まあ、話は面白かったのだが、メタフィクションとしてみるとき、というかメタフィクションという観点に限れば、終りのほうで、作者(アルモドバル)が、主人公パティ・ディプーサと対話するところがあり、これがメタフィクション性ということになるのだろうか。
翻訳には、『パティ・ディプーサ』のほかに「世界的な映画監督になるためのアドバイス」が収録されていて、どちらも作者の自伝的要素がつよいと解説で述べられているのだが、デフォルメがきつすぎて、映画監督としてのこれまでの経歴あるいは日常をこれで推し量ることはできない(自伝的といえば日本でもコロナ禍のもとで公開された『ペイン・アンド・グローリー』をまだ見ていないのだが)。
ただ、この翻訳で気になったのは、翻訳出版が、アルモドバルの映画が紹介されはじめた時期のことで、『オール・アバウト・マイ・マザー』とか『トーク・トゥ・ハー』などの代表作はまだあらわれておらず、彼が「世界的な映画監督」になる前のことである。そのため訳者あとがきにおける、監督に対する情報が薄い。もちろん、どう訳者あとがきを書くかの規則などないので、これはこれでいいのだが、ただ、アルモドバルがゲイであることに一言も触れていない。
以前、このブログにも書いたように、英国の短編作家サキについて、ゲイであることに触れていない翻訳者の姿勢は、同性愛者差別にほかならない(「サキ」という語そのものが同性愛者を示唆していて、作家がカミングアウトをしていても、周囲が無視する典型例のひとつである)。ただ『パティ・ディプーサ』の翻訳者の場合、アルモドバルがゲイであることを知らなかったのかもしれない(もし知っていたら、それにふれない差別的姿勢は批判されてしかるべきなのだが)。日本版ウィキペディアにはアルモドバルが同性愛者であることを公言していると書かれている。そう公言しているものを無視するのは差別だが、翻訳出版の時点では、作者がゲイであることは知られていなかったのだろう。
ちなみにアルモドバルがゲイであることを私が知ったのは、アイルランドの作家コルム・トイビーンのエッセイ集Love in a Dark Age: Gay Lives from Wilde to Almodóvar(Picador,2001)だったのだが。
もちろん監督・作家がゲイであることと作品とは関係がないという場合がある。しかし、この『パティ・ディプーサ』の場合、それはあてはまらない。この小説のなかで、プロミスキュアスな性生活と性遍歴の日常を一人称で語るセクシー女優が、作者アルモドバルの分身、それもゲイ的欲望を体現した分身であることは随所からうかがえる。彼女は、アルモドバル自身と同化してアルモドバル自身の欲望の体現者になるといったほうがいいだろうか。
物語の中に、きわめて示唆的な出来事がある。パティがつきあっている年下の男性の母親が、その交際を嫌い、パティにむかい、あなたのようなゲイの男性と息子はつきあってほしくないというのである。パティは、これを聞いて激怒する。自分はれっきとした女性で、ゲイではない、と。実はこれはパティの年下の男性が母親にパティのことをゲイだと嘘をついたことからはじまる誤解なのだが、女優がゲイと思われてしまう設定は、彼女の存在あるいは容姿を決定的に男性、それも両性具有的なゲイ男性に近づけてしまうことだろう。
小説の最後の主人公と作者との対話のなかで、彼女は、アルモドバルに、自分は男か女かゲイかと問うている。アルモドバルは、彼女に、女であると答えている。この問答のなかにさりげなくすべりこまされた「ゲイ」という単語は、物語の主題を男女の異性愛に収斂しない主題群へと開いている。否認されるためとはいえ、同性愛的要素を出現させる。だが否認こそが、フロイト的観点からすれば、肯定なのである(「ぼくは悪いことなどしてない」と聞かれもしないのに言い出す子どもは悪いことをしているに決まっているし、「これはゲイ小説ではない」と語る小説は「ゲイ小説」なのである)。否定、あるいは否認によって存在が肯定されるのである。
「ゲイ」という言葉によって、ゲイ的欲望への回路が閉ざされつつ開かれる。そして読者もまた、この作品という絨毯の裏あるいは表の模様を想像することになる。主人公の女性の一人称の語りを男性作家が書いているという、とくに珍しくもない小説の約束事が、ここではにわかにゲイ的欲望の世界を出現させることになる。作家が同性の語り手と一体化するとき、たとえば男性作家が男性の主人公と一体化するとき、主人公の女性に対する異性愛的欲望を作家は共有することになる。これに対し男性作家が女性の主人公と一体化することは、女性の男性に対する欲望を、男性作家もまた共有することになる。女性の主人公が男性に魅力を感ずるとき、その欲望は、男性作家の男性に対する欲望と一体化している。つまり同性愛の実現である。
男性作家と女性の語り手との関係は、この小説では、主人公である女性=語り手のプロミスキュアスな性生活は、作家のそれのメタファーあるいは文字通りのものだろう。この意味で男性作家と女性人物は同一化している。彼女は、男性作家のドラッグ・クイーン的コスプレであるといえて、まさに男が女に変装する異性装のゲイである。
ところがまた男性作家は、女性の主人公の目をとおして男性みている。彼女の男性に対するヘテロな欲望が、男性作家にとっては同性である男性への欲望の基盤となる。その意味で、彼女はヘテロな女性でなくてはならない。パティ・ディプーサは、女性であり、断じてゲイデはないが、同時に、ゲイあるいはドラッグ・クイーンでもあるのだ。
その意味で、小品ながら、この小説は女性の一人称語りのなかに、ゲイ的欲望をすべりこませた、ゲイ文学の佳作といえるだろう。
ちなみに翻訳者は、訳者あとがきで、こう書いている
ぼくが一気に一章分を訳すと、女房は、パティ・ディプーサの語り口が、女のことばとして不自然なところがないように、どんどん語尾を直し、リズムを整えてくれた。そしてそのあとで、声に出して読みながら、ふたりで腹をかかえて笑ったものだ。翻訳がいつもあんなふうに楽しければいいのになあ、といま思うのだが、これはたぶん一生のうちでもそうめったにないことだろうと思う。なにしろ、こんな楽しい小説が〔sic〕 めったにないのだから。
と。そんなに楽しい小説でもないし、そんなに笑える小説でもない。ただ、翻訳者は、この小説のゲイ的要素あるいはクィア的要素を感づいてはいるのかもしれない。
ただ、それにしても一度訳したものを、「女房」(いまから30年前には、こういう表現がふつうだったとは思わないでほしい。1992年の時点でも、「女房」という表現は文章語としては違和感があった)にみてもらい、女性の自然な語り口になおしてもらったということだが、ふつうの小説なら、それでいいと思う【付記参照】。だが、よりにもよって、このゲイ小説にそうするとは。
スペイン語についてまったく無知な私なのだが、ただ他のヨーロッパの言語と同様、男言葉と女言葉の違いは、あっても、日本語ほど顕著ではないと思う。そしてイメージとして、あくまでもイメージとしだが、この小説の女性の主人公の語り口は、女になりすましている男の語りである(「お**言葉」である)。したがって、男性の翻訳者が女性の言葉づかいをむりに再現したような、どこか不自然なところを残しておいたほうが、この小説の語りの構造に合致する。それを、女性(ああ「女房」!)にみてもらって、自然な口調になおすとは!
翻訳者にはっきりいっておこう、あんたには、この小説を訳す資格も感性もないぞ、と。
付記
私が中学生か高校生の頃に読んだ中央公論社版『世界の文学54――ドイツ名作集』(1967)には、ドイツ文学の古典から現代までの中編・ 短編を収録したもので(一部抄訳があるが、ほとんどが全訳)、どの作品も、驚くほど面白くて、ほんとうに感銘を受けたという表現ぴったりの作品集だった(古書になるが、いまでも自信をもって進めることができる一巻である)。なかでもハインリヒ・マンの「ブランツィルラ」は、女優だったか娼婦だったかの一人称の語り手で、その語り口(全編、独白的な語り)が驚異的であった。いまにして思えば、『パティ・ディプーサ』の原型のような作品であり、こうした作品なら女性の語りを不自然でないかたちに練り上げる作業は必要かもしれない。とはいえハインリヒ・マンについては全く無知なのだが、弟のトーマス・マンと同様、ゲイ的欲望にも片足を突っ込んでいた可能性があるので、この作品は、『パティ・ディプーサ』に,思った以上に接近していて、語りの異性装の実現かもしれないが。