2021年10月25日

『ザ・ドア』2

後半から終盤にかけて、にわかに面白くなって、さすが原作がアキフ・ピリンチだけはあると感動すらする。『猫たちの聖夜』の猫ミステリ作家アキフ・ピリンチ。映画の原作は、猫ミステリー・シリーズとは異なり、また翻訳もされていないし、私自身、読んでもいないので、映画がどのようにアダプテーションしているのかわからないものの、映画から原作の面白さは伝わっているような気がする。

おそらく緊迫した展開のなかで、一方にあるのは、失敗した現在から失敗をまだ知らない過去への逃走という身勝手な犯罪的な行為、もう一方には、過去の失敗をなんとしても防ぎたいセカンド・チャンスを求める人間の切つない願望と苦悩、この両者の間でテーマ的な緊張関係が認められ、観る者の意識がはげしくゆさぶられるのである。

結末は、ある意味、予想どおりである。何処でもドアならぬ、5年を隔てる二つの世界をむすぶタイムマシン的な洞窟と扉を主人公はあえて破壊し、ふたつの世界の行き来はできなくなる。5年前の母と娘は5年後の世界に逃れ、5年後の世界からやってきた妻とダニエルは、この世界に取り残されるが、失った夫婦愛を取りもどすかにみえる。

Amazonのレヴューに次のようなものがある――

5つ星のうち4.0  因果の鎖は遡れない。もし遡れたら…こうなる!
2020年3月20日に日本でレビュー済み

前半は退屈ですが中盤から面白くなります。もし5年前に戻って人生をやり直せたら、果たして幸せになれるのか?というテーマ。この作品を通して、結果的にはそうとは限らないということを納得させられますし、そもそもタイムスリップ自体があり得ないということがよく理解できます。中々ショッキングな展開で、反面教師的な意味で見て損はないという感じでしょうか。



現実問題として、上を見てもキリがありませんし、下を見てもキリがありません。もっと幸せになれたかもしれないし、もっと不幸せだったかもしれません。どこの国の、いつの時代で、どの両親の元に誕生するかで人生の枠組みはほぼ決まってしまうようです。しかもこの選択のルールは神秘に満ち溢れ個人の手に余るものです。こういった現実を直視すれば、無理に人生を変えようとしない方が利口です。この作品の核心は大体こういうことだと思います。


私は親ガチャということを認めたくはないのだが、こういう意見があると、親ガチャが正しいののではないかと思えてくる。やはり馬鹿な親から生まれるから、こういう馬鹿な意見しか言えないのだろうし、やはり日本人に生まれたから、この程度のことしか言えないのかという批判に、このレヴューアーは理屈からして反論できない。お前がバカなのはお前の責任じゃない、お前の親がバカだから、親の顔が見たいといわれても、このレヴューアーは平気でいられるのだろう。まあ日本人だからバカなのはしかたがない。バカに生まれついたのだから、へたに意見など言おうとしないほうがいいと言われても、バカな日本人らしくへらへらとい笑っているのだろう。まあ、このバカが自説に従うのなら反論などできないのだから。

「こういった現実を直視すれば、無理に人生を変えようとしない方が利口です」というのなら、あなたは周囲にいる者たちの愚かな生き方や人生を無理に変えようとしてはいないか。そもそもバカなのは親と国籍のなせるわざで、運命みたいなもの、運命を変えようとしてもしかたがないのでは。つまり無理に人生を変えようとするのは利口ではないということは、無理に人生を変えようとして、あえいできた人たちの人生もまた変えてはならいなのでは。決まったことを変えてもしょうがないのなら、決まったことを変え続けようとする行為もまた決まったこととして変えない方が利口です。

このレヴューアーはこの映画に即して説教をしているので、この映画に話をもどすと、映画とか物語とは、どんなにあがいても運命は変えられないというのが定番の結末であるのだが、同時に、運命は変えられないかみにて、実は変わっていたというのも定番の結末であって、両者は往々にして共存する(以前映画『11モンキーズ』や短編「アンチクリストの誕生」について、このことを触れた)。

この映画ではファンタジー仕立てで、変えられない運命が変えられる。もちろんファンタジーだから、変えられた運命にはまたつけがまわってきて予期せぬ負の部分が立ち上がる。時分の人生を変え、死んだ娘を取りもどしたいという、悔悟の人生を送る父親の切なる願いが、逮捕をまぬがれて逃亡したいという犯罪者の身勝手な願望と重なってくる。もし自分の人生を変えられるのなら、犯罪者もまた罰を免れることになる。得るものがあれば失うものがある。いいかえると得るものには良性面と悪性面とがある。この危険と表裏一体化した願望を実現する装置を、この映画では最後に壊すことになる。

5年の時差のある両世界をつなぐドアは、悪魔も招き入れる危険なドアであり、最後にそれを破壊することで、世界は安定を取りもどす。

ただし、たんに危険な装置を壊したというたけではなく、そこにはさまざまな主題がからんでいる。

このドアを主人公が壊したのは、5年後の世界に逃れていった5年前の妻/母と娘がつかまらないようにしたためである。これを忘れてはならない。つまり娘を失ってから悔恨の日々と送る主人公は、娘の死をとおして、娘と妻への愛を5年後の世界において回復していた。だからこそ5年前の世界によき父親でありよき夫して帰還しえた。彼の人生は変わっていたのである--タイム・ループする以前に。そのご褒美であるかのように、あるいは奇跡が起こったかのように、5年前の世界にもどった彼は、家族から愛されるようになる。そして彼はその愛に応えるべく、危機の迫った5年前の妻と娘を、5年後の世界に逃がしてやる――主人公自身が犠牲となることで。こうして彼は一度は破綻していた人生をもとにもどしリセットしただけではない。修復された家族愛を、自己犠牲を通して最後まで全うしたのである。

こうしてドアの破壊は、ドアが悪用されないためにドアそのものを破壊するという社会的倫理にもとづく行動であると同時に、妻と娘との永遠の別れを覚悟しつつ、二人を守るための家族愛に基づく行為であるともいえる。いずれにせよ主人公の人生は、結局娘を失うことになって運命はかわらない、あるいは運命はかえてはならないかみえて、同時に、愛の奇跡というほどのものではないとしても、確実に変わっていたのである。

繰り返すと、主人公は、直接的ではないとしても、半ば自分の責任で娘を溺死させる。またそのことで妻とも離婚して5年たつ。しかし主人公にとって、娘への愛は冷めていて、娘は溺死する前にすでに死んでいたようなものだし、妻とは離婚する前にすでに家庭内離婚状態だった(近所の同じ画家仲間の女性と浮気をしていた)。しかし娘の死を契機に、娘への愛を取り戻し、妻と離婚することによって妻への愛も回復した主人公は、しかし、悔やんでも悔やみきれない、すでにとりかえしのつかない自分の人生をはかなみ自死を選ぶのだが、奇跡的に5年前の過去のもどり娘を助け家族の愛をとりもどす。失敗した人生をやりなおすことができた。

もちろん、そう簡単に過去の過失をなくし、人生をリセットできるのなら、人生の意味がなくなる。人生はやりなおしがきかないところに意味がある。いやそれどころか、簡単に人生がリセットできるのなら、それを悪用して、犯罪者が過去にもどって処罰を逃れることができる。犯罪者がべつの人生を選択して、そこで悪事のかぎりをつくすこともできる――処罰されることなく。タイムマシンができて過去へ移動できるなら世界は終わり、人間は破滅することは目に見えている。

しかしタイム・ループ物の設定の根底にあるセカンド・チャンスを求める狂おしい願いは、簡単に実現してはならないどころか、そもそも現実において、実現するはずもないのだが、実現しないがゆえに、手段と方法をかえて実現させずにはいられない――それが人間だから。たとえばファンタジーにおいて人間はタイム・ループを実現する。セカンド・チャンスの夢をみる。

映画におけるタイム・ループ物の流行(はたしてほんとうに人気があるのかどうかは別として)は、現在の格差社会において、格差が固定され、社会がますまる流動性を失い、親ガチャの時代なるがゆえに(「こういった現実を直視すれば、無理に人生を変えようとしない方が利口です」と説教をするネトウヨ的偽善者が出てくるがゆえに)、逆に、いつでもリセットがきくゲームと同様に、頻繁に出現することになったともいえる。タイム・ループ物の出現と流行は、タイム・ループできない現実と社会への絶望に由来する(それを絶望は無意味だ、現実は変えられない、格差はなくならない、あがいてもだめだ、あきらめるのが利口だと説教する者には、説教することによって何かを変えようとすること自体、おまえの言っていることと語っていることとの言行不一致だと嘲笑を投げかけてやれ)。

しかし格差社会の出現以前から、人間はタイム・ループを実現する領域をこしらえてきた。文学、それも小説ということで。タイム・トラベル、タイム・リープ、タイム・ループといったSFジャンルのことではない。そうしたジャンルの出現以前の小説というジャンルそのものが最初からタイム・ループ物として設定されていた。

たとえば

あなたは一語一語を追いながら、いつしかプルーストの世界に入り込んでゆく。目的地を知らされていない長期にわたる航海。しかしそれが、読書というものではなかっただろうか。二重人格の話とは知らずに『ジーキル博士とハイド氏』を読んだ一八八六年の読者。犯人を知らずに『アクロイド殺し』を読んだ一九二六年の読者。彼らと同じように、まったく新鮮な感動とともに、プルーストを読む愉しみ――それが読者を最後まで導いてゆくのではあるまいか。というより、それがなくて、どうして最後まで読み続けることができるのか。


とプルースト『失われた時を求めて①第一篇「スワン家のほうへⅠ」』(光文社古典新訳文庫2010)の「訳者前口上」で訳者の高遠弘美氏は述べる(p.13)。読者を作品世界へと誘うこの魅力的な文章を批判するつもりなどない。作品への導入のためのレトリカルな文章に対し、「ちなみに何も知らない無垢な読者というものは存在しませんよ」と批判するのはたやすいが野暮というものだろう。ただ、何も知らない読者がわくわくしながら作品の世界を読み進むというイメージが、よりにもよってプルーストの『失われた時を求め』を材料にして語られるのは何とも滑稽だといいたいのである。

通常の小説がなぜ過去形で語られるのかについていろいろな議論がある。読者にとっては、事件は読者のいまとここ、読者の現在で起こっているのであって、上記の引用のとおりである。読者は先がわからぬまますすむ。ところが小説の語りは過去形なのであって、事件はすでに終わっているらしい。ところが読者は事件が終わったことも、どう終わったことも、まったく知らされていない。では、いま読者というのはどういう立ち位置にいるのだろうか。それは二度目の(ことによるのn度目の)人生を送ったり目撃したりしているのだが、あいにく記憶喪失でいる――ただ、これが二度目(n度目)であることは意識しているということである。読者はタイム・ループしている。一度起こったことを再体験している。タイム・ループは小説の誕生とともに始まった。

ただし、こうしたことは通常の小説では、むしろ隠されている。読者は、事件の当事者あるいは原因であれ目撃者であれ、未知の展開を、ただ初めて体験するにすぎない。しかし、時々、これが二度目の出来事、回想色に強く彩られる作品が登場する。

プルーストの『失われた時を求めて』では、語られることは最初の人生ではなく第二の人生である。読者は、すでに終わったこと、とりかえしのつかないこと、変えられぬ運命のようなものをひしひしと感じながら、同時に、未知なるがゆえの多様な可能性を想起しながら先に進む。読者は、出来事についての記憶を喪失していながら、第二の出来事・人生を歩むタイム・ルーパーなのである――『失われた時を求めて』は、このことを記憶喪失の読者に片時も忘れさせない(なおこの洞察を私はアドルノ『プリズメン』(ちくま学芸文庫)から得ているのだが、詳しいことはいずれ)。なお、この長大な小説そのものがループ作品であることはいわずもがなのことではあるが、指摘しておく。

私たちは、自分の人生をどう生きているのだろうか。予言者でもない私たちは自分の人生の先行きや終わりはまったくわからない。そのため一度の人生を無我夢中でがむしゃらに、あるいは一度しかないのだから有意義に生きるか、運命は変えられない、なるようにしかならない、親ガチャだとして、なにもしないか、ひたすら与えられた責務だけをこなす受動的な人生かの、いずれかとなりそうなものだが、いくら運命は決まっているといっても、何もしない人生を西洋人(とりわけドイツ人)は許容するわけがない。

一度しかない人生だから有意義に生きるという考え方は、しかし、どうせなにをしても運命は決まっているという悲観論と矛盾対立することになる。もうひとつの考え方は、先に述べたEinmal ist Keinmal (アインマル・イスト・カインマル)。ドイツのことわざ。一度はものの数に入らない。反復ではないと意味がない。私たちはいま少なくとも二度目の人生を送っていると考えることで、たとえ結末は決まっていても、なにをしても同じかもしれないが、少なくとも二度目であるという意識は私たちの生き方に変化と意味をもたらすだろう。なにもしないで生きた一度きりの人生、無我夢中で生きた一度きりの人生、一度しかないかけがえなのない人生を有意義に生きようと頑張った人生、いずれも一度きりの人生は、生きたことにはならない。アインマル・イスト・カインマル。

そもそも、一度きりの人生だから有意義に生きようと思うとき、あるいは何をやっても運命は変えられないという思うとき、あなはたは、すでに二度目の人生を生きていたのではないのか。あなたは、タイム・ループしているのである。

あるいはこうも言える、恋はデジャヴ、人生もデジャヴ、と。

映画は、5年後の主人公が、5年後のからこの世界にやってきた元妻とともにプールの脇にたたずむところで終わる。SFというよりも、あるいは『ボディ・スナッチャー』というよりもファンタジーともいえるこの映画は、ここでその特徴を十全に発揮する。つまり、この映画の最後は、べつに説明はないし、そうでなければならないということもないのだが、夢オチの可能性を臭わせている。5年前の世界にタイム・スリップをして娘を助け、家族愛をとりもどす物語は、死んだ娘への断ちきれぬ思いが抱かせた夢あるいは幻想にすぎなかった。そして最後に夢から覚めた。

妻も同じである。娘を死なせた夫を許すことができず離婚したが、5年前の世界で娘が生きていることを知った元妻は、みずから5年前の世界で死んだ娘と再会をはたすのだが、その5年前の世界にいる過去の自分と葛藤状態になり、最後には、娘のためを思って娘を手放すことで、娘への利己的愛から真の家族愛に目覚め、また娘のためにみずから犠牲になろうとした元の夫を許す気持ちにもなったのではないか。たとえそれが夢のなかの出来事だったとしても。

娘を失って夫婦関係も解消した夫婦が、そのようなファンタジーを共有することで、再び夫婦愛を取りもどすことになった。前と同じように娘はいなくなったままだが、冷え切っていた夫婦愛が穏やかに復活した。それがこの映画の結末ではないだろうか。たとえ夢だったとしても、よい夢だった、と。また夢落ちでないなら、この夫婦がこれから暮らす郊外の住宅街は殺人鬼に乗っ取られている恐怖の住宅街ということになり、そんなところに誰が住めるというのだろうか。

失ったものは取りもどせない。もし簡単に取りもどせるようになったら私たちの倫理観はおかしくなるだろうし、私たちはみんな過去の自分を殺害する犯罪者になりさがる。しかしファンタジーのなかでなら夢のなかでなら(小説のなかで、映画のなかでなら)、失ったものは取りもどせる。もちろん夢から覚めたあとでは、喪失感がさらに強く私たちを襲うとしても、同時に、失ったものと出会えた夢やファンタジーや小説や映画は、私たちの精神を変えるのである。おそらく良き方向に。愛と許しの方向に。それがファンタジーの、そして死者の力である。映画とはまさにそのような治癒的なファンタジーという側面ももっているのである。そしてこの治癒的なファンタジーは、人生がデジャヴであることを実感させるのである。
posted by ohashi at 00:34| 映画 タイムループ | 更新情報をチェックする