2021年04月07日

西洋世界のプレイボーイ

シングの『西の国の伊達男』のなかにソポクレスの『オイディプス王』をみるという、とくに自慢にもならない、ありふれた知見が、偶然の、あるいは意図せざる類似性に対する過剰なまでの歪曲というふうに、アイルランドの文芸文化とはまったく無縁の者は思うとすれば、それは、あくまでも無知(少なくとも基本的に無知な私以上の無知)のなせるわざであって、むりからぬことであるが、もしアイルランドの文芸文化の専門家も同様な思いを抱いたとしたら、あなはた、その専門家という資格を放棄すべきである。

演劇でいえばブライアン・フリールの『トランスレーションズ』という有名な芝居がある。アイルランドの歴史的過去という設定だが、そこで衝撃的なのは、パラス・アテナ(古代ギリシアの女神)と結婚するという宣言だろう。詳しい事情は、その劇を参照して理解していただくほかはないが、それ以外にも、この劇が学校(私学校、日本風にいうと私塾)を舞台にしていることもあって、劇中にはギリシア語、ラテン語が頻出する。またアイルランド語を話す人物たちの多くが、英語をまったく理解しない(ただし舞台上の台詞は英語だが、それが一応、アイルランド語であるという設定になっているが)。19世紀のグレートハンガー以前のアイルランドでは、古代ギリシア・ローマのほうに親近感がもたれている。

あるいは20世紀の初めのダブリンでの1日(1904年6月16日)を、ホメロスの『オデュセイア』の世界になぞらえて描いた長編作品を、知っているだろうか。タイトルも『オデュセイア』の主人公オデュセウスのラテン語における同等語ウリッセスの英語形ユリシーズが使われている。この長編小説の出来事は、多様な語られ方をするのだが、当時のダブリンのどこで起こっているかを、きちんとたどれるほど、きわめてローカルな、あるいはローカル色の強い作品である。そのローカルな世界がギリシア・ローマ神話に直結している。

またシェイマス・ヒーニーに『トロイの癒やし』という作品があるのを専門家なら知っているはずである。ソポクレス(!)の『ピロクテテス』の翻案。ヒーニーのこうした作品は、詩人の個人的嗜好というよりも、アイルランド文化に根ざした試みであるということは歴然としているのではないか。アイルランドはイングランドよりも古代古典のギリシア・ローマに近いのである。

ところが、『オデュセイア』の現代アイルランド版であるといえば済むところ、現在の混沌たる世界を秩序づけるために神話的枠組みを必要としたというエリオットのたわごとは影響が強すぎたがゆえに及ぼすことになったのだ、かぎりない害を、かぎりない害をだ。ヨーロッパ辺境のアイルランドの首都であるダブリンが、ギリシア・ローマの世界と接続するアイルランドの文化伝統を見えなくさせたのであるから。

もちろん、アイルランドと古代ギリシアのつながり自体が特殊ローカル的な文化伝統でしかないのかもしれないが、しかし、見方をかえれば特殊と普遍の、本来相対立する両者の、めざましい通底ぶりと融合であるともいえる。ダブリンという特殊が、ギリシア・ローマの古代古典文化、ひいてはヨーロッパ文化という普遍の、ただの寓意とかメタファー以上の、等価性を、同じものの表裏関係を形成することになる(絨毯の表と裏の関係のような)。

ジョイスの長編小説、あるいはシングのこの劇ほど、グローバルにみれば、くそローカル、あるいはどローカルなものはないともいえるが、同時に、これほど時空間的にギリシア・ローマを中心とするヨーロッパ的普遍性を帯びているものはないのである。まあ、アイルランドの専門家は、こんなことは承知していると思うので、あくまでも私のような無知な人間に対する語りかけでもあるのだが。

つづけるとシングの『西の国の伊達男』の「西の国」は特殊アイルアンド的用法であるとともにそのまま「西洋世界」と訳せるような主題を展開しているのである。特殊と普遍の表裏一体関係。

この劇のタイトルは、「西の国」の「伊達男」ではなく、「西洋世界」のドン・フアン的プレイボーイとも読めるほどの劇的思考を展開していることに気づいたほうがいいだろう。

プレイボーイの典型であるところのドン・フアンは、父親との関係が悪い。ドン・フアン神話では、このプレイボーイは最後には死んだ父親の彫像に押しつぶされる――これは父親との関係の悪さ、あるいは彼が父親を殺し、その父親の亡霊に復讐されるというふうにとることもできる。『西の国の伊達男』の世界との通底ぶりは歴然としている。

精神分析的知見では、ドン・フアンあるいはドン・フアン的プレイボーイにとって理想の女性は母親である。だが、この母親は聖なる存在でもあって、母親との性的な結びつきは禁じられる。そのため母親の代理となる女性を求めることになるが、しかし、女性は母親の代理になりえず、ドン・フアンは、つぎつぎと女性を求め、つぎつぎと女性を棄てることになる。ドン・フアンが結ばれる女性には、すべてドン・フアンの母親の面影があるが、同時に、また、それは母親に到達することの不可能性を痛感させることになる。母親の代理は二方向にはたらく。母親を思い出させるとともに、母親を消去し忘却しかねない方向に。母親への近親相姦的接近と、その回避。ドン・フアンは母親に近づこうとしているのか、母親から逃れようとしているのか、どちらかわからないというよりも、そのふたつを同時におこなっている。ドン・フアンのこの矛盾に満ちた行為の痕跡として、棄てられて嘆き悲しむか、怒りにふるえる女性たちのおびただしい象徴的屍体が残ることになる。

ハムレットには、こうしたドン・フアン的なところがあると、昔、私は、ある学会での講演で話したことがあって、すべりまくった(反響を得られず、冷たく無視されたのだが)。もちろん、自分でもよくわかっていないことを疑問というかたちでぶつけたせいもある。未消化の話は誰も感銘をうけない。

どんな疑問をぶつけたかというと、たんに父親を憎み、父親を殺し/父親に殺される男、それも母親を理想化し、母親のような女性を賛美してやまない、そして母親の面影も求めてやまない男が、そのまま女性にもてる男とはならないだろう。むしろ、その逆で、これは典型的なマザコン男であって、そんな男に女性がひかれるとも思わない。とりわけ現在なら、むしろ女性からは積極的に嫌われるだろう。

にもかかわらずプレイボーイであるのは、容姿端麗であったり、なにか名状しがたい人間的魅力が備わっているとしか考えられないし、また、そのような設定にしないと、物語は進行しない。

ハムレットは、その躁鬱的性格にもかかわらず、女性にだらしない貴公子とみられたり、あるいは民衆には先王と同じくらい、あるいはそれ以上、人気があったりする。オイディプスも、ただの流れ者にすぎないのだが、自分の母親ほども年の離れた女性(実際、母親なのだが)に惚れられ結ばれ子どもができるまでに、男性としても魅力があるようだ。『西の国の伊達男』のクリスティは、女性をひきつけるオーラのようなものを発散しているところがある。オイディプスやハムレットではまだ潜在的であった要素を、シングのこの劇は顕在化させたともいえる、すなわち「プレイボーイ」と。

ちなみに先ほどふれたダブリンでの一日を描いた長編小説のなかに、海辺で、足の悪い若い女性が、自分の方をじろじろみているベンチの中年男をみて、妄想にふける場面があることを覚えておいでだろうか。

実は、その中年の男レオポルド・ブルームは海辺のベンチで、その女の子をみながら、オナニーにふけっているのだが(もう最低じゃん!)、女の子の方も、へんなロマンスを空想している。その空想のなかで、レオポルド・ブルームは、魅力的な中年男性となり、当時、実在した男性俳優にその容姿がなぞらえられる。もちろん彼女の空想・妄想の世界でのことで、ブルームが、そんなに魅力的な容姿の男性かどうかは不明(むしろ、朝、うんこをしてから、その時点にいたるまでの彼の言動からみるかぎり、スケベな中年オヤジにすぎないのだが)。ただ、なぞらえられている当時の俳優には写真が残っていて、それを見るかぎり容姿端麗なやさ男なのだが、彼はまた、ハムレット俳優でもあって、ハムレット役でかなり人気があった。彼女の妄想のなかで、レオポルド・ブルームはまた、プレイボーイのハムレットにかわるのである。

ハムレット=プレイボーイ説を語ったときの私には、この場面が念頭にあったのだが、ただ、そこから生まれるさまざまな可能性をまだくみ取ってはいない……。

posted by ohashi at 20:02| エッセイ | 更新情報をチェックする