前回のネタバレのあらすじのなかでは紹介していなかったが、エンドクレジットの前に、登場人物たちの、ありえたかもしれないその後の人生の断片が、フラッシュフォーワード的に映し出されるのだが、最初にみたとき、誰が誰だかわからず、いい加減に映画をみていたことを痛感し、あらためて最初から見直すことになった。
まあ外国人の顔がみんな同じにみえてしまって困るというのは昭和の老人みたいで自分で自分を恥じたが、しかし同じ監督の次回作『ダークレイン』をみると、顔がなんとなく区別しにくいのは、案外意図的だったのかもしれないと、自分を恥じるのをやめた。
それはともかく、ありえたかもしれない人生は、映画『パラドクス』の本編において登場人物たちを襲う出来事に比べたら、異様なところがなく平凡な人生かもしれないが、幸せな人生である。ただロベルトだけは、本編でも悲惨な人生だったが、もうひとつの人生でも破滅しているというのは哀れすぎる。
なおロベルトは本編では10歳のとき出来事に襲われて35年間すごしたあと、再び出来事に襲われて35年経過するので、80歳で息をひきとることになるのだが、もう一つの人生では出来事が起こらなかったらという設定となる。
ただしもう一つの人生、ありえたかもしれない人生というのは、この映画の設定では、あるはスペイン語が分からないので、字幕が本当に正しいのかどうか判定できないのだが、正しいとしたら、もう一つの人生のほうが現実であって、無限につづく階段に閉じ込められたり、無限にループする道路に閉じ込められたりする世界は、嘘の世界ということになる。
ということは基本的にハッピーなもうひとつの人生が現実の人生であるというのなら、思い出されるのは、ライプニッツの最善説である。つまり神のつくったこの世界は、さまざまな他の可能な世界のなかで、最善・最高のものであるという考え方。もちろん私たちが生きているこの世界も最善の世界である。何を狂ったことをと、批判されても当然である。この世界のどこか最善なのだ、と。
ただしライプニッツは、もうひとつ弁神論というのを展開していて、この世に悪があっても、それは神の配慮によるもので、私たちが悪を克服したり駆逐したりして更なる高次の存在へと進化をとげる契機となるように神が仕組まれたということになる。
ただしこの最善説は、もうひとつのことを考えていない。つまりこの世を最善なものとするとき、最善ではない世界はどうなったのかという問題。もちろん却下されたり廃棄されたりした世界というのはどうなったのかという問題なのだが、最善ではない世界というのは、もちろん思弁的なもの、あくまでも実現しなかった可能性であって、それを実在したかのように扱うことはできないのだが、またライプニッツの時代には、それでもよかったのだが、SFによる異世界の創造あるいはパラレルワールド的な発想によって、いまの世界が最善であるとするなら、それは最善はではない無限のパラレルワールドの廃墟の上の成立しているというイメージが生まれてくる。
これは最善説の裏面というか暗示面だが、ここで発想を変えて、私たちがいま閉じ込められている世界が、可能なパラレルワールドのなかで最悪の世界であるという最悪説というものを措定する(実際、最善説よりも、この最悪説のほうが説得力がある――私たちの世界の腐敗の現実をみるにつけても)。そしてこの最悪説の裏面という暗示面は何かと考えてみると、おそらくそれは明るい希望である。つまり、いまのこの世界が最悪なら、これ以上は悪くならない、だからこの世界は、よくなるしかなく、今は最低でも明るい未来が待っているわけだから。もちろん、『リア王』のエドガーが語ったように、本当の最悪をみるまでは、これが最悪というなともいえる――最悪の最悪があるかもしれないという不安は払拭できないのだが。
ならば最善説の裏面とは、最善が実現するために棄てられた無数の可能性である。無限につづく二位以下の世界。採用されなかった世界の無限の廃墟のうえに最善世界が構築されているという、否定性の闇のなかに囲繞された最善世界。最善説の世界に生きる私たちは、たとえいうなら周囲に広がる飢えに苦しむ貧民層をみながら暮らしている一握りの富裕層みたいなものである。まともな人間なら神経がおかしくなる。
しかも最善説の世界とは、問題があって実現しなかった否定的世界は、問題があるものとしてそのまま放置され維持されなければならない。富裕層が貧民層を助け幸せにすることは、たとえ富裕層の側がそれを望んでもできない。なぜなら貧民層がなくなれば富裕層もなくなるからである。格差社会の怖いところは、弁別的差異を形成する一項として貧民層が存在し、弁別的差異の成立のためには貧民層は維持されることである。
個人的心理的レベルで考えると、いまの私たちが生きているこの世界は最善の世界かもしれない――たとえ個人的にみてさまざまな問題があるにしても。そしていまのこのささやかな成功と幸福の人生を実現したのは、私の努力ではなくて、破滅して私の負の人生の集積なのである。心象風景としては、私のささやかな幸福の周囲に、ありえたかもしれない私の成功の人生ではなく、ありえたかもしれない私の失敗の人生の瓦礫が無限のかなたにまで広がっているのである。そして恐ろしいのは、この広がりは私自身が求めこしらえたものでもある。私がこしらえたのは私の人生は、私がこしらえ、しかもつねに維持している無限の廃墟によってはじめて完成あるいは最善のものとなる。
あるいは別の心象風景では、いまの私とは別人の私が、無限にループする階段室に閉じ込められ、無限につづく荒野の一本道で生かされつづけている――私が死ぬまでは。あるいはまた別人の私が、永遠の晴天の午後がつづく荒野の一本道から出られなくなっている。おそらく別人の私は、私と人生をともにしている。私が死ぬまで、彼らは私の心象風景のなかに閉じ込められているのである。
こう考えると、いくらでも、いろいろなかたちで解釈できる映画『パラドクス』の空間的にループした迷宮世界とそこに閉じ込められた人物たちの世界に対してひとつの(決定的ではないが)有力な解釈を提供できる。
ただし、35年周期の世界から解放されても、ふたたび35周年の周期の世界に閉じ込められてしまう人物たちの生き様をみていると、そしてすでに前回でも触れた、閉じ込められても食料は無限に供給されて生かされるという監獄での囚人状態を思うに付けても、出所しても、すぐにまた収監される犯罪者のイメージあるいは辞めてもすぐに手をだしてしまうドラッグのイメージが、人物たちの運命と強く結びつく。
しかし、彼らの運命を常習的犯罪者とか薬物依存症患者のメタファーとだけ決めつけるのはやや軽薄すぎて、むしろ常習的犯罪者あるいは薬物依存症患者そのものがメタファーとなっている格差社会における貧困層を連想すべきかもしれない。そうなるとこの映画における閉じ込められる人々の運命は格差社会における貧困層のありようそのものといえるかもしれない。
ただし閉じ込められる前の彼らは、貧困層ではない。富裕層と貧困層の中間層ともいえる人びとであるが、そうであるがゆえにワンランク下への転落/追放が、ありえない可能性どころか身近な可能性そのものとなる。そして……
そしてグローバル化した世界において、先進国と途上国との格差がなくなるどころか格差がひろがる、あるいは途上国は、途上国状態あるいは低開発状態にとどめおかれ、永遠の現在に収監されるのと同様に、格差社会において貧困層は、貧困層として生かされることで富裕層の永遠の引き立て役となって生かされるのである。しかもこの格差社会における貧困層は、成り上がることはできないまま破滅してゆくのだが、生かさず殺さず状態の彼らが死滅することはない。彼らが消滅しても、中間層という予備軍がある。
結局、ワクチンによる遺伝子操作による人工調整という陰謀説(のひとつ)、あるいは親ガチャという、どの親に生まれるかで社会的ステータスが決まるという考え方も、不幸を維持することで成立する格差社会を照らす内部の鏡のような機能をはたしているというほかはない(親ガチャは、親が悪いわけではない――そういう仕組みをつくった社会が悪いのであって、親は変えられないが社会は変えられる。世界に冠たる劣等民族である日本人に生まれたことを嘆いてもしょうがない。日本人を変えることはできる)。
映画『パラドクス』の場面のひとつ、ループして終わりのない階段室の場面は、実際の建物の階段室を使って撮影されたとのこと。幸い、撮影期間中、住民あるいは従業員が、その階段を使うことはなかったようだ。建物には空き部屋が多く(それゆえ撮影も許可された)、居住者が少なく彼らが階段を利用しなかったということらしい。
この階段室は、ある意味、そこにあることはわかっていても誰も利用しない影の世界である。個人的レベルでいえば、あまり思い出したくない負の領域である。足を踏み入れたくない、踏み入れる必要もない無意識的領域である。社会的にいえば、ここは必要性があって維持されているものであっても、利用されたり顧みられたりすることがないゆえに、そこで何が行われているか時々不安になる闇の領域である――ひょっとして利用されない階段室にホームレスが住み着いてもおかしくないのだから。ロケ現場そのものが、この映画にとっては社会的意味をおびているのである。