4月12日の記事で触れた、ある学会のパネルディスカッションで、私以外のすべてのパネラーが、既婚者であることを、聞かれもしないのに語ったことに、同性愛を話題としたり研究したりしても、自分は同性愛者ではないことを示唆するという、姑息なホモフォビア言説の存在を私は指摘した。
そのパネラーは、自分たち夫婦のように、子どものいない夫婦は、資本主義社会では、再生産の手段とならないために、無意味な存在だと語ったのである。まあ、それはそうだが、子どものいない夫婦でも、資本主義に貢献することはじゅうぶんにあると思うのだが、それはさておき、子どものいない夫婦のもつimplicationというのはある。テネシー・ウィリアムズの『やけたトタン屋根の猫』のように――と指摘しようと思ったが、テネシー・ウィリアムズの作品としては『欲望という名の電車』にならぶ人気と評価を誇るものの、日本での知名度はないので、混乱を招くだけだろうから、やめた。
『やけたトタン屋根の猫』は映画化もされたのだから知名度は高いかもしれないものの、この映画からは同性愛のテーマは削りとられている。また『欲望という名の電車』のスターがヴィヴィアン・リーとマーロン・ブランドのコンビなら、『熱いトタン屋根の猫』(←日本での映画タイトル)のスターは第二のヴィヴィアン・リーかもしれないエリザベス・テイラーと、第二のマーロン・ブランドであったポール・ニューマンのコンビで、「第二」感が否めないのも事実。そして同性愛問題の扱い。
では私が、『やけたトタン屋根の猫』を例にあげて、何を言わんとして言わなかったのかというと、そこに登場するブリックとマギーの夫婦は、子どもがいないだけではなく、性交渉もないことが周囲にも知られており、また妻のマギーも、そのことを気にしているのだが、子どもがいないだけならばまだしも、性交渉もないとなると、そして妻の方は夫の親密な関係をたえず模索していることなると、この場合、夫はゲイである可能性が高い。
現実の、そうした夫婦がすべてそうだということではなく、あくまでも文化的・文学的表象のレヴェルの話である。また現実においても、ゲイであることを隠蔽するために結婚することは多く、そうした偽装結婚夫婦は、異性との性交渉には関心がないばかりか嫌悪感をも抱いていることもある。そのため当然、子どももいない。子どものいない夫婦とは、文化的文学的表象レヴェルにおいて、夫はゲイである。
みずから子どもがいない夫婦であることを、聞かれもしないのに告白したパネラーの男は、実は、たとえヘテロでもゲイ男性と誤解されるかもしれない可能性に気づきもしなかったのである。
あるいは、ゲイ男性と誤解されて同性愛者と連帯する可能性をみずから排除した――「私たち夫婦には子どもはいません、そのため私などゲイ男性と誤解されることがなきにしもあらずです、この同性愛者とみられる可能性をもつことで、自分のなかに同性愛的欲望があるかのように思えてくることもあります、たとえ私は妻を愛しているとしても、同時に、同性愛者、あるいは両性愛者になったような気持ちにもなるのです……」というくらいのことは話してもいい。
だか、おそらくこの馬鹿男は、こうしたことだけは絶対に口にしたくなかったのだろう。こうしてゲイ男性を、この馬鹿男は二度殺したのである。一度目は、みずからが結婚していることを、聞かれもないことで話し、同性愛者への嫌悪感/恐怖感を暗示的ににおわせることで。そして二度目は、子どものいない夫婦であるがゆえにゲイ男性と誤解されるかもしれない可能性を考慮せず、その誤解から生ずるゲイ男性との連帯の可能性を排除したがゆえに。
『やけたトタン屋根の猫』は、映画版でもオリジナルの劇場版でも、ブリックとマギー夫妻の性交渉のなさが前半の関心事となる。だが、その原因が、映画版では、妻のマギーが夫を裏切り、夫の友人スキッパーと寝たと夫ブリックが思い込んでいて、不貞の妻を許せないからセックスもしないという設定になっている。だがオリジナルの劇場版では、夫が妻とセックスしないのは、妻の裏切り(と誤解していたもの)を許せなかった事もあるが、それ以上に、同性愛的欲望が強かったということになっている。
つまり劇場版でのホモセクシュアル関係を、映画版ではホモソーシャル関係に変えたのである。
映画版では、マギーは、ブリックとスキッパーの友情にひびを入れる悪女である。あるいはマギーという女性を求めてブリックとスキッパーという男性が争う三角関係が成立する。いっぽう劇場版では、ブリックの愛をもとめてマギーとスキッパーが争いあうという三角関係が成立する。前者がホモソーシャル関係、後者がホモセクシュアル関係。スキッパーの自殺は、ブリックがマギーと結婚したことに起因するのかもしれない。ほんとうの裏切り者は、スキッパーへの愛(同性愛)に気づくことなく、異性との結婚を選んだブリックなのである。
これは夏目漱石の『こころ』における、「先生」が東大生であった頃の惨劇と同じ構造をしている。東大生だった頃の「先生」とその友人は、下宿屋のお嬢さんをめぐってライバル関係にある(ホモソーシャルの三角関係)にみえるが、実は、その友人は同性愛者で、東大生だった「先生」への愛をめぐって下宿屋のお嬢さんとライバル関係にあったとも考えられる。ホモソーシャルの三角関係にぴったり重なり合いながら、その関係性を異性愛から同性愛へと変えてしまうホモセクシュアルの三角関係。その帰結を、『猫』は、当事者の同性愛パニックというかたちでさらに追求している。つまりブリックは、スキッパーとの関係をあくまでも友情ととらえ、同性愛とはみてない。同性愛の存在をかたくなに拒むのである。そしてスキッパーの自殺と、妻が不貞をはたらいていなかったことを知るに及んで、いよいよ自分の同性愛的性格に直面することになり、もはや立ち直れなくなる。
映画版にある印象的な場面は、ブリックの父親(ビッグダディと呼ばれている)が、メンダシティmendacity(虚偽とか偽りを意味するこのmendacityという単語は、この劇を見たり読んだりする者が確実時に覚えるようなり、また絶対に忘れることのない単語でもある)に耐えられないと語る息子ブリックに対して、お前はメンダシティに耐えられないのではない、お前自身がメンダシティそのものなのだと語るところである――とはいえ、この台詞は劇場版のほうにこそふさわしいのだが。
つまり劇場版ではブリックは自身の同性愛に気づいていないか、目を閉ざしているのであって、そんな人間は、よく「メンダシティ」に耐えられないとほざくかと観客は思う。おのれが歩く「メンダシティ」ではないか、と。
劇場版では、このビッグダディは、若い頃、下働きから努力の末に、大農場と大邸宅を受け継ぎ、いまの地位に上り詰めたのだが、大農場は、もとは二人の男性によって共同運営されており、この二人はゲイだったといわれているのだ。ふたりのうち一人が死んだとき、若き日のビッグダディはその後釜に座る。彼自身もまたゲイあるいはバイセクシュアルだった可能性もある。また、ビッグダディが、早々と結婚して子どもを五人ももうけている長男ではなく、子どものいないゲイの次男のほうを偏愛するのも、ビッグダディその人がゲイであったという可能性がある。ゲイの父親がゲイの次男を愛する(アン・リー監督の『ウェディング・バンケット』(1993)も同様な関係を扱っていた)。
映画版では、こうした要素はきれいさっぱりと拭いさられ、ビッグダディは、ゲイのカップルが運営してた大農場の後を継ぐのではなく、裸一貫でいまの企業帝国をこしらえたとされる。自らの人生を振り返って、虚飾と迷妄から醒めたかのようなビッグダディと、妻のことを誤解したいたことを悟ったブリックとが、強欲な長男夫妻の詐欺的な遺産相続手続きを退ける。しかし強欲ぶりを非難された長男も、また父親への愛に目覚めるというかたちで、この一家は絆をあらためて強めることになる。メグは自分の子どもができたと嘘をつくが、メグへの誤解がとけたブリックは、おそらく妻とベッドをともにし、遠からず、ほんとうに子どもをつくるだろう、そして末期がんで死にゆく父親を安心させるだろうと思わせて映画は終わる。
ビッグダディの誕生日を祝って集まった家族という、ある意味、カジュアルで明るく悩み事などない裕福な家族という設定が、つねにとんでもない緊張関係をはらみ、映画は最初から最後まで劇的緊張と衝突でつらぬかれているが、それでいて、芝居臭さを感じさせないところはみごとというほかはない。さらにいえば劇場版における同性愛と同時に大きなテーマである虚偽と真実の対立も、映画ではきちんと提示されて、演劇性や思想性ともに、高いレヴェルを維持している。だから劇場版に劣らず優れた作品である。
もちろん映画をみた感想としては、オリジナルの劇場版にあった同性愛問題は、どうなっとるんじゃ~と、おいでやす小田みたいに大声で毒づきたくもなることも事実。
だが『セルロイド・クローゼット』が示しているように、ハリウッド映画は、同性愛的要素を隠して消去してしまうのではなく、気づかせないようにしつつも、わかる人にはわかるように、温存している。カムフラージュしているといってもいい。この映画は、劇場版にあるような同性愛問題ではなく、家族問題にテーマを振り切ったかにみえて、同性愛性を随所ににおわせている――同性愛は抑圧されているのではなく、すぐにはわからないように表に堂々と出ている。
いいかたを変えると、さすがに劇場版におけるエクスプリシットなゲイ関係は映画では表象しにくい。そのため陽動作戦というか目眩ましというか安全弁というべきものを用意した。同性愛関係から、妻の不倫とか妻への嫉妬という異性愛関係への移行。さらにテーマも異性愛か同性愛かという緊迫した選択問題ではなく、失われた、あるいは危機的状態にある家族の絆の復活へと変わったのである。
たとえば、劇場版でも映画版でも同じだが、読んでいると印象に残らないのがブリックの足の悪さである。怪我をして松葉杖で移動している彼の姿が視覚的に強烈である。そのためブリックの存在感をいやが上にも高めているのだが、同時に、足が悪いことは、現実に足に障害をかかえている人がそうであるということではなく、文学・演劇表象においてはという保留がつくが、一般的に同性愛者を意味する。ゲイ作家であったサマセット・モームの自伝的小説『人間の絆』の主人公は足に先天的な障害を負っていた。足が悪いことは、この小説における隠れた同性愛的要素となっていた。
先に映画版ではブリックとスキッパーの関係は男性どうしの友情関係となっていると述べたが、これもまた、同性愛的関係の暗号であって、ホモソーシャル関係は、ホモセクシュアル関係を排除するのではく、ホモセクシュアル関係をまぎれこませることもできる。ホモソーシャルは、ホモセクシュアルのカムフラージュともなるのだ。
つづく
2021年04月14日
『やけたトタン屋根の猫』
posted by ohashi at 20:06| 映画・コメント
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