いまでは索引をつくるアプリとかソフトがあるのかもしれないが、私の場合は、全部、手作業である。生まれて初めて自分の翻訳に索引を作りはじめた頃、見本としたのが、自分が翻訳している原書の索引だった。つまり私の作る作品は、日本の本の通常の索引ではなく、やや洋書よりの索引だったのだ。
原書(洋書)についている索引の項目を日本語に直して五〇音順にならべる。ページ数は原書の頁そのままである。ほんとうに大昔は項目ごとにカードを作って、それに書き込んでいたが、さすがにコンピュータが使えるようになってからは、項目の並び替えも簡単にできる文書ファイルで索引は用意できた。
ゲラが最終段階になると、ゲラに原書のページ数と頁の区切りを大きく、はっきりみやすいように書き込む。そしてあとは索引にとりあえず記載した原書の頁を、ゲラのページ数に置き換える。手作業である。
索引用のアプリとかソフトでは、そんなことは手作業でなくて一瞬にしてできると思われるかもしれないが、先に述べたように私の作品は原書の索引をまねている。つまりたんに人名なら人名だけを拾うのではなく、「宗教」とか「自然」とか「絶滅危惧種」とか「世界動物の権利宣言」といった項目の場合、その項目に関係する部分、その項目をトピックとして論じている部分の頁をも索引に入れている。そのため「世界動物の権利宣言」というフレーズがなくとも、それを扱っている頁があれば、その頁が記載される。要は内容索引をつくることにしたのである。これが原書(洋書)の索引に寄せた索引という意味である。
それはけっこう手間がかかると思うかもしれないが、内容作品はすでに原書の索引でつくられているから、ただ項目名を翻訳し原書の頁を書き込んでおくだけである。人名索引も内容索引となっているものも多く、たとえば「ニーチェ」という語が出てこなくても、ニーチェを論じている頁があれば、その頁が索引に記載される。
こうなってくると、もう単純に単語とか人名を機械的に拾うだけではすまなくなる。コンピュータの仕事ではなく、人間の仕事である。それが面倒でも、コンピュータを出し抜ける楽しい作業となった。
ところがあるときから、この内容索引は、やめることが多くなった。面倒だということもその理由のひとつだが、原書に付けられている内容索引が、信用できなくなった、あるいは信用できないケースが出てきたからである。もっといえば、原書の索引は誰が作っているのかということが気になり出しからである。裏を返せば、原書の索引は、著者とか編集者がつくっていないのではないと確信できることが多く、そうなれば、内容索引、さらには通常の人名索引などの項目は、あてにならないとわかってきたのである。
その一例を示す前に、付け加えておくと、たとえばナボコフの『青白い炎』は、いまでは岩波文庫で富士川義之先生の翻訳で読むことができるのだが、これは架空のアメリカの詩人が書いた長編詩の全文(翻訳の場合には、長編詩の英語と、その日本語訳も付く)と、その詩作品について、その詩作品よりも長い註釈を付けた、ある種前衛的なとんでもない作品なのだが、富士川先生の名訳で、実は、最後まで読めてしまい、貴重な読書体験をすることができる。
この本の最後には、解説・注解付きの索引がつく。正確にいうと、その索引は内容索引もかねている。私のつくる索引は、簡単な訳注の変わりにもなることもねらっていて、人名には、生年ならびに、あれば没年、そして簡単な説明――小説家とか詩人とか、社会学者とかいうような――を付けている。そして内容索引にもなっていることになる。
実は、ナボコフの『青白い炎』の索引は、学術書とか翻訳書にある注解付き内容索引のパロディみたいなものかもしれない(私が作るような索引のパロディなのかもしれない)のだが、とにかく内容作品と注解付き索引は、注解書とか翻訳書には多い。
今、私の手元にはハンナ・アーレントが編集し序文を書いたベンヤミンの英語訳評論集Illuminations(1969)があるのだが、この翻訳に付いている人名索引は、実に的確な注解付き索引となっている。アドルノはまだ存命中なのだが、ドイツ人、哲学と社会学の教授とある。ボードレールとベートーヴェンには生没年の記載はあるが注解はなし。有名人だから。この注解付き索引は、いまも、私が作る索引の手本となってくれている。そして、このベンヤミンの英語訳評論集の索引は、翻訳者か編集者が作ったもので、信頼性が高い。
しかしナボコフの『青白い炎』の内容/注解索引は、出版事情を知っているナボコフが、あえて、凡庸な、なくてもいいような索引をパロディとして作ったのではという疑いを私はもっているのだが、一般に洋書の索引は、あてにならないものが多いといえるのかもしれない。
かつては私も原書の索引を翻訳して、索引を作っていたが、いまでは自分で人名を拾ったり、内容索引の場合も、自分で項目を選んだりするか、あるいは内容索引は作らないようにするとか、いろいろ工夫をするようになった。私の索引造りも、相変わらず手作業だが、内容は多少は進化したのかもしれない。
今度、Terry Eagleton, Culture and the Death of God(2014)の翻訳を共訳で出版することになったのだが(順調にいけば年内――翻訳出版が遅くなったのは、私の怠慢もあるがコロナ禍のせいでもある)、その索引もすでに作り終えたのだが、原書の索引のなかに
Bumptious, George I. 28
という奇妙な項目があった。数字は該当ページを示す。Bumptiousというのは「バンプシャス」という人名なのか。しかし、そんな人名出てきた記憶はないし、Bumptiousというのは、どうみても「傲慢な」とか「押しの強い」という形容詞にみえる。
George Iというは「ジョージ一世」のことだから、ジョージ一世が傲慢だという悪口なのか、あるいはジョージ一世のあだ名なのか。しかしあだ名としても、あだ名のをほうを固有名詞よりも先に出して項目とするというのはなんとも変な話ではないか。ちなみにジョージ一世のことを非難したりあだ名で呼んでいた箇所は、本文にはなかったように思う。
本文の該当箇所を調べてみた:
It is also possible that he had an affair with the sister of George I. Bumptious, intemperate and pathologically indiscreet, a champion of Judaism and an apologist for Islam, he probably invented the term ‘pantheist ’ along with the title ‘freethinker’.
下線部のところだけみてもらえればと思うが、Bumptiousはジョージ一世(George I)とは関係なく、つぎの一文の主語であるheを修飾する形容句の一部である。
つまり傲慢なのはジョージ一世ではなく、その文の主語である「彼」である。具体的にいうとジョン・トーランド(17世紀から18世紀にかけて活躍したアイルランドの自由思想家・理神論思想家)のことである。
ちなみに、その索引は、ジョージ一世の項目はない。まあ、歴史的には重要人物でも、本文中の論述において大きな役割を果たしてはいないので、なくてもいいようなものだが、それにしてもBumptious, George I.という項目にはあきれかえる。
これは絶対に、この索引を、著者や編集者あるいは校閲者が作っているのではないことの証拠であろう。ここまでするのは尋常ではない。そもそも人間業ではない。おそらくAIが機械的に拾って、とんでもないミスをしでかしたということだろう。ただ、それにしても、イェール大学出版局ともあろうものが、このミスに気づかないというのは、索引そのものが、軽んじられているのか、いい加減なものなのかもしれない。
私が作る作品は、手作りなので、AIに頼っていないぶん、たとえミスがあっても、こんな人間離れしたミスはしていないので、ご安心を。また私の索引は、外部に依頼してもいないので、けっこう信頼のおけるものであることは、ここに自信をもって告げておきたい。