タイムループ映画ではないが、タイムトラヴェル物は、少なくとも過去の反復という点で、タイムループの要素をもっているので、とりあげる。
『タイム・チェイサー』などという珍奇なタイトルをつけたものだから、本格的SF映画かと思って見て、予想が外れて落胆する視聴者が多くて、ネット上での評判は芳しくない。
しかし、原題はSF臭を消している。たしかに、この映画は、失踪した父親によって運命を狂わされた、息子と母親の話であって、忽然と消えた父親をめぐる省察と、父親との再会を夢見る息子の幻想というふうにとれなくもない。
逆に、SF映画としてみると、説明不足のところが多く、理系の人間ではない私にとっては、よくわからないところが多い。理系の視聴者なら、たとえ省略されていても、なんとなくわかるところでも、文系の人間にはお手上げである。ただ、だからといって筋が追えないわけではないとしても。
たとえばAmazonのレヴューにこんなのがあった:
5つ星のうち3.0 会話が説明的
数学や物理学が苦手で、相対性理論やタイムパラドックスが全く理解できなくても大方のストーリーは理解できるタイムトラベル作品だった。
好きなジャンルの作品だったが少し期待はずれだった部分は、ストーリーを映像で進行させるというより、会話シーンをわざと長尺にした上にやたら説明的でグダグダ感が否めなかった点だ。視聴者への配慮かもしれないがそんな親切は逆に要らない。
主役のエロル役は他レビュアーでも紹介している通り『シックスセンス』や『A.I.』の子役だったハーレイ・ジョエル・オスメントで現在32歳とのことだ。この作品当時は22~3歳だろうか、いきなり大人になってしまったが”オイタ”もしてある程度の活動自粛期間もあったのだから仕方ない。胸毛がモジャモジャであの子役のときからは考えられないような男性ホルモンが出まくっている。
時は戻せない。何かを捨てて何かを得る。取捨選択が人生だ。研究か家族か。
そして父親だけが全てを記憶している。
こんな愚か者(ジェンダーは不明)でも、いやだからこそ、しっかりとした大人としてこの世界を闊歩しているのだろう。パラレルワールドへ飛んでいってくれといいたくなるのだが、傑作なのが、「ストーリーを映像で進行させるというより、会話シーンをわざと長尺にした上にやたら説明的でグダグダ感が否めなかった点だ」というコメント。
知らない人間が読んだら、そういう映画かと勘違いするだろうが、演劇的映画みたいに、議論や説明が長々と続くということはない。「ストーリーを映像で進行させるというより、会話シーンをわざと長尺にした上にやたら説明的でグダグダ感が否めなかった点だ」と、まあステレオタイプのコメントを恥ずかしげもなくよく書いたものだ。こういうマウントしようとするバカを相手していたら、貴重な人生を無駄にする。映画を見失う。
実際、この映画では、説明は多いどころか、省略のほうがが多いのだ。当然である。タイムマシンを発明して、過去へ行ったということが、物語としてわかればいいのであって、タイムマシンの詳しい原理の説明などしなくていい。説明してもらっても、私を含む視聴者にはわからないのだから。事実、タイムマシンの設計図めいたものはあるのだが、出来上がったタイムマシンがどんなかっこうをしているのか、映画は見せようとしない。
したがって映像の力点は、父親が行方不明となり、残された家族の決して癒えることのない悲しみの日々の映像化に置かれる。映画とは、メランコリーの風景であると信じて疑わない私にとって、この映画がみせるメランコリー・スケープは、その美しさと憂愁で胸をうつ。その映像美こそが、この映画を感銘深い作品にしている。ネット上では、この映画の評価は低いが、ダンシアッドなど無視すれば、この映画、美しさと痛さとが共存する優れた映画だということはわかる――くたばれダンシアッド。
予備知識ゼロでみたので、主役の若者が、往年の子役スターであった、ハーレイ・ジョエル・オスメントであることに気づかなかった。どこかでみた顔ではあったが、最後まで思い出せず。とはいえ母親役のジリアン・アンダーソン(『Xファイル』の)、消えた父親役のルーファス・シーウェルはともに馴染みの俳優たちだったので、なにか安心してしまって、主役が誰か思い出せなくてもさして気にならなかった。
父親が出張から帰ってくるはずなのに、帰ってこない。なぞの失踪。それから12年。残された者たちのうち息子は、新たな人生に踏み出そうとしているが、母親のほうは、夫の帰りをいまも待ち続けながら、デプレッション状態から抜け出せず、ついには自殺をする。主人公は、幼なじみの聡明な女性と結ばれ、子どもできるが、突発的な流産によって子どもを失う。なにかがおかしい。この自分の人生は、父親の失踪以後、まちがった道を辿りはじめたという思いをつのらせる主人公は、父親が発明し設計図を残していたタイムマシンを完成させ、それを使って、父親がむかった過去の世界へ、具体的にいうと1946年のプリンストン大学へと時間旅行する――父親をどこまでも追って(このどこまでも追ってゆくというモチーフが原題のタイトルとなる)。
基本は家族の物語である。それも父親の失踪によって運命を狂わされた家族の。夫の帰還を待ち続けながら、かくも長き夫の不在に耐えきれないまま、自殺する妻と、その息子が乗り出す新しい人生。数学と科学の天才という設定の息子は、同じく科学者である祖父の援助もあって、父親がタイムマシンを作り、過去へ行って帰ってこれなくなった(どうも過去の世界で殺されたらしい)ということまでつきとめている。しかし自分に子どもができたことを知り、仕事や研究よりも、家族の愛を選び、父親失踪事件のわだかまりを超えて新たな人生を選ぶとき、謎の流産が妻を襲う。
父親の失踪あるいは死を忘れ、過去のわだかまりにけりをつけて、新たな未来に自分の人生を投ずることこそ重要で、過去にひっぱられていては何もできない。うじうじしすぎだという意見がネット上にもあるのだが、そうした批判に答えるべく、映画は主人公に、いま現在の世界は、どこかおかしい、まちがった世界であり、それを正すには、過去へもどるしかないという考え方を視聴者に求めている。
この、なにか狂った世界を正すために過去へともどるという考え方。おそらくここにあるのは、タイムトラベル物にある過去改変・歴史改変という、お約束の設定であり、それが暗示的に示されている。実際、過去へのタイムトラベルは、狂った現在を是正するためにあったのではなかったか――たとえば『ターミネイター』の世界では、人間と機械がともに現在において勝利するために過去を変えようとする。
またこの映画では、さらに、設定状の約束事の暗示のみならず、現在の狂いを、突発的な死とか流産が証左であるかのように暗示する。また過去に行った父親も、暴漢によって殺されるらしいのだが、原因は不明。監督はカナダ人だが、インド系の人である。そのため理系的・数学的能力に優れていて科学者や科学の天才が登場するSF映画にぴったりと、ステレオタイプで想像しがちだが、映画が示している世界観は、むしろ科学的というよりも、神秘的な要素を強く漂わせている。
過去に行って行方不明となった父親を捜す息子という、家族愛テーマのSF映画だが、それ以上の何かを示唆しているところがある。謎は、家族愛を超える、あるいは家族愛に寄り添う、いまひとのテーマを暗示する装置でもある。
というのもレヴューアーにも気づいてほしいのだが、タイムマシンを使って1946年という過去に戻った父親が、なぜアインシュタインに会いに行ったのか。観光旅行気分で過去にタイムトラベルし、有名人のアインシュタインを一目みたい会って話をしたいというミーハー気分で、いやあこがれの人物に対して抱く夢を科学者として実現させようとしたのか。父親がアインシュタインに会うというので息子は、いまさらアインシュタインに会って、何を教えてもらうのかと問うている――それは、この映画を21世紀で見ている私たちすべてが抱く疑問だろう。
断片的あるいは暗示的にしか映画のなかでは語られていないが、父親は、アインシュタインに、原子爆弾関連の理論上の発見を伝えようとしているふしがある。それは、原子爆弾関連のテクノロジーを飛躍的に高め、それを世界各国が手に入れたら原子力兵器の使用可能性が高まる、そんな情報らしいのだ。アインシュタインと原子爆弾とかアメリカのマンハッタン計画との関係は、わかっていないことが多いのだが、ただ戦後、アインシュタインが原爆に強く反対したことは確かである。アインシュタインにとって原爆が変えてしまった世界は、できることならもとにもどしたい世界でもあった。
これに対し父親は科学者の知的関心の赴くまま、原爆を改良する何らかの情報をつかみ、それがもたらす変化あるいは惨禍など気にもとめず、ただ無邪気に、あるいは科学者の性癖として、それをアインシュタインに伝えようとしている。倫理とか社会文化的・歴史的影響などは無視。科学のエキスパートとして、知の無制限の探究を続けるだけである。
このことに息子は驚く(あるいはそのあとの行動からして予期していなのかもしれない)。すぐにも2004年に戻るべきと語る息子に対して、暴漢に襲われないよう用心して、とにかくアインシュタインに会うと、言うことをきかない。そのため息子は予想外の行動に出る。
自分の科学上の発見に夢中になり、それを、三歳の幼児のように無邪気に、アインシュタインに伝えることしか眼中にない、つまりその科学上の発見が、以後、地球に惨状をもたらす可能性など、三歳の幼児のように無頓着で考えることもない、この父親は、ある意味、科学者の典型である(ただし、この映画では、ただの科学者ではなく、マッドサイエンティストであることを臭わせているのだが)。
しかし、これは科学者が悪魔の使徒だからということではない。科学者が考えるのは、あるいはどうしても考えがちなのは、すべてをロジックと数式上の問題に還元することであって、それ以外のことは科学的思考にとっての夾雑物にすぎない。また数式上の問題として解決することが最優先され、解決に到達すれば、他の一切は無関係なこととして消滅する。
数字上の問題にすぎないのなら、人は何百万の人間すら殺すことができる――アイヒマンについてアーレントが考えたように(役所仕事の一環ならばともアーレントは考えたのだが)。科学的ロジックの問題にすぎないのなら、人は地球を壊すこともできる。したがって、行為の帰結を多角的に検討するためには、論理以外の思考方法を導入すれことになる。
【なおこれは、さらに現代の問題として、規制とルールだけの問題だけなら、動物園は、飼育していたキリンですら公開処刑してライオンの餌にすることができる(2021年7月9日の記事参照)――見学者を募ったし、その映像はいまもネット上でみることができる。規制とルールの問題だけなら、名古屋出入国在留管理局は病気になった外国人女性を、動物のように殺すこともできる(コロナ感染者を自宅放置する管政権を凌ぐ非人道ぶりである。)】
もちろん専門家としての思考が破滅的な帰結をもたらすというのは科学者だけではない。政治家あるいは権力者の場合もそうである――すべてを敵と味方の区分、覇権、支持率に還元して思考するのだから。それゆえ、
ある専門家は、核ミサイルを発射させるボタンは大統領の親友の胸に埋め込むべきだと提言した。そうすれば、彼が核兵器を放つと決めた場合、自分の有人に身体的暴力を加えて、彼の胸を引き裂かなくてはならない。そのことを考えると決断に感情ネットワークが動員される。デイヴィッド・イーグルマン『あなたの脳のはなし』太田直子訳(ハヤカワ/ノンフィクション文庫2019)p.156.
ここでは核ミサイルがもたらす惨禍を、広島・長崎の記録映像とか、ヴァーチャルなシミュレーション映像を見せて、戦争回避を促してもよいようなものだが、そんなことには動じないような人間に、最後の手段として、親しい者、愛する者の死をつきつけるということである。
大統領の親友のかわりに、大統領の息子でもいいだろう。要は、決断と行動が、人命にかかわる問題であること、そして死は、ただのイメージではなく、自分にとって親しい者たちが、自分にとって愛する者たちが死んだとき、あるいは彼らを自分が殺してしまったとき、自分がどう反応するかという情動問題として受け止められたとき、はじめて、真剣な多角的検討課題がはじまることだろう。それはまた平和への希求を必然的にもたらすはずである。
この映画の暗示の、さらにまた暗示のレベルだが、アインシュタインは、広島・長崎の惨状をなんらかのかたちで見聞して、核兵器廃絶と平和実現へと邁進することになったが、そのアインシュタインに、彼自身が見切りをつけた原爆関連理論を補完する情報をもってくるという、空気を読めない、殺されてもおかしくない愚行に無邪気に走る父親も、その行為の重さを、息子の死をもって知ることになったのだ(息子に会うことなくアインシュタインに会った父親のほうは、会った当日の夜に謎の死をとげる――その意味は、諜報機関による謀殺から、天罰までさまさまであろう)。
最後はハッピーエンドである。父帰る。
本来なら父親は空港で出迎えられるはずなのだが、出迎えのないまま自宅に帰る(出迎えのないのは、放蕩息子の帰還のイメージがある、あるいは日本風にいうと菊池寛の『父帰る』のイメージ)。妻と息子、そして息子の長馴染みの女の子が、いつもとかわらぬ日常を送っている――彼らのその後の人生は望まし方向へとすすむことが予感される。父親は何事もなかったかのように帰宅を迎えられるのだが、その顔には憂愁が漂っている。死んだ息子が、幼い息子として生きていることの戸惑い。あるいは息子の死の衝撃が残っているのか。もはや、そこには無邪気な天才科学者の面影はない。幼年期が終わったのである。