2021年07月28日

作者と作品

作品とは文学作品とか芸術作品とか、その他、アート一般のことと考えると、作者は小説家とか詩人だけでなく、芸術家、あるいはアーティスト一般のこととみていいのだが、端的にいって、作者と作品は、一体化なのか切れているのかというのは、昔から論じられてきた話題である。

文学理論の分野では、たとえば1940年代以降にアメリカに登場した新批評は、作者の意図を考える誤謬というかたちで、作品と作者とを切り離して考えることを提唱した。もちろん新批評を持ち出すまでもなく、作品と作者を切り離す議論は、近代的世界観の重要な構成要素のひとつでもあった。

極端な話、犯罪者であっても、人を感動させる作品は創造できる。いや、人を感動させなくとも、優れた芸術作品を作ることができる。犯罪者だから、作品が劣っているとみるべきではない。作者と作品とは切れているのだからということになる。

極論かもしれないが、作品評価の際に、作者を考慮することが害をなすことは想像にかたくない。たとえば、誰がみても人格者である人間が創作した作品だから優れているという決めてかかるのはまちがっている。あるいは、一定の資産家の作者の作品は評価を高くしようというのと同じで(注)、作品評価に作者を考慮するようになったら終わりである。作品は、外的評価基準(その最たるものが作者の考慮である)に頼るのではなく、あくまでも作品としての出来不出来によって評価する。そうしないと、限りない不正と誤謬がまかりとおることになる。芸術の息の根をとめることになる。
【昔、二〇世紀のことだが、日本の中高の生徒手帳に書いてある愚劣な校則を紹介するラジオ番組があって、そのなかに「お金持ちの人は尊敬しよう」という校則が紹介されていた。】

だから作者が犯罪者であろうと資産家であろうと二代目だろうと人格者だろうと関係ないというのが公平な芸術評価の大原則であろう。学術研究の場でも、学術誌への投降論文の審査は、執筆者名を隠し、年齢、性別、経歴がいっさいわからないようにして審査することがふつうになっている。作者に対する余計な配慮があったりしては学問の客観性と自律性が失われかねないからである。

私自身は、作品と作者との関係は、切れているかいないかとは別に、切れていると想定することには、意味があると考えている。

ここで思い浮かぶのが、オリンピック開会式を前にしての、小林賢太郎、小山田圭吾、絵本作家・のぶみとの解任あるいは自主的辞任という事件である。

彼らは犯罪者ではないとしても、過去に道徳的に問題のある言動をしたことがわかっている。しかし、そのことと、彼らのアーティストしての業績、つまり作品とその評価は、関係ないのではないかという議論が出てこなかった(出ているのかもしれないが)のは、よかったと思っている。

というのも、これは一見、犯罪者でも、優れたアートを創造しうる、作者と作品とは切れているという議論であるかにみえて、実は違うからである。

なぜなら作者と作品は切れているから、つまり彼らは疑似犯罪者だが、そのこととは関係なく、彼らのアートの素晴らしさによって選ばれたと思われるかもしれないが、実のことろ、彼らは疑似犯罪者だからこそ、選ばれたのである。つまり金持ちだから、有力者だから、そのアートも優れたものと決めてかかるような、最悪の、作品無視、アート軽視の政治的判断で選ばれたからである。

そのことは、オリンピックの開会式では “現役レイシスト”といわれている作曲家すぎやまこういちのゲーム音楽が使用されたことからも歴然としている。すぎやまこういちが、歴然たる右翼ファシストであるからこそ、その音楽が選ばれたのであって、他に代えがたい才能と音楽だから選ばれたのではないだろう。

つまり作品の評価は作者によって左右されたのだ。作者と作品を一体化する、前近代的な、偏向的な、芸術評価・客観的評価とはまったく関係のない基準によって選ばれたのである。

だから、最終的には、かれらのようなクズを選んだオリンピック関係者がクズだったということにある。クズはクズを呼ぶのである。
posted by ohashi at 23:05| パンとオリンピック | 更新情報をチェックする