英語で「七転び八起き」というのはどういうのだろうという疑問は愚問である。実際には、そういう質問に答えているサイトがあって、笑ってしまうのだが、同じ表現が英語にあるかどうかということなら、そういう表現はない、と答えるしかない。類似の内容の表現はあるかといえば、まあ、どの言語や文化にも同様の表現はあるだろう。英語には、類似の表現なり諺なり成句があると紹介しているサイトがある。しかし、同様の表現なら、とくに英語に詳しくなくても、たとえば“Never give up”という表現くらい思いつくだろう。「七転び八起き」というのは命令文ではないが、“Never give up”と同じ意味だといっても、まちがいはないだろう。
ところが「七転び八起き」が、英語表現に取り入れられ初めて、将来、類似表現ではなく、それの直訳が使われるかもしれない、いやひょっとしてもう直訳が使われているのかもしれない。「七転び八起き」を英語でいうと、こうだと類似表現を掲載しているサイトは修正すべきである。「七転び八起き」の直訳はあるのだ。
『私立探偵マグナム』というと、私のような老人にとって、アメリカでは1980年から放送され、日本でも1984年から放送された、トム・セレック主演のシリーズを思い浮かべてしまう。いまトム・セレックは『ブルー・ブラッド』で大御所感をこれみよがしに発散しているが、トム・セレックのマグナムは、たとえ髭をはやしていてもスマートな軽妙さを存分に発散していて、当時、人気の絶頂にあったのもうなずけた。
当時、日本にいていわからなかったのは、『マグナム』が『ハワイ5-0』の後釜として放送されたことだが、『ハワイ5-0』は日本では私が子どもの頃みただけで、その後は放送されていなかったので、その存在をすっかり忘れていた。『マグナム』もハワイが舞台だったので、関連に気づいてもよかったのが、1984年当時『ハワイ5-0』はヴェンチャーズの音楽とともに、子どもの頃に消え失せた存在だった。
『私立探偵マグナム』のリブート版が2018年からアメリカで放送されていて、日本でもBSかCSで放送さたのだが、そのシーズン2(現在アメリカではシーズン3まで放送)がAXNジャパンで放送されることになり、最近、シーズン2開始前に、シーズン1を一挙再放送した。熱心なファンではないので、ときどきぼんやりと見ていたのだが、シーズン1の終りのほうのエピソードで、ジェイ・ヘルナンデス演ずるマグナムの(正式ではないが、実質的な)パートナーともいえるジュリエット・ヒギンズ(パーディタ・ウィークスが演じている)が「七転び八起き」の話をするので驚いた。
【余談だが、イギリスの女優パーディタ・ウィークスの出演映画を私はみたことがあるはずだが、彼女の存在は認知していない。ただ「パーディタ」という名前があることにすくなからず驚いた。ハーマイオニーといい、パーディタといい、一般的な名前というよりも、シェイクスピア劇にしか出てこない名前だが、彼女たちが現実にいると思うと不思議な感じがする】
べつのことをしながら字幕版をみていたので、英語表現ははっきり聞いていない。たぶん“Fall down seven times, get up eight”ではなかったか。WikipediaのJapanese proverbsという項目にも、調べてみると、この「七転び八起き」が紹介されていて、そこでは“Fall seven times, stand up eight”と表記されている。たぶんこうした英語で紹介されているのだろう。これがわかったのも『マグナム』のリブート版のおかげなのだが、驚きはそれだけではなかった。
ジュリエット/パーディタ・ウィークスから「七転び八起き」の話を聞かされたマグナム/ジェイ・ヘルナンデスは、七回倒れたら、七回起き上がるのであって、なぜ八回なのだと問いかける。倒れた回数と、起き上がった回数は同じではないか。なぜ八回なのだ、と。
たしかにマグナムのいうように、転んだ回数と起き上がる回数は同じはずで、なぜ起き上がる回数が一回多いのだ。「二泊三日」という表現があるが、これは移動する日数は泊まる回数よりも自動的にひとつ多くなる。こういう必然的というか機械的法則が「転ぶ」と「起きる」の関係にあるのだろうか。マグナムはエピソードの最後まで、この数字にこだわっていて、やっぱり八回はおかしいとジュリエットに伝えている。
ひとつの有力な考え方、それもあまり合理的ではない考え方というのは、七回倒れたり、転んでも、一回余分に起き上がるくらいに、resilienceが強いというか、resilienceの意欲に満ち満ちているというような、意味としてはナンセンスだが、そのナンセンスぶりがnever-give-up精神の強調表現になっているということもいえる。
シェイクスピアの『お気に召すまま』にあるフレーズに「永遠と一日Eternity and a day」というのがある。永遠は有限なものではないので、そこに何かを加えたり削ることなどできないのだが、それでも永遠に一日を足すことで、永遠よりもさらに長い期間という、ナンセンスだが、なんとなくわからないわけではないことをいわんとしているのではないか。この七回倒れて七回起きるだけなく、よぶんに八回起きてしまうというところに、ナンセンスだが、復元力・回復力のすごさの強調とみなすことができる。
英語のサイトでは、これを日本の諺だとしているのが、もちろん、こういう諺の例にもれず、これは中国から入ってきたものである。ただ、その正確な出典がわからないみたいなのだが、中国では「八」というのは縁起の良い数であって(「七」もそうだという説もある)、「八回起きる」という表現で、縁起のよさ、神聖なもの、奇跡的なものという意味を付与して、起き上がることの意義なり重要性なりを強調しているともいえる。まあ、そんなところのなのかもしれないが、もちろん合理的な説明もできる。
そもそも転んだり倒れたりするには、立っていなければならない。寝転んでいたり、横になっていては(つまり立っていないのなら)、転んだり倒れたりできない。だから最初は立っている。あるいは立ち上がる。英語でもrise and fallというように、先ず立ち上がる。人間はほかの哺乳類とちがって生まれてすぐに直立歩行できない。成長して立ち上がる。人間には、立ち上がること、一人前になるとか成人になることが、大きな目標となる。あるいは成功すると考えてもいい。問題は、せっかく一人前になって立ち上がったとしても、あるいは努力とか運によって成功に恵まれたとしても、次の瞬間、倒れたり転んだりする不幸がまちかまえている。あるいは立ちあがることによって、それまでなかった、転んだり倒れたりする可能性が同時に発生するということもできる。こうして、立ち上がる人間は、必ず倒れる。しかし、倒れてもまた起き上がるという気概を失ってはならない。
こう考えれば、rise and fall――「起き上がる」というと「転んだ」が前提となっているようだが、「起」は成長して立ち上がるという意味も含まれるのだから、物語は、あるいは悲劇は、立ち上がった(成長した、成功した)ところから始まる。つぎに襲ってくる、怒濤の転び。だが何度転んでも立ち上がる。このとき立っている回数と転んだ回数では、最初に立っているのだから、立っている回数が転んだ回数よりもひとつ多い。七回転んでも、それで立ち上がったら、最初に立ち上がった/成長した過程を数えれば八回立っていることになる。
と、まあ私はそんなふうに考えている。