家に、まったく同じ8人がいるらしいとわかる。彗星接近による超常現象によってパラレルワールドにいる人間が共存することになったということのようだ。しかし彗星が去ったときに、生き残るのはどちらのパラレルワールドになるかという問題が生まれる。相手の8人を出し抜き、彼らを消滅させるよう計画をねる。しかし、実はあちらの彼らのほうが先手をうっていて、あちらの人間がすでにこちらにまぎれこんでいた。ドッペルゲンガーなので区別がつかなくなる。しかし、それだけではない。さらに驚愕の事実が……。つまりいまいる8人も、実は、もとからいる8人ではなく、複数のパラレルワールドからやってきているということがわかる。
こうなると元いた世界にもどる、あるいは8人が本来の世界で、あるいは8人のいる世界が生き残れるのかという問題が、心理的な陰影を帯びることになる。そもそも、たとえもとの世界に戻れたとしても、そのもとの世界の8人も、いろいろなパラレルワールドの寄せ集めではないという保証などどこにもない。これはパラレルワールドをもちださなくても、人間社会は、エグザイルの群れであり、みんなパラレルワールドに住んでいるといえなくもない。コミュニティなど存在しない。あるのは孤独な個別的な個の寄せ集めにすぎない。あるいはエグザイルとしての私は、どうしても周囲になじめない――まるで私がパラレルワールドに紛れ込んでしまったかのように……。
彗星とパラレルワールドという設定は、私たちの社会と個人のありようの暗黒面のメタファーとなっているとすれば、そのなかで生存のための妄想的な欲望の成就もまた見出せるのである。
たとえば、主人公といえる女性(エミリー・バルドーニが演じている――とはいえ彼女については時々アメリカのテレビドラマにゲスト出演しているのをみるくらで、私個人は、よく知らない女優なのだが)は、嫉妬と疑心暗鬼、生存の不安に引き裂かれたいまいるグループに嫌気がさして家の外にでると、そこには複数のパラレルワールドから来たとおぼしき8人が暮らす家が点在している――これはタイムループ的設定を空間化したといってもいい。彼女は集団の様子をひそかにさぐり、そのなかでもっとも良好な人間関係にあると思われる集団のなかにまぎれこむ(そこにいるもうひとりの自分を殺して)。
この最後の展開は衝撃的なのだが、彼女が演劇関係者として、演出家であり女優であり、しかも有名女優のアンダースタディを要求されてプライドからそれを断り、最終的に演劇関係の職を失ったこともわかっているので、彼女のなりすまし行為は、ある意味、演出家で演技者である彼女の願望充足という面もある――事実、なりすましたあと緊張のあまり失神し、翌朝をむかえるとき、すべてが夢であったかもしれないという暗示が生まれるのである。とはいえ夢ではなかったという証拠(指輪)もでてきて、おそらくなりすました彼女に罰が下るであろうという結末が暗示されて終わる。
しかし、この映画のへんな魅力は、ミステリアスな面だけではない。8人の男女がホームパーティの場で、それぞれの過去があばかれてたり、現在のどろどろの人間関係が浮き彫りになるという展開は、彗星さえ出てこなかったら、良質の舞台劇的なビター・コメディになってもおかしくなかった。
私が思い出すのは映画館でみたイタリア映画『おとなの事情』(Perfetti sconosciuti 2016)である。「7人の男女が集まった食事会で、スマートフォンの通話やメールの履歴をさらけ出すゲームをきっかけに、夫婦や友人間にさまざまな疑惑が巻き起こっていく様を描いたワンシチュエーションコメディ」(ウィキペディア)。もちろんこの映画はヒットして、世界各国でリメイクされた。日本でも2021年テレビドラマでリメイク。実際、彗星さえ出てこなかったら、この映画は、『おとなの事情』のプロトタイプともいえる良質のコメディとなっていたかもしれないのだ。
もちろん『おとなの事情』のような複雑な人間関係がからみあう面白さは、この『ランダム』の狙いではないだろうが、それにしても男女8人のディナーでの会話、また異変が起こってからの対応などが、なにか自然で、あくどさ、わざとらしさがない(いい意味で)。こうしたミステリー・サスペンスの常で、物語の展開に沿って、ヒステリックになったり、パニックになったりを、へんに誘導的であったり、ミスリードしたり、教訓をたれたり、突然深淵な哲学を開示したりと、わざとらしさが満開となり、観ている側が辟易することはよくある。しかしこの映画では、それがない(いい意味で)。各人物の対応が、パニックになっていても冷静で、感情がたかぶっても、頑固さをつらぬいたりしないなど、とにかくわざとらしさがない。
しかも、このわざとらしさのなさは、伏線を回収する計算し尽くされた設定ならびに物語との対比から、ますます際立つのであって、演出そして演技には大いに感銘をうけた。
ただ、それもそのはずで、この映画では監督は俳優たちに台本を渡さず、その日の撮影の到達目標のようなものを書いたメモだけを渡して、あとはアドリブでの演技を要求したとのこと。なかには彗星が接近して超常現象が起こるという映画の設定すら知らなかった演者もいたという。たしかにこの映画には、計算したシナリオでは出せない、こまかな意外性と蓋然性とがにじみ出ている。それもアドリブ演技のゆえだろう(この映画のなかでエミールと呼ばれている男は、実は、共同脚本のライターでもあって、彼がまじることで、出来事や演技が脱線しすぎないように調整したとのこと)。
とにかくこの映画は、謎の状況とその解決という知的な面と、俳優たちのアドリブ演技の自然らしさと緊張感、そこにかもしだされるオーセンティックな日常性といった面で、充実した映画体験を観る者に与えてくれるのでる。
しかもメタ的要素も忘れられていない。この映画の設定では、家の周囲にある漆黒の闇の部分を通りぬけると、もといた世界から、パラレルワールドにとばされてしまうのだが、その闇の部分は、夜の戸外の場面は全体に暗いから、よくわからない。しかし観客は漆黒の闇には最初から遭遇している。
映画は、小刻みに暗転を繰り返す。とりわけ最初の方は。これはフェードアウトとはちがい、一定の時間場面が展開したあと、暗転となり、次の場面へとつづく。暗転すると、その間、時間が経過し、なにかが変化したという印象をうけるが、暗転前と暗転後で、ほとんど時間差がないような場面も多い。そう、この種の暗転は、その前と後で時間が経過する、あるいは何かが変化するように思えてならないのだ。たとえば舞台なら、長い暗転は、舞台の模様替えである。そしてこれが一般的なので、短い、一瞬暗くなるだけでも、なにか変化が起こったのではないかと錯覚する。そして、なにも変化が起こっていないと……。
――実は、これがこの映画の深いたくらみである。つまり連続したシークエンスを、何度も暗転で区切ると、実際には何の変化がないのに、何か変化が起こったように思えてしまう。そしてこの映画の設定では、確かに起こるのだ。
男女八人が、気が付くと、ほぼ全員、別のパラレルワールドからやってきた人間に入れ替わっている。どこでそんなことが思うのだが、それは、この小刻みな暗転とともに起こっていたのだ。断片と断片のあいだに連続性はないのだが、それが連続しているかに思えてしまう(映画は、連続を断片化することによって、連続ではないようにみせてしまう)。そしてその変化は、暗転の前後でおこる。暗転――漆黒の闇。映画のなかで語られるパラレルワールドへはじきとばし、またパラレルワールドを招きよせる闇は、映画の暗転それ自体のメタファーにもなっている。デジタル撮影の現在では想像もつかないかもしれないが、フィルム映画というのは、黒い境界帯で区切られた静止画を、映像の断片を、高速でつなぎ合わせることで、動画にするものだった。暗黒帯が、断片をつなぐ。
私たちの世界は映画のように出来ている。断片の寄せ集めなのに、それが連続している時空体であるかのように錯覚している。私たちの人生もまたしかり。私たちの共同体もまたししかり。
IMDbでは、映画のなかで、こめかみのあたりを切ったヒューは、傷口に絆創膏をあてられ手当てされるのだが、その絆創膏が、それ以後の場面で、あったりなかったりすることをGoof(失策)として指摘している。たぶん、そうだろう。細切れに撮影するために、絆創膏の存在をうっかり忘れてしまうということか。
しかし、この映画の設定では、絆創膏があったりなかったりすることで、それが別人であることを暗示している。実際、映画のなかでも、絆創膏の種類が違うと指摘されてもいるのだ。だから、貼った絆創膏があったり、なかったりすることは、失策であると同時に、映画のなかでは、なりすまし、すりかわり、パラレルワールドの交錯の証左となるのである。映画の傷口は治療されたり放置されたりしながら断片性と全体性(お望みなら映画の原タイトルをつかってCoherence首尾一貫性)の点滅を、どこまでも光と闇の交替と点滅をやめることはないのである。
