2021年08月10日

『タイム・ルーパー』

原題はTime Again。2011年アメリカ映画。88分。B級というよりもC級。本来ならZ級といいたいところだが、Zはゾンビあるいはゾンビ映画のことなので、まぎらわしいのでBかC級としておく。

私はネット上での感想は、あまり信用していなくて、褒めている作品については、これのどこが褒められるのだと文句をつけたくなるし、けなしているコメントがあると、映画を見たり理解するときのリテラシーがまったくないド素人めと思ったりするのだが、今回のこの映画に限っては、ネット上での映画評に基本的に同意。

hmhm[ふむふむ]というサイトは、映画のあらすじ結末のまとめサイトで、丁寧にあらすじを語っているので、内容を忘れたときにはほんとうに助かるし、おそらくは映画をみていなくても、見た気になる――たぶんこれが、このサイトの正統的な活用法なのかもしれないのだが。で、今回の映画の内容については詳しく知りたければ、このサイトにアクセスすることをお薦めする。

なおこのhmhm,では、詳しいあらすじ紹介の後に、コメントが追加されるのだが、これがひどい。この映画にはこんなコメントがついている。

ライターの感想
この映画は、リム刑事やウェイ、ニューたちとの銃撃戦に迫力があります。発砲音が本物のように聞こえて、やられた時の人の飛び方などこだわりが見えます。本格的すぎない演出で、現実的な印象を与えてきます。マーロは結果的に過去に3度戻ります。それぞれ違った展開など、ストーリーが念入りに作られている印象です。展開は早すぎないので、見やすくなっています。 マーロとサムがレストランで働く様子は、元気で明るいです。ジャックも温かくて、人と人とが優しく接することの大切さを教えてくれます。 長すぎない上映時間が丁度良く、ごろごろしながら観るのにも最適な映画です。


銃撃戦がメインの映画じゃないし、内容からしてそんなものなくてもいい。しかも銃撃戦決してリアルじゃない。いったい、この刑事の拳銃には何発銃弾が装填できるのかというくらい、一度に20発くらいを打ち合っている。これが最後だと弾倉を交換したあとも、緊迫がない無駄弾を20発くらい撃っている。まあ銃撃戦をみせる映画ではないから、リアルじゃないところも許せるのだが、まさか、それを褒める者がいるとは。

そもそも「ライターの感想」と銘打つぐらいだからプロの執筆者なのでしょう。その割には中学生レベルの作文でしかない(中学生の皆様、ごめんなさい。「もっとまともな文章は、小学生でもかけるぞ」と書くべきでした)。

このライターの感想は無視して、

過去に妹を殺された姉は、不思議な力を持つ老婆によって妹が死ぬ前の過去へタイムスリップする。妹を救い現在に戻れるのか!?って話
場所が1つのビルの中でのみっていう、小規模な過去改変系タイムスリップ映画。この人いる必要あった?てかこの人何者?みたいな人が多い。あと時間系は綿密な脚本が求められるのに、タイムパラドックスとかとかあんま考えられてなくて微妙。んーそこそこ楽しめはするけども、かなり微妙な映画でした。


TSUTAYAのサイトに、こんなコメントがあったが、まあ妥当な感想という他はない。もう少し辛辣なコメントもあるのだが、残念ながら、日本語の文章力がなくて、「しかし」という接続詞の用法がおかしいのだが、それは我慢するとして、

ひどい映画
この映画はかなりの低予算で作られています。
しかし高額な予算をつぎ込んだ映画=素晴らしい映画ではありません。
低予算でも良作はいくらでもあります。
しかしこの映画は最悪です。
カメラワーク、ストーリー、演技どれをとってもひどい出来です。
タイトルの通り、タイムループするのでせめてラストは、と期待していましたが駄目でしたね。
映画というよりサークルの出品物です。


サークルの出品物というのが、言い得て妙で、まさに、下手な学生映画レベル。まあシナリオは出来上がったのだけれども、これを水準以上の映画にする機材もなく、ロケ地もあてがなく、俳優を使って撮影するなど夢のまた夢。したがって、映画として完成すれば、こんな感じであると、近所のダイナーと倉庫を借りて撮影、知り合いに演じてもらってつくったデモテープみたいなものと考えれば一番いいのかもしれない。もし私たちが、本物のプロデューサーであり、送られてきたこのデモ映像をみて、本格的な映画として完成させたらどうなるのか、どの俳優に演じてもらったら迫力があり感動的な映画になるのかと想像をたくましくするのなら、それはそれで楽しいかもしれないが、別にプロデューサーでもない私たちにとって、この映画はイライラが募るばかりである。

主役は若い姉妹二人なのだが、ポスターなどでは、男性二人の顔しか出ていない。刑事と犯人の二人なのだが、この二人が、ある程度名の知れた俳優らしく、主役の二人の女性はまったく無名。また無名で、主役にふさわしい女優のオーラというものがまったく感じられない。たとえ演技が下手でもオーラがあれば、それで見ることができるのだが、まったくそれがない。

ただしタイム・ループ物というのは、たとえどんなに俳優がひどくても、撮影が雑でも、物語というかプロットの不思議さ、面白さで、思わず見入ってしまうことも事実。その意味で、この映画は、プロットによって助けられている。

ループ物の常で、実際、どこからループが始まったのかわからない。というか、それはわかるのだが、映画の作りとして、冒頭で観客は、ループが始まっているまっただなかに投げ込まれる。ループ物の常で、何時始まったのかわからないループと、はじまりがわかるループ、いずれであっても、映画の作りとしては、in medias res すなわち途中から始まっている。

たとえ私たちの自身も、一回しかない人生を生きているつもりでも、実際には、何度目かのループかもしれないという、面白さ、あるいは恐怖を、ループ物の映画は常に喚起することは、どんなに強調しても強調したりないだろう。

とはいえ、この映画は、過去のループ物の約束事を、なんの説明もなく使っているところがあって、そのあたりにシナリオの詰めが甘い。まさに学生映画のなかでも下手な部類にはいる作品である。

たとえば、冒頭、銃撃戦に巻き込まれた姉妹は、建物屋上から二人で飛び降りる。飛び降りて死ねば、現在の世界にもどることを知っているからである。しかし、なぜそんなことを知っているかの説明はない。説明はないが、タイム・ループ物の映画は、死ぬことで振り出しにもどるのが常である。

たとえば次に語ろうと思う『ハッピー・デス・デイ』では、主人公は、殺されると、その日の朝にもどる。死ねば、もとの世界にもどることがわかると、続編『ハッピー・デス・デイ2U』で主人公は、自暴自棄ににあってありとあらゆる死に方を試して、その日の朝にもどる。まさにブラックすぎる笑いを、この死んで後戻りの展開は提供してくれる。

あるいは同じくタイム・ループ物のSF『オール・ユー・ニード・イズ・キル』でトム・クルーズは、とことん死にまくる。何度死ぬか、数え切れない。

ただ、この二つの映画では、なぜ死ぬと元に戻るかの説明はある。また死なないことで、ループから解放されるということの説明もあるのだが、この『タイム・ルーパー』では、その説明はない。むしろ、こうしたタイム・ルーパー物映画のお約束と、無批判に戯れているだけである。

主役二人の女優にオーラがないし、妹のほうが姉にみえ、姉のほうが妹にみえるなど、他に女優がいなかったのかと思えてくる。やはりこれは、本当に女優に演技してもらう前の参考資料、デモ映画としか思えなくなる。見ている者たちのイライラはつのる。

二人の姉妹は、マーローとサムという、なんとなく男性の名前になっている。サムはサマンサの略だから必ずしも男性名ではないのだが、ではマーローは何の略なのだろうか。いや、そもそも、サムとマーローというのは心当たりがある。そう、サム・スペイドとフィリップ・マーローのことだ。古典的ハードボイルド探偵で、どちらもハンフリー・ボガートが演じたことがある。で、この二つの名前には、この映画のなかで、どんな含意があるのだろうかと、考えてみた。考えに、考えたが、答えがみつからない。まあ、ただのお遊びなのだろう。サムとマーロー――それがどうしたというレベルでの話でしかない。

この姉妹の姉が過去にタイムトラベルできるようになるのは、古代ローマの魔法のコインのおかげである。このコイン一枚で過去と現在を行き来できるという。まあSF仕立てではなく、魔法ファンタジー仕立て。彼女はタイムトラベルを何度もするので、魔法のコインもいよいよなくなることになる。またこの魔法のコインを、ギャングも狙っているという設定。

そもそもの始まりは、魔法使いのような年配の女性が、姉のほうをコインを使っていきなり過去に送り込むことである。タイム・ループ物語が立ち上がるといってもいい。

ただ、それにしても、多くの観客や視聴者が気づくことなのだが、この数枚ある魔法のコイン、日本人なら、眼に入るだけで、そのまま忘れないコインなのである。つまりこの魔法のコイン、日本の100円硬貨なのだ。な、なんと。

しかも、100の浮き彫りがある面を、堂々とみせている。ほんとうに一瞬、自分の目を疑ったくらいだ。

それにしても古代ローマ時代の魔法のコインに、なぜローマ数字ではなく、アラビア数字が見出せるのだ。古代ローマ人は、アラビア数字を知っているわけがない。なんという無知な映画。安すぎる映画。100円ショップで売っているような映画である。

posted by ohashi at 03:35| 迷宮・迷路コメント | 更新情報をチェックする