2021年04月12日

『パティ・ディプーサ』 2

ドラッグ・クイーン言説と呼吸と同じホモフォビア

前回の『パティ・ディプーサ』の記事で、翻訳者が、ペドロ・アルモドバルがゲイで、腹話術的に女性の主人公に憑依して語っていることをまったく理解しないまま、自然な女性の語り口を翻訳で再現しようとして、翻訳者の「女房」に助けを借りたことをふれ、腹話術的な、あるいがドラッグ・クイーン的な語り口は、むしろ不自然なところがあったほうがいいということを述べた。これについて補足を。

またもう一つ、「女房」に関連して、翻訳者は、たぶんアルモドバルがゲイであることを知っているか、噂にでも聞いている。そのくらいは、翻訳者として知っていておかしくない。アルモドバルは積極的にカミングアウトしているから、知っていておかしくない..。となると「女房」話もホモフォビアとの関係から見るべきである。このことを指摘しおきたい。

作者アルモドバルがゲイ男性として、女性の主人公の一人称の語りで作品を構成しているということは、男性が女性の衣裳を着ている、つまり女装なのだが、ただ、ドラッグ・クイーンと異性装の違いは(ほんとうは違いなどないのかもしれないが、あるとして)、異性装が限りなく異性に近づこうとするのに対して、ドラッグ・クイーンの場合は、異性よりも変装とパフォーマンス性を重視することだろう。そしてそれは越境性を重視するというか、ジェンダーの壁と戯れることを意味する。

ジュディス・バトラーが『ジェンダー・トラブル』で触れていたように、ドラッグ・クイーンのパフォーマンスのなかでのぞまくしくないのは、女性とみまごうばかりのというか完全な女性化か、さもなけれrば、女装・女性化の無惨な失敗を喜劇的に誇張することである。後者は、たとえば喜劇などで、むくつけき男性オヤジが、どうみても女性にはみえない、ばればれの変装で笑いをとるようなことである。この場合、ジェンダーの壁は越えられないことが思い知らされるのであって、男女の違いは、強調されるばかりである。

これに対して、完全に、どうみても女性にしかみえないような変装は、男性も、やれば完璧に女性になれることになって、ジェンダーの壁などないことが証明されることになる。しかし、一見、これは斬新な、あるいは前衛的な視点であるかにみえて、男女の二極化を前提とする保守的な観点にすぎない。男女の二極化しかないところでは、いずれのジェンダーも、異性になることに失敗するか成功するかのいずれかでしかなく、その中間がない。

越境性というのは、境界の両側に位置するのではなく、境界の上を、中間地帯を歩くことである。また、どちからか一方の側にとらわれてしまうのではなく、両側を往復することである。そのためにも、完全に女性になりきることは、往復の可能性を消去することになり、望ましくない。

したがってドラッグ・クイーンは、どうみても男だけれども、また男であることはまちがえようがないが、しかし、ときとして女性以上に女性的にみえることもあるという二重性を実現することになる。二重性を生きると言ってもいい。

ジェンダーの壁は守られているが、同時に、破られてもいる。このことによって、ジェンダーの絶対性ではなくて、パフォーマンス性ということが異化的に強調されることになるのである。

アルモドバルの『パティ・ディプーサ』は語りあるいは言説レベルでこれを行なっている。主人公は女性である。決してゲイの男性ではない。ここが重要で、両性具有的ではない(たが描写の解釈にもよるが、彼女が男性的な特質をもっているのかもしれないと疑わせるところはあるし、性格的に男勝りの姉御でもあるのだが)、ジェンダー的に曖昧さがない純然たる女性であるがゆえに、ゲイ男性の語り手が、そこに自分を潜り込ませることのできる記号あるいは衣裳として機能が生まれるのである。

だから、むしろ男性の翻訳者の、ぎこちなくなるかもしれない語り口を残したほうが、ドラッグ・クイーン・ディスコースとしてのありようを意識させるという、通常の翻訳では望めない効果を生むことになったかもしれないのであって、この好機を、翻訳者は逃したということがいえるかもしれない。「女房」に、小説の一人称の女性の語り口を、女性の自然な語り口になおしてもらうことによって。

だが、翻訳者は、おそらく、これがゲイ男性の作者による腹話術的語りであることを知っているのだろうと思う。そのことを明言しないのは、作者がゲイであることを、マイナス情報とみなしているとしか思えない。私だったら、プラス情報として公言する。

もちろんゲイであることを隠している作者もいるだろうし、その場合、本人の意向に反して、その情報を公にすることは、むしろ犯罪に近いのだが、アルモドバルの場合、おおっぴらにカミングアウトしているのだから、その意向こそ尊重すべきであって、それをしないのはホモフォビアでしかない。

作者がゲイであることを隠す代わりに翻訳者が何をしたのかというと、「女房」との弓道作業の話を記したのである。これがホモフォビアでなくして何か。

その箇所をもう一度引用していおく――

ぼくが一気に一章分を訳すと、女房は、パティ・ディプーサの語り口が、女のことばとして不自然なところがないように、どんどん語尾を直し、リズムを整えてくれた。そしてそのあとで、声に出して読みながら、ふたりで腹をかかえて笑ったものだ。翻訳がいつもあんなふうに楽しければいいのになあ、といま思うのだが、これはたぶん一生のうちでもそうめったにないことだろうと思う。なにしろ、こんな楽しい小説が〔sic〕 めったにないのだから。


ちなみに、昔、ある文学関係の学会(私が所属している学会ではない)のパネルディスカッションに招かれて、パネラーとして参加したことがあった。そのとき、驚くべきことに、私以外のパネラーは、全員、自分が結婚していることを明言するかほのめかしたのである。私は、結婚しているとも結婚していないとも、なにも語らなかったし、べつにそのことを語らなくても、発表になんら支障も生じなかったからである。そもそも1名のパネラー(私のことだが)を除いた、残りのパネラー全員が、聞かれもしないのに、自分が結婚していることを発表のなかに盛り込むようなパネルディスカッションは、空前絶後である。

その学会のパネルディスカッションは、同性愛や同性愛文学に関係するテーマを議論する場であったので(学会そのものは、同性愛関連の学会ではなかった)、パネラーは、自分は同性愛文学や文化に関心があり研究しているが、同性愛者ではないことを、それとなく強調したのである。「私はヘテロであって、ホモではない」と、自分の結婚話とか結婚生活にふれて、それとなくほのめかしたのである――私は、そのホモフォビアに唖然とした。

似たような例として、たとえば日本の被差別部落の研究をしている人間が、自分のことをそうした被差別部落の出身と誤解されるのがいやで、「私は被差別部落の研究をしているが、被差別部落の出身ではない」ことをほのめかしたとしたら、あるいは明言したら、まちがわれるのが嫌だという差別意識があることの証左にほかならない。たしかにそうした研究をしていれば、被差別部落の出身者か関係者だと誤解されることはあろう。しかし誤解されてもいいのではないか。自分自身に差別意識がなく、また差別する側の人間を軽蔑しているのなら。

そして同性愛関連のパネルディスカッションで、聞かれもしないのに(ここが重要なのだが)、自分が結婚していることをそれとなく、しかし、まぎれもないようにほのめかすパネラーも、結局、同じような差別意識にとらわれているのではないか。

いや、被差別部落の差別と、同性愛差別は、異なるという議論はある。たとえば被差別部落を研究し、差別には徹底的に反対するが、自分は被差別部落出身ではないと公言する場合、差別との戦いに、関係者でなくとも参加しているという姿勢を明確にし、たんに関係者・身内の問題ではなく、それこそ人類全般に関わる普遍的な戦いとして差別と対決するのだという連帯の意思表明ということもあろう――もちろん、その場合、こうしたことを裏声やささやき越えではなく、大声ではっきりいうという場合にかぎるが。

これと同じで、結婚している異性愛者であっても同性愛には関心があること、異性愛者でも同性愛の問題に対して反発や嫌悪感をいだくどころか、強く惹かれることを明確に表明する場合もある――もちろん当時の私以外のパネラーは、自身の結婚のことを、ごくさりげなく、自然に、言及したのであって、そこになんらかのマニフェストなどこめられていようもなく、あるのは、「ホモを研究しているが私はホモではない、れっきとした異性愛者で結婚しているのだ、まちがえるな」、というホモフォビア以外しかなかったのだが。

被差別部落出身という話をもちだしたのは偶然ではない。部落出身か出身ではないかは、ユダヤ人かユダヤ人でないかと同様に、明確に線引きできる。非出身者、非ユダヤ人であることを明確にすることは、コンテクストにもよるが、差別意識か連帯意識かのいずれかであって、これは容易に判定できる。

ところが同性愛者と異性愛者の線引きはできない。つまり誰もが、異性愛者でも、同性愛的欲望をもっている。100パーセントの同性愛者、異性愛者というのはいない。そのため自分が「異性愛者」であることを明言することは、同性愛者を遠ざけることになる。自分のなかにある同性愛的欲望、あるいは同性愛者を否定することになる。これがホモフォビアでなくして何か? 連帯意識などではない。差別意識そのものにほかならない。誰もがユダヤ人ではないが、誰もが同性愛者なのである。

【なおラシーヌの悲劇『アタリー』を例に、ユダヤ人であることをカミングアウトすることと、同性愛者であることをカミングアウトすることとの似ているが異なることを議論したのがセジウィックの『クローゼットの認識論』である】

ただ、その時の私以外のパネラーが強い信念と意図をもって、姑息な異性愛宣言を行なったとは思わない。同性愛者とみられるのが嫌で(そうみられたっていいではないか。むしろそのほうが誇りではないか。A型の私がAB型の人間に見られたらうれしくはないか。そのとき私はA型ですとはっきりいうとすればAB型とみられるのを嫌っていることになる……)、自然と結婚話がでてしまったということだろう。もちろん、真相はどうであれ、愚劣な隠れ差別主義者であることはいうまでもない。

『パティ・ディプーサ』の翻訳者は、アルモドバルがゲイであることを知っていたと思うのだが、知らなかったかもしれない。しかし、たとえ知らなかったとしても、この翻訳作業に不穏なもの(同性愛的なもの)を察知して、「女房」話を訳者あとがきに挿入することになったとのだろう。

すべての翻訳家がそうしているわけではないだろうが、多くの翻訳者が、パートナーに訳したものをみてもらって助言をもらうようなことをおこなっているはずである(今回のように女性らしい言葉遣いになっているか確認してもらうことなど、日常茶飯事的におこなわれていることだろう)。だから、わざわざ訳者あとがきのなかで触れるまでもないことなのだ。しかし、あえて「女房」の存在にふれた。私は、こんなゲイっぽい作品を翻訳しているが、ホモじゃないぞ、あるいは女性の語り口を、とてもうまく訳していて読者は、私のことをオカマかと思うかもしれないが、これは「女房」にみてもらったからであって、オカマとまちがえるな、というメッセージがこめられているのである。

私が例にあげたパネラーも、この翻訳者も、(「息をするように嘘をつく」という表現をまねれば)、息をするようにホモフォビックな差別的言説を発信し、異性愛者としての自分を無意識のうちに強調していたのである。


posted by ohashi at 21:18| エッセイ | 更新情報をチェックする