2021年10月23日

『ザ・ドア 交差する世界』

原題Die Tür 英語題 The Door

マッツ・ミケルセン主演のタイム・ループ映画。SFというよりはファンタジー・ミステリーで、途中までくると先が見えてあとは惰性で最後までと思うと意外な展開がまっている。そのため最後まで飽きさせない。101分のドイツ映画。

マッツ・ミケルセン主演なので、ドイツ映画なのに、終始、北欧のどこか、ノルウェーかスウェーデンの映画(ミケルセン出身のデンマークとも思わず)と終盤まで思い込んでいて、聞こえているドイツ語もすべて北欧の言語にしか聞こえないというボケ具合に自分で自分が恥ずかしくなったが、ただ、とくにどこの国とは設定されておらず(ドイツで撮影されたのだがドイツらしさは希薄になっている)、北ヨーロッパのどこかの国という基本設定らしく、私の混乱も理由がないわけではないとあとでわかった。

マッツ・ミケルセンがアリシア・ヴィキャンデルと共演した映画『ロイヤル・アフェア』で私は、かつてデンマークの公用語がドイツ語だったということを知った。その過去の歴史があってか、デンマークはドイツ語がけっこう通用するらしく、ミケルセンもドイツ語が話せるし、映画のなかでミケルセンはドイツ語で話しているのに、デンマーク語ではない北欧語とまちがえていた私はやはりバカだった。とはいえミケルセンのドイツ語を収録したヴァージョンと、ドイツ語の吹き替えヴァージョンのふたつがあるらしく、私がみたヴァージョンがどちらかは不明。

日本版Wikipediaには映画の内容が詳しく紹介してあるので、その一部を紹介すると

有名画家のダヴィッドは、妻マヤの留守中に隣人で愛人のジアとの情事を楽しんでいた。ところがその間に、1人娘のレオニーが自宅の庭のプールに落ち、後になって気付いたダヴィッドはレオニーを救出しようとするが既に事切れていた。5年後、娘が亡くなった要因の一つが愛人との情事であったことからも、幻滅した妻マヤから別れを告げられており、全てを失ったダヴィッドは娘と同死に方をしようと入水したが、友人のマックスに救助され死ぬことができず、とりあえずはマックスと酒を飲んでひとまず落ち着く。気晴らしに外に出たダヴィットは不思議な蝶に導かれるままに怪しいトンネルに入って行く。そして奥のドアをあけると、そこは5年前のレオニーが事故に遭う日であった。ダヴィッドはすぐに自宅の庭に駆けつけ、プールに落ちたレオニーを救い出す。……


娘が自宅のプールで溺死とその救出。ならびに死んだ娘が死の世界へと誘いというのは、ニコラス・ローグ監督の『赤い影』(Don’t Look Now 1973)を彷彿とさせるし、実際、その影響あるいはオマージュ的なシーンもある。ただし、死んだ娘からの死への誘いをふりきるかたちで主人公はタイム・ループする。

ただ、娘を救出したのだが、

ジアとの情事を終えて帰って来た「5年前のダヴィッド」がダヴィッドを泥棒と勘違いして襲いかかってくる。2人はもみ合いになり、ダヴィッドは誤って「5年前のダヴィッド」を偶然あった鉛筆で首を刺して殺してしまう。ダヴィッドは「5年前のダヴィッド」の死体を庭に埋め、この世界のダヴィッドとして生きて行くことにする。……


5年前の旧ダヴィッドは情事に行く前に自宅の電話が鳴るのだが放っておく。5年後の新ダヴィッドが電話を止めるのだが、情事の間中電話が鳴り続けていたのか、一端、やんだ電話が再びなり始めたのか、そのへん気になると気になり始めるのだが、ただ映画そのものは、そこをとくに掘り下げてはいないようだ。

5年前と5年後の世界を隔てる洞窟というか、洞窟の扉がどういうものか、なぜそこにあるのか一切説明はないので、そういうものとしてしか受け入れるほかはない。したがってこれは、ファンタジージャンルということになる。つまりSFではないしSF的でもない。ドラえもんの「どこでもドア」も科学的説明はないのだが、未来のテクノロジーという理由付けがあって、それでSFに分類されているとすれば、ここではそうした疑似説明もないので、ファンタジーというほかはない。

また、すりかわりが問題となるのだが、5年前の自分に5年後の自分がすりかわるので、偽物が本物にすりかわったわけではない。本物が本物になりすましたのである。さらにいえば過去の自分を殺しても、未来の自分が存在しうるのかというタイム・トラベルSFによるタイム・パラドクスは完全にスルー。ターミネイターは歴史をかえるために、サラ・コナーやジョン・コナーを殺しにこなくてもよいということになる(映画『ターミネイター』フランチャイズ参照)。

ともかく事故とはいえ、旧ダヴィッドを殺してなりすますことになった新ダヴィッド(歳上のダヴィッド)が、その後、たとえ自分の家族とはいえ、どう妻と娘と暮らしてゆくかが物語の焦点となってゆく。

興味深いのは、娘は父親に強い違和感を抱き、父親が入れ替わったと悟るのだが、同時に入れ替わった後の父親のほうを、自分を心底愛してくれるために、好きになる。妻も同じく違和感のある夫であっても、妻を愛する夫にこれまでにない愛を感ずるようになる。

こうなると、これはマルタン・ゲール物である。16世紀フランスのバスク地方北部の農民マルタン・ゲール(Martin Guerre 1524- 1560以降不明)は、失踪してから8年後帰還するが、帰還後から偽物ではないかという噂がたちはじめ裁判沙汰になるものの、本物と認定される。と、その直後、本物のマルタン・ゲールがあらわれ、偽のマルタン・ゲールは処刑されたというフランス史上有名な詐欺事件。

1982年にジェラール・ドパルデュー、ナタリー・バイ出演で映画化(『マルタン・ゲールの帰還』)されたが、私はこれを観ていない。むしろ1993年にはこれを翻案したアメリカ映画『ジャック・サマーズビー』(リチャード・ギア、ジョディ・フォスター出演)のほうが有名かもしれない。

ナタリー・ゼモン・デーヴィスが、その『マルタン・ゲールの帰還』(平凡社、平凡社ライブラリーに再録されたときは『帰ってきたマルタン・ゲール』とタイトルが変更)で指摘するように、本物か偽物かは、他人にはわからなくても、妻にはわかるはずである。おそらく妻は帰ってきたマルタン・ゲールが偽物とわかったのだろう。だが、夫が失踪中で未亡人にもなれず再婚もできず苦しい社会的立場であった妻にとって、失踪した夫よりも人格者である偽物の夫を受け入れることを選んだというのはありうることである。映画『ジャック・サマーズビー』では南北戦争で死んだマルタン・ゲールの戦友がなりすますのだが、戦争未亡人となった女性にとって再婚できないのは死活問題であり、偽亭主を受け入れることは、もし、いなくなった夫よりも偽者が善人であるなら、選択の余地はなかったのではないかとも考えられる。

この映画『ザ・ドア』において、なりすました新たな夫は、しかし、前の夫――この、妻や娘への愛がないどころか憎悪すら抱いていた夫――に比べると、はるかによい夫でありよい父親である。そのため妻や娘にも受け入れられるし、夫のための盛大な誕生日パーティはまた、この親と娘の家族との再出発・新生パーティでもあるのだろう。こうなると、このままよほどのことが起こらないかぎり、あとは問題を残しつつハッピーエンディングかと思うと、まだ残り40分くらいあり、まだ一波乱起こることが予想される。誕生パーティのその場で、ダヴィッドが入れ替わったのではないかと疑った友人マックスが、ダヴィッドの庭に埋められているダヴィッド本人をみつけ、真相を暴露しようとするのだ……。

後半の驚愕の展開というのは、いまと5年後をつなぐトンネルとかドアの存在が実は広くあるいは非合法なかたちで知られていて、多くの人間が5年後の未来からこの世界にやってきているということである。主人公にとって洞窟トンネルとかドアは偶然みつけたものである。そして5年前の自分に、泥棒とまちがわれて襲われて、5年前の自分を事故のようなかたちで殺したのも、すべて偶然のなせるわざであり、意図的なものではない。ところがこの5年前の世界の近隣住民たちは、5年後の未来からやってきて、住民とすりかわったらしいのだ--主人公と同じように〈元の住民=過去の自分〉を、主人公とはちがって意図的に殺して。

となるとこの郊外住宅地の住民たちは、全員がすり替わった住民、それも元住民を殺した殺人鬼たちであるという恐怖。ただし主人公のダヴィッドも、このことは途中から気づいているようで、とくに説明されないのだが、まだ殺されていない住民であるスーザンに対して愛おしげに分かれを告げたりしている。なぜそうするのか理由もなしに。また不穏な動きをみせるカップルなどもいる(彼らはこれから住民を殺して、すりかわる相談をしているのかもしれない)。

後半は『ボディー・スナッチャー』だと騒ぎ立ているレヴューアーたちがいるのには辟易する。なるほど前半は〈マルタン・ゲールの帰還〉だが、後半はにわかに一気に〈ボディ・スナッチャー〉に変わるように思われる。しかし、あなたは過去の自分を殺して、すりかわってはいないか。あるいは過去の自分を殺したいと思わないか(失敗した過去を抹消するために、あるいは失敗を知らない過去の自分とすりかわるために)。あなたは、他人の体を奪っている宇宙人ではないはずだ。あなたの体はあなた自身の体ではないか。あなたは本物になりすました本物である。あるいは本物になりすました本物ではなければ、あなたは偽物である。

『ボディ・スナッチャー』は、宇宙人が、つまりは共産主義者が、善良な市民の精神をうばって、その肉体に宿ってコントロールするという冷戦期パラノイア的幻想の産物であることはまちがいない。それに対して、過去の自分を未来の自分が殺す設定は、パラノイアとは無縁の形而上性を帯びている。私の人生は、ほんとうは二度目、あるいは二度目以上の人生、未来の自分に奪われたというよりも未来の自分が過去の自分に憑依している、おそらく複数回憑依している人生だと、あなた感じたことはないのだろうか。

Einmal ist Keinmal (アインマル・イスト・カインマル)――ミラン・クンデラの小説『存在の耐えられない軽さ』のなかで主人公のトマーシュが紹介しているドイツのことわざである。一度は、ものの数に入らない。それがどのような意味であろうともいい。私たちは、一度以上の人生を生きている。当然、私たちは、自分自身と少なくとも一度以上はすりかわっている。自分自身を何度も殺している。

映画の物語ではコミュニティー全体が未来からきたもうひとりの自分に乗っ取られているという可能性。この世界では、破綻し失敗した人生のなかで過去の過失を修復したいという切なる願いのなかで過去への扉が開かれるというだけではないようなのだ。失敗なり破滅あるいは犯行から、過去へと逃亡しようとする犯罪者もまた扉を開けてこの世界に逃れてきた。彼らは犯罪者なので、この世界の住民を殺すことなどいとも簡単にやってのけられる(たとえ、それは自分を殺すことなのだが――とはいえ自分以外の人間も必要に応じて殺しているようなのだ)。こうなると、悪に染まらず幸福なまま生きている自分が、犯罪者となった未来の自分に殺されるという理不尽な状況が生まれてくる。

ダヴィッドの妻は、隣人の夫妻が殺されるのを目撃し、その夫妻の娘と自分の娘を自宅にかくまって、警察に訴えるが、警察は隣人夫妻の娘を拉致監禁したとしてとりあってくれない。このあたりから実は警察もぐるになって、住民のすり替わりを監視・統御しているらしいとわかってくる。ダヴィッドのもとにも妻が電話をかけてくる。妻といっても、5年後の世界からこの世界にやってきた元妻であり、自分の娘が生きているこの世界に娘を引き取りにやってきたのである。だがそのためにはこの5年前にいるダニエルの妻は殺されねばならない。そこでダニエルは、五年前の世界の妻(せっかく夫婦愛を回復できた妻)を殺さねばならなくなる。郊外の住宅街を住民が拳銃を隠すことなく手にして歩いたら、どこの国の警官も注意するはずだが、この世界では警官も、すりかわりのための住民殺しを黙認しているようで、恐怖の住宅街である。

つづく
posted by ohashi at 16:10| 映画 タイムループ | 更新情報をチェックする