つまり誰もが自身の言動については、観客を想定しているからである。強いて、ほんとうの無観客状態というのがあるとすれば、それは私のこのブログであろう。誰も読んでいないことを想定して書いているし、もし、誰かが、読んでいるということがわかれば、私は恥ずかしさのあまり、引きこもってしまい、誰も読まないブログをまた書くことだろう――なんのこっちゃ。
観客、それも、自分にブーイングしてくる観客ではなく、拍手喝采してくれる観客なくして、私たちは、何も発言できないし、思考を練ることもできないだろう。そのため、いくら自分は時流に抗して、人気のない発言、あるいは反感を買うかもしれない発言をするのだと息巻いても、実は、そうした発言を支持し、その発言に拍手喝采してくれる、自分と同類の観客を想定しているのである。自分の発言にブーイングし、物を投げつけてくる観客しかいないところで、発言をすることはありえない。必ず、反対者をうわまわる賛同者がいると想定しているのである。
小山田圭吾の障害者・弱者いじめの告白が話題になって非難の声があがった。しかし小山田圭吾が全世界を敵に回して悪者を演じたとは思えない。その発言のトーンからしても(つまりみずからの過去の愚行を恥じたり後悔したりするようなものではなまったくないので)、あきらかに、自分の発言に拍手喝采してくれる観客を想定している。いじめたことを告白したら世間から顰蹙をかうなどとは夢にも思わず、むしろ褒め称えられることを想定している。そして実際、その想定は間違ってはいないのだろう――障害者に対する悪質ないじめに拍手喝采を送るような人間たちを彼は身近に知っているのだろう。
ちなみに小山田圭吾の発言は、嘘ではないか。自分で、かなり盛った発言をしているのではないかというネット上のコメントがあったが、それは私も同感である。高校生の頃の、入院して夜友達といっしょに病院内でギター演奏した武勇伝めいた告白も読んだが、それもまたほら話に近いような気がした。
ただし実際にいじめをしたのか、たんにいじめをしたと嘘をいったのかについては、どちらも同じである。いじめなくても、いじめをしたという武勇伝語りを拍手喝采で迎える観客だけを相手にしているのであって、これは小山田がクズを相手に自慢話をしたクズであること証明となっている。
いじめ話が本当か嘘かは、どうでもいい。そうした話をするクズと、それを拍手喝采でむかえる唾棄されるべきクズたちがいることに変わりないのだから。
小山田が嘘を言ったことを非難するのは、だから、私たちではない(私たち?――私の観客は、いじめを絶対に容認しない良識ある人びとである)。むしろ弱者をいじめることが勲章にもなる集団の成員たちにとって、勲章にもなる過去の武勇伝を捏造したことに対して、小山田は許せないだろう。そうしたクズ集団によって、嘘つき小山田は粛正されるといいのだ。
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