JMシング(Synge)のThe Playboy of the Western Worldのタイトルはいろいろな訳しかたができるのだが、シング『海に騎りゆく者たち ほか』(恒文社2002)に収録されたこの作品の翻訳のタイトル『西の国の伊達男』(大場健治訳、ただし訳者は解説を書いてはいない)を使わせてもらうことにする。
ちなみにこの翻訳『海に騎りゆく者たち ほか』というシング演劇集は、これ以上は望めないといえる翻訳によるきわめて価値の高い選集であって、自信をもって推奨できるものである。
なお私は、アイルランド文学とりわけアイルランド演劇を本格的に学ぼうとして、結局、いまに至るまで実行できていない愚か者だが、ただ、学ぼうとしたことは確かである。アイルランド訛りの英語を学ぼうと、シングについていえば、市河三喜編注の研究社英米文學叢書47のシング作品集とか、あるいはThe Playboy of the Western Worldの英語の教科書(『英文シング』(山本修二注)英宝社)で学んでいるのだが、アイルランド演劇の研究者というほどの知識もないし論文もない。だからアイルランド文学文化の研究の現在について何も知らないので、別に意図的ではないとしても、好き勝手で無責任なことを述べることを赦していただくことにして……。
ローカルとグローバルとは、相互に関係づけられバランスを保ってこそ意味があるのであって、この配分なり力点の置き方が異なると誤解や意味不明なもの、あるいはイデオロギー的隠蔽が生まれることになる。
たとえばThe Playboy of the Western Worldというタイトルについて、ローカルな知識が必要になるのはWestern Worldというフレーズで、これは西欧とか西洋という意味ではない。アイルランドにおいてイングランドの方向にむいているダブリンを中心とする地域が東方地域であるのに対し、大西洋に面している側が西方地域つまりWestern Worldである。これはたいていの注釈書に書いてあるのだが、ローカルな知識がないと戸惑ってしまう表現ではある。
しかし、この場合、ローカルノリッジがグローバルノリッジを妨害してはいないか?ローカルノリッジに安住するのは、たんに普遍的全体的帝国主義的思考を拒否する倫理的姿勢だけでなく、むしろローカルに封印する偏狭なイデオロギー的抑圧行為である可能性もある――なお付け加えれば、ここでの「グローバル」とは、国際性、あるいはもうすこし狭くとってヨーロッパ文化圏のことである。作品をアイルランドのローカルな文化に押し込めてしまうのは、ある意味、アイルランド差別そのものである。
Playboyのほうは、アイルランド的な意味について、どの注釈書も説明しているが、これは、そんな知識がなくてもというか、そんな知識がないほうが、タイトルのもつ含意を正しく受け取ることができる。Playboyは「伊達男」「遊び人」、いわゆる「プレイボーイ」「女たらし」であり、さらにはプレイする人(一応男性に特化されているが)であり、この場合、プレイを競技ととれば、アスリートでもあり、プレイを演劇ととれば、演者、パフォーマー、そこから詐欺師、嘘つきというような意味にもなる。そしてこうした意味すべてが、この作品の内容と関係をすることを観客/読者は知ることになる。またそのためにはとくにローカルな知識を必要としない。
ところが選集『海に騎りゆく者たち ほか』の個々の作品についての解説(ああ、個々の作品の翻訳者が解説を書いてくれたらよかったと思うのだが、専門家が一人で書いている)では、作品のアイルランド性(時代・社会的背景)や作品の意義について、丁寧かつ博識な説明と議論が展開するのだが、ローカル性を重視するあまり、普遍性が軽視されている、いや無視されているといってもいい。
たとえばこの選集にある『谷の陰』(木下順二訳、ただし訳者は解説は書いていない)という作品。これはどうみたって、イプセンの『人形の家』のアイルランド版だろう。そう思うのは、プロットそのものが妻の家出であり、また女性の主人公の名前がともにノーラであるからだ。こんなわかりきったことは指摘するまでもないが(『人形の家』は観たり読んだりしたことがなくても誰もが知っている)、しかし選集の解説者は、何も触れていない。アイルランドの片田舎の作家シングはイプセンのことなど知っているはずはないとでもいわんばかりに。
だが、いくらシングがアラン島の旅行記を書いたからといって、ローカルなものにしか興味を抱いている人ではなく、その目はヨーロッパ全体に向いていた。たとえば、この選集には訳出されていないが、『西の国の伊達男』にはシングによる序文があり、そのなかでシングは、イプセン、ゾラ、ユイスマンについて言及しているのである。シングがそのくらいのことを知っているのは驚きでもなんでもないが、選集の解説者だけはシングがヨーロッパから見捨てられた片田舎の劇作家としてしかみていない。
『西の国の伊達男』にしてもそうである。父親殺しのテーマは、この作品がソポクレスの『オイディプス王』のパロディかどうははわからないが、パスティーシュであることはまちがいない。しかも父親殺しの若者は、途中で、逃げていかないように足首を焼かれそうになるのだから、『オイディプス』への示唆あるいは言及は明白である。ところが選集の解説には、このことにはいっさい触れていない。
べつにここで私は自分の知識あるいは洞察をひけらかそうとするのではない。『人形の家』あるいは『オイディプス王』、どちらもべつに演劇研究者でなくても、誰もが知っている作品である。その解説者だって知らないはずがない。にもかかわらず、言及しないのは、なぜか。
そんなわかりきったことは、あえて言及するまでもないと、また『オイディプス王』とか『人形の家』と類似の要素(おそらく偶然かもしれない)があるからといって、作品の解釈が影響をうけることはない、だから沈黙していたいのだと、その解説者はいうかもしれない。
だが、そんなことはない。『西の国の伊達男』は、『オイディプス王』と結びつけるとき、さらにいまひとつの作品とのむすびつきから、さらに大きな意味の振幅を獲得することになるからだ。そのいまひとつの作品とは、『ハムレット』である。
『ハムレット』を『オイディプス』と結びつけるのはフロイト以降のことかもしれない(実際にハムレットは父親を殺されるのであって、自分で父親を殺していないのだが、フロイト的精神分析では、ハムレットが憎んでいるのは父親である)が、『オイディプス』と『ハムレット』の両者を『西の国の伊達男』は吸収し融合させているところがある。
ネタバレ注意:なにしろ『西の国の伊達男』の最後では、父親を殺したと思われた若者は、実は生きていた父親を自分のパートナーにする、あるいは自分の支配下において、旅役者みたいに、これまでの事件を語り聞かせる巡業の旅にでるのである。実際に若者が父親を殺したかどうかわからないところがある(オイディプス王も、ほんとうに父親を殺したかどうかわからないところもある)。そして劇の後半に、死んだはずの父親が登場するのだが、あの父親はハムレットの実の父親のように、一昔前の芝居だったら、亡霊だったのかもしれないのだ――シングのリアリズムがそれを避けたとしても。
あるいは嘘から出た実(まこと)がテーマのこの芝居では、父親を殺したという嘘が、本物の父親を呼び寄せたということもできるし、もとのハムレット的世界では、死んだ父親が煉獄から召喚されたともいえる。
しかもオイディプスもハムレットも国民に人気がありまた伊達男である。実際、ハムレットは劇中でプレイボーイとして非難されているのだ。
こうしたことを考えると、『西の国の伊達男』を、『ハムレット』や『オイディプス』が形成する文化圏、テーマ圏に連動させることになり、そこに意味とテーマの共鳴と輻輳を認めることができ、作品の世界が一挙に広がることになる。
また逆に『西の国の伊達男』から、『ハムレット』や『オイディプス』を逆照射しているとみることもできる。パロディ的なものとしてとらえるわけだが、ハムレットもオイディプスも、嘘つきであり、演劇人、詐欺師、パフォーマーであり、アスリートであるとみると、『ハムレット』や『オイディプス』がちがった見え方をするかも知れない。それほどまでにシングのこの劇は問題劇でもある。
【なおシングの今ひとつの劇『聖者の泉』(喜志哲雄訳、喜志氏はアイルランド演劇について簡潔で優れた解説(「アイルランド演劇の流れ」)をこの選集に寄稿されているが、個別作品の解説は書いていない)では、ふたりの盲人の乞食が登場し、目が見えるようになったり、逆にふたたび目を閉ざそうとすることになるのだが、それは『リア王』の世界を彷彿とさせる(アナクロにスティックにいえばベケット劇をも彷彿とさせる)、と同時に、『オイディプス王』『コロノスのオイディプ』と主題を共有しているともいえる】
こうしたことを見ようともしない解説者は、無知とか怠慢というのではなく、シングとその作品をアイルランドの社会と歴史の一時期に囲い込もうとする、きわめてイデオロギー的な身振りを示しているのだ。それはまたシングとその作品から、普遍性を奪い、ローカル性のみを強調するような、観光客向けのお土産じみたもの、あるいは骨董品じみたものにシングの作品を変容させようとしている悪辣な身振りであることはいうまでもない。
実際のところ、この作品は、『西洋のプレイボーイ』と訳しても語訳ではないような、意味と主題のひろがりをみせているのだから。そう、シングのこの劇を『西洋のプレイボーイ』と誤解しても、実は、誤解どころか正解である可能性すらあるのだ。
とはいえアイルランド文学研究者ではない私としては、アイルランド研究の今を知らないので、こうした身振りが、この博学博識で,同時に偏狭すぎる解説者だけのものであって、一般のアイルランド文学研究者とは無関係であろうと信じているのだが。
2021年04月06日
『西の国の伊達男』嘘から出た実(まこと)2
posted by ohashi at 14:59| 演劇
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