原題:Inkarnacija ; 英語タイトル Incarnation
2016年製作/86分/セルビア映画。セルビア語
映画.comの解説
解説
記憶喪失の青年が謎の集団に殺害される場面を何度も繰り返しながら真相に迫っていく姿を描いたセルビア製サスペンススリラー。ある日突然、街角のベンチで目を覚ました青年。記憶を失い自分の名前さえわからない彼は、突如として現われた白いマスク姿の男たちに射殺されてしまう。次の瞬間、全く同じ状況で目を覚ました彼は、再び白マスクの男たちに追われて殺害される。さらに同じ場面を繰り返す内に、青年の脳裏に家族を殺された少年のイメージが浮かびはじめ……。WOWOWでは「タイム・ループ」のタイトルで放映。
一見すると謎が謎を呼ぶ展開で引き込まれつつ、最後まで見るとなんじゃこれはと思う視聴者が多いようで、評価は高くない。しかし評価する人も多い。
AMAZONのレヴューアーは、
5つ星のうち5.0 消化不良系ですが良い出来です
2018年6月24日に日本でレビュー済み
謎の部分が残るのでどうしてもモヤモヤが残ります。そこを少し考察するのもおつなものではないですか。
何よりラストまでがよく出来ていて面白いです。引き込まれるタイプの作風。
消化不良系は駄作ばかりですがこの映画は珍しいです。
多分ロケーションがいいんだと思います。もちろん演出も。
特に良いと思ったのは主人公のモノローグでした。何とも言えない案配の絶妙さでなかなかないです。
どこか文学的でありながら抑制が利いていて機械的といいますか。
厭世的でありながら希望も持ってるような、聞いていて気持ちが良かったです。
吹き替えで見たので声優さんの口調もぴったりハマってました。
モノローグがよくなければ★3ですね。
ちょっとずれているようなコメントだが、しかし、もやもやしたものが残っても、映画そのものよさから充分に鑑賞にたえる作品であることがわかる。
と同時に、ネット上には、明確に解釈したうえで評価しているサイトもある。私も自分なりにこうだと思ってみていたので、もやもやは残っていない。むしろ、セルビアの街並みの良さと、現地の空気感に酔いつつも、ループ物の設定をうまく活かした佳作であると思う。
ただ、その前に、おばかサイトを引用して、逆にこの映画の理解を深めたい。
感想
予告はよかったんだよなぁ。でも、本編は退屈でした。何だったのかよくわからない作品だ。映画作品には確実にメッセージがあるべきとか、訴えたい何かがあるべきとは思わない。
何の意味も感じないけど、映像美に惹かれるとか、役者に惚れ惚れしちゃうとか、音楽の使い方がいいとか。観方は人それぞれなんで、その人にとって楽しければいいのだ。
で、俺は個人的に時間移動系の映画が好きなので、今作を借りて鑑賞したのだが、その結果として得た感想が冒頭のものである。残念。
残念なのは、あんたの頭。その知性と感性の欠如はなんとかしたほうがいい。だいじょうぶ、訓練すればよくなるから。
同じレヴューアーは次のようなつっこみどころを指摘してる。
死にたいのに何でヒント残すんだよ
オチを知ったとき、主人公自身が自分を殺そうとしてたってことを知ったとき、
オイオイオイオイ
と思うどころか、軽く怒りを感じてしまった。だって、自分の記憶を消して、仮面たちに自分殺しを頼むのはいいとしよう。でも、じゃあ、あのループは何なんだよ。何でそんなことが、どういう原理で起きてるんだよ。
主人公は記憶を消すとあのループが起こるのを知ってたのか? 知ってなくても別にいい。そんなこと事前に知れるわけないんだから。でもおかしいのは、死にたいのに何で、記憶を消した後の自分が生き残りを促すようなヒントを残すんだよ。意味不明。
どうやって主人公を特定してたんだ?
あと、何度目かのループ後、主人公はまだ試していない、最後の一本の道を行く決意をする。そこは、4人の仮面たちが向かってくる方向だ。主人公は意を決して、そちらに向かっていく。いろいろ隠れたりするのもあってのなのか、仮面たちは主人公に気付かない。で、主人公は「そうか、奴らは俺の顔を知らない」ということに気付くのである。
オイオイオイオイ
そうだとしたら、一番最初の殺しとか、奴らはどうやってお前を特定したんだよ。アホか。顔を知らないんなら、殺せないじゃねーか。そのくせにお前、今まで何回射殺されてんだよ。ボケ、カス、イモ。
オイオイオイオイ、ボケ、カス、イモ――こういう連中は、頭悪いのに、人をののしるときの威勢の良さはけっこう天下一品で、正直、私にはうらやましいと思うところもあるのだが、それはともかく。
同じことは、このレヴューアーにもはねかえってくる。
以下ネタバレ。
主人公の青年は、六辻の真ん中にあるベンチで目覚めると、自分の名前すら思い出せない記憶喪失に陥っていることがわかる。と、そのとき白い仮面をつけた謎の殺し屋集団に銃撃されあえなく命を落とす。5,6分のシークエンス。と次の瞬間、ベンチでまた目覚めている。
主人公は白い仮面集団に襲撃におびえつつ、自分が誰なのかを必死で探るのだが、つねに白仮面集団に銃殺されて探求は一向に前進しないまま、何度もベンチで目覚めることになる。
ここから物語の展開をばらすことになるが、青年は、自分探しをしつつ、また少しずつ記憶ももどってきて、真相にたどりつく
実は、青年自身、白い仮面の殺し屋集団のひとり(もしかするとボスかそれに近い存在)だが、幼い子供までも射殺することになり、殺人に嫌気がさし、殺し屋集団から身を引くことになる。
そのために、まず白い仮面を苦労してはずす(なかなかはずれないようになっている)。そして医師に頼んで自分の記憶を消してもらうことにする。また、このとき白仮面集団に自分を殺すように殺人依頼をする。
先の引用で、どうして殺人集団に主人公がターゲットであることがわかったのかと疑問が呈されていたが、殺人集団は常時仮面をつけていて素顔は知らないらしい。またまさかメンバーの一人が自分を殺すよう依頼するとは考えないので、困惑すること必至なのだが、ベンチにいる男を殺す、そのベンチから逃げ出した男を殺すということなのだろう。
ただ、これはささいな問題で、大きな問題は、なぜ殺されると再びベンチで目覚めるのか。またなぜ自分の記憶を消しながら、自分が誰であるかの手がかりを残したのかということである。
いずれも説明されていないので、先の引用のレヴューアーが疑問にもつ(バカだから腹を立てる)のはもっともなことかもしれない。
しかし、ふつうに考えてみてもいい。それまで多くの人を殺してきた殺し屋が、自分のやっていることに嫌気がさして、それまでの記憶を消し、プロの殺し屋に自分を確実に殺させる。オイオイオイオイ、ボケ、カス、イモ――レヴューアーの品の悪さに感染してしまった。そんな虫のいい話があるか。いやなことはきれいさっぱり忘れて、あとは天国に召されましょう。そんな虫のいい話はあるか。日本じゃないんだぞ。
ちなみに日本では、池袋の路上で、後期高齢者でありなおかつ脚が悪いのに通常の自家用車を運転して、ブレーキとアクセルを踏み間違えて、人をはねて殺し(そのなかには若い母親と幼い娘もいた)、懲役の実刑判決が出たのに、自分の非を認めて謝罪することはなく、悔い改めもせず、老後の世話と面倒を家族にかけることなく、懲役刑に服することで、税金で老後の世話をしてもらう(高齢者だからさすがに労働の義務はないだろう)という、こんな虫のいいことがまかりとおっているのだ。もちろん、上級国民である被告の姿勢にいきどおっている日本人は多いのだが。
この映画にもどれば、もし神様がいるのなら、あるいは単に道義的に言っても、主人公に簡単に死なれては困るのだ。
何度も何度も殺され、殺される者の恐怖と苦しみをとくと味わい、さらに自分のやってきたことをしっかり思いだし、それと向き合うことで、悔い改めてもらうしかない。だからループが起こるのである。あるいはループは、神と私たち双方の意志の帰結である。
日本風というか仏教風にいうと、主人公は成仏できない。最初、主人公は、自分にむけてはりめぐらされた陰謀によって、自分自身が成仏できないのではと思っているかもしれないが、実は、成仏させてもらえないのである。
映画の最初のほうに成仏できなさのヒントはある。主人公がベンチでめざめたあと、そもそもここはどこか、道行く人に尋ねようとするが、主人公がまるで透明人間であるかのように、感知されない。そのくせ街で遊んでいる子どもたちには主人公の姿が見え、主人公と言葉を交わすことができる。いうまでもなく、大人にはみえない幽霊を、子供はみることができるのである(私の姪は、まだ幼い頃、家のなかで、そこにいる人は誰と彼女の両親に尋ねて、両親を震え上がらせたことがある――親子三人以外に誰もいなかったので)。
そう、この映画の主人公の青年は、成仏できないような、さまよえる亡霊という暗示がある。映画の最初にベンチで目覚めるとき、それは数えきれないほど殺さてきた後の目覚めではなかったのか。「七回殺された男」は、日本で勝手につけたタイトルである(七回とか七回殺されるというタイトルの本があることからの連想だろう)。七回どころではなく、無限回数、この男は殺されているのである。
と同時にただ殺されるだけでは済まない。自分のしてきたことを記憶喪失として闇に葬って成仏し天国に召されようとした男の虫のいい試みは徹底して打ち砕かれねばならない。
だから記憶を消し去った男が、もとの自分にも辿れるようなヒントを残して置いたというのは、矛盾した無意味な行為と、ボケ・カス・イモは指摘するのだが、これも、もし記憶消去に失敗したり、記憶消去が不完全になったときに、調整できるように、もとの自分にもどる手がかりを残しておいたのか、あるいは記憶消去のもつ不道徳さに疑問をもつ良心を残していた主人公が記憶回復の手がかりを用意していたのかもしれない。意識的か無意識的か、わかないにしても。
あるいはさらに、探偵が真犯人をみつけてみたら自分だったという、オイディプス王以来の推理物語の伝統にのっとって、自分探しと真相追及にむかうには、もとの真の自分への手がかりが物語上必要だったと身もふたもない理由があるのかもしれない。ともかく能動態・中動態・受動態にまたがる理由があれこれ考えられる。
ただ、いずれにせよ、主人公には、勝手に失くした記憶を、もう一度取り戻してもらうしかなく、その過程がスリルとサスペンスを招き入れるミステリーの醍醐味となる。
主人公にとって、このセルビアのベオグラードの街並みは、贖罪の街並み、あるいは天国に召されるまで罪人が身を清める煉獄だったのである。【煉獄的贖罪の街だが、ベオグラード、いい街である。】
もちろんこのこと(贖罪テーマ)は、ループ物においては、けっこうなじみのテーマとパタンでもある。
なおこの映画における主人公のループは早くて5,6分で終わる。長くても30分くらいか。都市における逃げ回りの短期間ループと反復は、『ラン・ローラ・ラン』を髣髴とさせるが、次に考えるのはループが35年周期の映画である。
