ジェフリー・チョーサー『カンタベリ物語』池上忠弘監訳、共同新訳版(悠書館2021.7.15)
この7月に上梓されたチョーサーの『カンタベリ物語』の新訳である。久しぶりの新訳であり、全挿話に、解説と訳注がつき、まさに二一世紀のスタンダード版ともいえる翻訳で、装丁も美しい。図書館に一冊はあるべき本であり、個人で蔵書として購入してもよい本であって、自信をもって推薦できる。
個人で蔵書? 『カンタベリ物語』の全訳だから、そんな薄い本ではないはずでしょう? そう全体で1000頁を超える。ならば、そんな分厚い本(聖書とか辞書を連想させる厚さである)、個人で簡単に買えるような値段ではなないはずで、ましてや、お金を持たない、あるいは本にお金を使いたくない若い人たちは、この本を買う/買えるはずがないと思われるのだが……。
だが驚くなかれ、1000頁を超えるこの本は、定価6800円なのである。つまり、この手の本は、1頁10円というの相場なので、1000頁を超えれば1万円を超えてもおかしくないのだが、それが1万円をきっている。りっぱな装丁の本で、安っぽいところはない。これだけでも推薦するに値する。
私は、チョーサーの専門家ではないが、『カンタベリ物語』は、大学院生時代から、原文でゆっくり読んでいて(個人で、あるいは読書会などで)、シェイクスピア研究者なら誰でも読む最初の「騎士の話」以外にも、前半から中盤にかけての物語は丁寧に読んだが、恥ずかしながら、最後の「教区主任司祭の話」は、全体が長く、散文で、しかも段落が超長く、つまらなそうなので、怖じ気づいたこともあって、まだ読んでいないのだが、今回、すくなくとも翻訳で、読むことができそうなので、このチャンスを喜んでいる。訳文は、どの話も、とても読みやすい。
池上忠弘監訳とあるが、正確にいうと監訳ではない。『カンタベリ物語』の全訳を企画された池上忠弘氏の亡き後、その遺志を汲んで、複数の専門家の方々が訳稿を完成されたものである。訳文を完成された編集委員の方のなかには、私が個人的に知っている方もいる。どなたも優秀な研究者であることは誰もが認めることだろう。
そして最後に、この本の価値をいささかたりとも、減ずることのない、あら探し。繰り返すが、これによってこの本の価値が下がるようなものでは決してない。
帯に「〈人間喜劇〉の一大絵巻」とあって、それはそれで、あらありきたりな惹句とはいえ、『カンタベリ物語』の世界を的確に表現しているのだが、「〈人間喜劇〉」には「コメディア・フマナ」とルビがふってある。それはそれ問題ないのだが、「一大絵巻」に「ページェント」とルビがふってあるのだが、このルビは「大絵巻」もしくは「一大絵巻」全体にかかっているように思われるのだが、本来なら「絵巻」だけのルビではないか。
ただ、問題はそこではなく、「ページェント」というのは何語なのだろうか。英和辞典ではpageantの訳語のひとつに「ページェント」が掲げてあるが、発音記号をみると「パジェント」である。おそらくほとんどの英和辞典でpageantの発音は「パジェント」となっている。これは昔、学生時代に英語の時間にpageantを「ページェント」と読んで、先生に「パジェント」と直された経験がある私としては、それ以来、「ページェント」が何語なのか、つねに疑問に思ってきた。なお日本では、中世(英)文学とかシェイクスピアの時代の文学文化を論ずるときには、口頭でも絶対に「パジェント」としか言わない。「ページェント」などと言おうものならド素人かと馬鹿にされる。
ただし、以上のことは、そんなに問題ではない。すごく違和感があったのは、「共同新訳版」という表記。日本語聖書の「共同訳」とか「新共同訳」を思わせる表記で、実際、本そのものも聖書のように分厚い。
ただし日本の聖書翻訳が、これまで珍奇な表現を考案してきたのは事実。たとえば「明治訳」とか「昭和訳」という表記を平気で使ってきた。しかし、平成の時代、あるいは令和の時代の翻訳を、平成訳とか令和訳というふうに表記することはまずないだろう。聖書翻訳だけが、珍奇な表現を勝手に使っている。そのため「共同訳」というのも、事情を知らないと理解できない変な表現である。
その聖書翻訳の、とんでもない表記の伝統を引き継いだのかどうかわからないが、「共同新訳版」というのは、違和感マックスである。複数の訳者の共訳であることと、新訳であることを伝えたかったのだろうが、「~監訳」という表記で、共訳であることはわかるし、新訳とか新訳版と、タイトルのなかで銘打っておけば、すむのではないか。それが「共同新訳版」とは? いっそのこと聖書みたいに「新共同訳新版」とでもしておいたらよかったのに。
とはいえ、だからといってもこの『カンタベリ物語』の新訳の価値が下がることは絶対にないのだが。
