原題Los Parecidos/The Similar
2015年メキシコ映画 日本公開2015年 1時間25分
『パラドクス』の監督イサーク・エスバンの次回作は『ダークレイン』である。これはタイム・ループものでもループ物でもないのだが、興味深い映画なので触れておきたい。
興味深いけれども、ものすごく面白い映画ではないと思うのだが、ネット上の評判は、けっこう良い。しかし、この興味深い設定には腹をたてる人がいてもおかしくないと思うのだが、逆に若いレヴューアーには新鮮にうつるのかもしれない。
豪雨というか嵐で足止めされる長距離バスの待合所が舞台。最初から最後までこの待合所とトイレと発券事務室というほぼ同一空間で事件が展開するので、舞台劇に近いといってもいい。よくこういう演劇的映画に腹をたてたり嫌ったりすれる映画ファンがいるのだが、ネット上では、これも予想外に少ない。私は演劇的映画は大好きで、この映画も完璧に舞台化かできると思う。舞台化したら絶対に面白いと思うのだが、ただ、一部の設定には、腹をたてる演劇ファンはいるかもしれない。
もうひとつの特徴は、カラーだがモノクロに使い色調で待合所の内部が描かれ、雰囲気としては60年代のサスペンス・ミステリー・ドラマを強く連想させるものとなっている。おそらく60年代感、古きミステリー/サスペンス感は、タイトルの出し方とかエンドクレジットの形式、音楽の使用法にまで意図的に仕組まれているものと思う。
実際1968年10月2日の夜という設定であり、物語はほぼリアルタイムで進行する。過去の時代感覚を、過去の映画様式で再現しようとしているのである。
と同時に全体に安っぽいさが漂っている。これは低予算のB級映画臭がただよっているということではなく、意図的なものである。それは人間が個性をなくしてしまうことを表現する手段がそうである。これは一歩間違えばというより、間違わなくとも、茶番的喜劇的な仕掛けで、シリアスなミステリーとは全然相容れない(ちなみにこの映画のポスターとかDVDのジャケットには、顔に包帯をまいた家族の見るも恐ろしげな絵を使っていて、恐怖感をあおっているのだが、そうした場面は映画には一回も登場しない)。
そしてこの仕掛けの、よくいえば不条理な異化的な笑い、悪く言えば、意図はわかるが安易すぎるこの設定は、日本では『ミステリー・ゾーン』のタイトルで放送された、『トワイライト・ゾーン』のテレビドラマの世界を彷彿とさせる。この『ミステリー・ゾーン』/『トワイライト・ゾーン』の一挿話であったら納得できる。しかしノスタルジックな意図があるのかないのかわからないが、映画でそれをみせられると苦笑するか腹をたてるしかない。
たとえば、はっきりと覚えていないのだが『ミステリー・ゾーン』の初期の回で、面妖な顔(安っぽいかぶり物をしている)の宇宙人たちが、ある生物(最初、その姿はあかされない)をみて、その醜さに目を背け苦言を呈しつつ、互いに議論している場面があった。どんなにおぞましい生物かと思うと、最後にその正体があかされる。人間のかわいらしい赤ん坊なのである。結局、美醜の判断は生物によって異なるということなのだが、それを伝えるために「醜い」安っぽいかぶり物の宇宙人像が使われても、テレビのコント的形式のエピソードとしては、いかにも『ミステリー・ゾーン』的な風刺で違和感がないのだが、これに類することを映画のなかでやられても困る。つまりテレビのコント的な仕掛けを映画のなかで大々的に、そしてエンドクレジットまでやられてはたまらない。誰も、いらだたないのかと、私自身がいらだってしまった。
『パラドクス』ではフィリップ・K・ディックのSF小説『時は乱れて』が使われたが、今回はディックの小説のタイトルは言及もされないのものの、今回のほうがディック的SF世界へのオマージュというか、その世界そのものが使われているように思った。たとえば狂える少年の妄想の世界が現実化して、人間がそこから逃れられなくなってしまうような世界が、それである。
ただし、なるほどディックのSFには個人の妄想ファンタジーが実体化する、あるいは『火星のタイム・スリップ』のような自閉症の少年がいだくファンタジーが実体化し、そこから抜け出せなくなる恐怖が描かれているが、ディックの場合、むしろ、そこからいかに抜け出すかをめぐって組織される物語が重要になり、また私たちのディックへの関心もそこになる。
この世界が偽物であること、ヴァーチャルであり、シミュラクラであること、それをいかにみやぶるのかをめぐる議論(たとえば『高い城の男』における偽物と本物を見分ける議論)、偽物の世界からいかに脱出するかという行動こそが、ディックSFの醍醐味というか見所であり、そこにポストモダン的思想性も宿るのだが、この映画には、そうしたディックには関心がないようなのだ。
ディックの作品すべてに『シミュラクラ』というタイトルをつけてもいいといえるのだが、この映画の原題は類似のタイトルながら、しかし『シミュラクラ』というタイトルはこの映画には似つかわしくない。そのためディックにみられるような文化的社会的歴史的(晩期における宗教的)な広がりはなく、気味の悪いファンタジー止まりとなっている、
そう、そこが問題かもしれない。この映画の特徴は、ネタバレを極力避けたかたちで語れば上記のようになるのだが、しかし、重要な歴史的次元についてはまだ触れていない。
1968年10月2日のことである。
Wikipediaには、「メキシコにおける大量虐殺リスト」‘List of massacres in Mexico’という恐ろしい項目があって、そのなかで1968年10月2日は、メキシコシティにおける「トラテロルコ事件」と呼ばれる市民殺害が起こる日である。
次の項目――1971年6月10日「コーパス・クリスティの虐殺」――では、犠牲者は推計120人とされている。いっぽう「トラテロルコ事件」の犠牲者は推計40人から400人(300人から400人ともいわれる)で、メキシコ史における当局による最大の市民虐殺事件である。
ちなみに1971年の「コーパス・クリスティ虐殺事件」は、アルフォンソ・キュアロン監督の映画『ローマ』のなかで、学生運動家たちが当局と連携している自警団に殺されたエピソードで触れられていた。映画『ローマ』の冒頭は、床に水が流される映像で、これは水で掃除をしているところだとすぐにわかるのだが、やがてこれが、過去のおぞましい事件を洗い流そうとする黒歴史抹消という歴史修正主義の風潮あるいは政策を暗示しつつ、最後のクライマックスにおける海水浴場での高波にさらわれそうになる一家の場面へとつながっていく。過去の虐殺事件、その記憶を洗い流そうとする風潮、にもかかわらず消されずに留まる事件の記憶、そしてまた過去の激流に流され溺れそうになる庶民、にもかかわらず生き延びる庶民の力強さ、こうしたことが重層的に観る者に突き刺さったことは記憶に新しい。
いま衆院選挙戦のさなかだが、歴史修正主義者のクズどもが、過去の日本の歴史のみならず、自民党の安倍政権の腐敗の歴史をも洗い流そうとしている今、キュアロン監督の映画『ローマ』は、人ごとではないのだが、もうひとつオリンピックの年、オリンピックがらみの事件でもあった暗黒の歴史を扱ったのが『ダークレイン』なのである。
『ダークレイン』は、冒頭から1968年10月2日の出来事と明示される。そして映画のなかでも、「トラテロルコ」という名が何度も言及される。「トラテロルコの虐殺」(La masacre de Tlatelolco)と呼ばれる1968年10月2日にメキシコシティのトラテロルコ地区におけるラス・トレス・クルトゥラレス広場(三文化広場)で起こった軍と警察による学生と民間人の大虐殺事件の、まさにその夜にこの映画の事件は起こる。
このことに敏感に反応した日本のレヴューアーもいるが、こうしたレヴューアーは、たいていネトウヨで、政治的言及はこの映画にそぐわないと否定的なコメントしか残していないのだが、メキシコ人なら知らぬものがないこの日(実際メキシコにおいて10月2日は、いまでは「国民哀悼の日」となっている)を映画における出来事の日に設定したことについては、制作者の並ならぬ決意とメッセージ性がうかがえる。
といえ、個性の喪失という映画のテーマと付き合わせてみると、この映画を製作した側には、過去の事件に対する反省はあるかもしれないが(とはいえ上から目線の反省なのだが)、憤りや悲しみにもとづく政治的な批判性は希薄だといわねばらないない。むしろ、その逆かもしれない。
学生運動や反政府・反体制運動における抗議行動を、集団行動の優先ならびに個の喪失として批判する体制側の意見があったこと(それはいまもある)から、個性喪失への批判的眼差しは容易に想像はつく。実際、抗議運動に参加する人間は悪辣な指導者に騙されているか、もしくは脅されて参加しているにすぎず、また彼らひとりひとりは、個性を欠いた、あるいは放棄した無責任な存在であり、顔を隠して乱暴狼藉を働く無法者にすぎないという意見は、日本でも学生運動はなやかなりし頃には多かった。ヘルメットをかぶり手ぬぐいで顔の半分をマスクのように覆った抗議運動参加者たちに、顔を見せろと体制側の応援団は罵声を浴びせかけた。
しかし顔をみせたら最後、個人情報が徹底的にさらされ弾圧の標的にさらされるのであって、悪辣な体制側の抗議運動潰しには集団としてぶつかるほかないだろう。映画『Vフォーヴェンデッタ』(ジェームズ・マクティーグ監督、2005)では、全体主義化した近未来社会においてガイ・フォークスの仮面と装束がロンドン市民に大量に配られ、ガイ・フォークス化した市民たちが、顔と個性のない集団というか、全員がガイ・フォークスとなった集団としてが抗議運動に参加し、それが暴動へと発展し全体主義政権を倒すことになった(ロンドンの議事堂が爆破されて崩壊する映像は、ついにガイ・フォークスの夢がかなったと私は感動すら覚えた)。
全体主義政権が最も恐れることは国民が個性をなくして全体化することで政権を打倒することである。全体主義政権ほど国民の個性化を愛する政権はない。国民を個性化すること、つまり弱体化することで政権は安定するのだから。
こう考えれば『ダークレイン』に登場する少年は、たとえばディックの『火星のタイム・スリップ』に登場する自閉症の少年のように、恐怖の未来におびえ真実を見抜く超能力にめぐまれた、どこか聖なる輝きを帯びた不幸な天使的な存在ではなく、圧倒的に政権よりの保守的右翼少年なのだ(ネトウヨ予備軍みたいなものである)。ディックの小説に登場する少年には、どこか天使的な輝きがあるのだが、この映画の少年には悪魔的なものしかない。あるいは無邪気なるがゆえに悪を恐れぬ悪魔性とでもいうべきか。
そしてまた無個性という大きなテーマが最終的にみえてくると、この映画において、無個性はたんに容貌の問題ではなく、精神とか認識の問題とも関係するようになる。
映画に登場する医学生でトラテロルコに行かねばならないとあせっている男は、結局、会う者たちすべてを政府の回し者としてしかみない一面的なパラノイア的な認識能力しかなく、知的部分においても画一的な認識から飛び出てみることができない愚かさを示している、あるいは個性喪失をこうむっている。どうやらこの学生運動家の医学生が、最初に顔を失うらしいことと、あるいは同じ顔のモデルになっていること(ガイ・フォークスの仮面のように)と、彼の認識能力の画一性とは無関係ではないだろう。
いっぽう恐怖の一夜がすぎて、事件の現場検証をする警察官たちは、事件を、学生運動家のテロリスト的暴挙として片付けようとする。これも学生運動家と同一のパラノイア的画一的個別性無視の認識でしかない。この警察官たちに真相を語っても、彼らは聞く耳をもたないだろう。
こうしたことを考慮すれば、トラテロルコ虐殺事件は、すべて政府の陰謀としかみない学生や反体制的市民たちの画一的パラノイア的世界観と、すべてテロリストの政府転覆の陰謀としかみない全体主義政権の画一的パラノイア的世界観のぶつかり合いの結果生じたのであり、これは無個性的認識と無個性的認識のぶつかり合いでしかない。真実は、むしろオタクの幻想世界にある。無個性を見抜く個性的な眼差しによって、政治的衝突(無個性と無個性の衝突)を超越できる。
この監督は、10月2日の犠牲者を哀悼する気持ちはまったくないらしい。両論併記(中立性の主張)あるいは喧嘩両成敗的な超越的姿勢が、両論超越というかたちの体制擁護であることはこの映画監督には思いもおよばぬことらしい。あるいは、最初からそのつもりか。
そもそも喧嘩両成敗的な中立姿勢は、トラテロルコ虐殺事件当時からあった。政府は自己正当化に走り、メディアも過激な学生運動家の暴挙を非難、まさに犠牲者を責めるという卑劣な言論を展開し、自分たちも誤ったが、学生や市民も悪いという恥さらしな両論併記へと走っていた。オリンピックへの投資が政府の腐敗の大きな要因のひとつであるにもかかわらず、メキシコのメディアも、オリンピックを非難しないという政府よりの姿勢を示して、日本のメディアと同様の偏向ぶりに徹したのだが、こうした問題に対する解答が両論併記的喧嘩両成敗というのでは、犠牲者は二度も三度も殺されたようなののである。この映画監督が、ただの中立を気取る文学オタクあるいは映画オタクを隠れ蓑にして、反政府勢力をいまなお非難する右翼・政府応援団でないのなら、その証拠をほんとにみせてもらいたい。また応援団なら、できればオタクの宇宙のなかで、外に出られないまま、朽ち果ててもらいたい。そう願うのみである。