2021年08月04日

モレッティ『ブルジョワ』

フランコ・モレッティ『ブルジョワ――歴史と文学のあいだ』田中裕介訳(みすず書房、2018)を読む必要に迫られて手に取った。もちろん、あえてここで言及するのだから、きわめてよくできた翻訳であり、誰にも自信をもって奨めることができる本である。

内容も、モレッティの他の本と同様に、きわめて興味深く、また私としては教えられることばかりだが、この『ブルジョワ』の読者としては、やや異端的な読者といわざるをえない私としては、最後のイプセンの章が、とりわけ興味深かった。

イプセンについては、これは読んだり見たりすれば、誰にでもわかることだが、必ずしも、充分に論じられていないこととして、資本主義時代のブルジョワの精神を扱っていることである。ノルウェーは、おそらく他のヨーロッパ諸国に比べて資本主義の到来が遅かったと推測できる。他のヨーロッパで、あらかた毒を振りまき、地獄を出現させ、腐敗し衰退しつつあった資本主義も、周辺国のノルウェーでは、新たな社会と経済体制の到来をもたらす、新鮮このうえない革新性の波となって押し寄せる。そこに生きたLarger-than-lifeといえる傑物たちの栄光と没落の悲劇世界を現出させたのがイプセンの現代劇だと思っている私としては(いや、誰もがそう思っているのだが)、モレッティの議論は、とりわけ参考になった。イプセンの数多の研究者たちには失礼ながら、それは、イプセンの世界をはじめて真正面から捉えた議論であった。

あとは、私の得意なあら探し。とはいえ翻訳とか本文についてではない。だから、残念ながら、このあら探しによっても、この本の高い価値は、いささかなりとも減ることはない。このことは断言しておきたい。

巻末に文献一覧があり、そこには日本語訳も併記され情報価値が高いものとなっている。

The Arabian Nights: Tales of 1001 Nights, Harmondsworth 2010.とあって、
〔大場正史訳『千夜一夜物語:バートン版』全11巻、ちくま文庫、2003-2004年〕


とある。ペンギン版の新訳の『1001夜物語』が書目としてあげてあるのだが、そこに、わざわざ「バートン版」と断っている日本語訳を出すのはいかがなものか。ペンギン版の新訳が依拠している写本と、バートン版が依拠する写本とは違っているはずだが、たとえ同じでも(この点は、まだ確認していない)、新訳の英語とバートン版の英語は異なることはいうまでもない。つまり、この新英語訳を日本語訳にしたものは出ていないのである。

あと、書目一覧には、複数の日本語訳がある原書も、一つしか示していないようなのだが、それはそれとしても、やはり、アラビアン・ナイトの日本語訳は、完訳版もふくめて、多数存在するので、ひとつだけというのはどうか。

まあ、大場訳『千夜一夜物語』を、あくまでも参考作品、参考翻訳として出しておけば、それはそれで問題ない。

私は昔、バートン版を完訳した大場訳を全部読んだのだが、たとえば、なぜ『千一夜物語』ではなく『千夜一夜物語』でなくてはいけないのかをめぐるバートンの議論など興味深く読んだ記憶がある(「千夜一夜」は「永遠と一日」みたいなものである)。それを思うと、新英語訳とバートン訳とは別物だという気がする。

ヘーゲルの本が書目一覧にあって、そのなかに『精神現象学』が掲げてある。この書目一覧では、日本語訳として、岩波のヘーゲル全集のなかの『精神の現象学』というタイトルの日本語訳が示されている。

ところが本文では『精神現象学』と表記している。『精神の現象学』ではなく、『精神現象学』である。一般には『精神現象学』という表記で通っているから、本文における『精神現象学』という表記は妥当なものと思うのだが、ではなぜ書目一覧で、わざわざ『精神の現象学』というタイトルの日本語訳を選んだのか? それしか日本語訳がなければ、それでいいのだが、『精神現象学』というタイトルの翻訳は、文庫本(たとえばちくま学芸文庫や平凡社ライブラリー)もふくめていろいろ出ている。なぜそれを記さないのか。そもそも、複数の日本語訳があっても、そのうち一つしか示さないという、選択は誰が決めたのか。

もちろん複数の日本語訳があるものの場合、すべてを網羅することは、不可能な事が多いので、どうしても選択的になるのだが、網羅的でなくても、一、二冊、あるいは数冊提示することは、そんなに変なことではない。

さもないと、一冊しか提示しない場合、それを最高の権威ある翻訳として示しているような誤解をあたえはしないか。『精神現象学』の翻訳の文庫版が、岩波の全集の翻訳に比べて劣っているとは思えない。もしそのような印象をあたえるなら、それは虚偽の情報操作である。

ちなみにニーチェの『道徳の系譜』には、複数の日本語訳が掲載されていて、一作品、一翻訳という原則はないことがわかる。あるいはヘーゲルの翻訳は最高のものがひとつしかないが、ニーチェのものは甲乙決めがたいというのか。そんなバカな。

要するに、いい加減なのだろう。

ただそれにしても、訳者あとがきと、また巻末の索引の直前の頁に、
編集 勝 康裕 (フリーエディター)

とだけ、堂々と記してある。

恥ずかしながら、どんな方は存じ上げないが、ここまで明記するというのは、みすず書房が編集をこの方に丸投げしたということなのだろうか。出版事情については、なにも知らないのだが、出版社が編集を外注することはあるのだろうが、外注先を明記するのは、礼儀なのだろうか、あるいはこの勝氏が有名な方で、その名前が明記されることは、本の価値を高めるのだろうか。

それにしても「フリーエディター」って、何? これはそもそも何語なのか。日本語?英語ではないでしょう。将来、日本語になるかもしれないし、英語になるかもしれないのだが。これは、フリーランスという意味なのだろうか。これから英語でも日本語でも、フリーランスという意味でフリーという語が使われるのだろうか? そうなって欲しくはないないのだが。

posted by ohashi at 03:43| 推薦図書 | 更新情報をチェックする