今日が東日本大震災から10年めということで、いろいろ思うことがある。
いまでもよく覚えているのは地震は金曜日だったことだ。2日前の水曜日に新宿の映画館にいるとき(映画館と作品名をつなげて覚えているので、というか映画館で作品を覚えるのが趣味なので作品名も覚えているが)、強めの地震があった。思えばあれが大地震の前触れだった。
木曜日は、教授会のある日で、大学に出かけるとき、当日が合格発表であることを忘れていて、赤門からキャンパスに入ろうとして、合格発表を見にきた受験生の集団に巻き込まれて引き返すことも別ルートをとることもできなくなり、赤門経由でキャンパス内まで渋滞している集団から抜け出すまでに相当な時間がかかった。教授会には、かろうじて間に合ったのだが。
この教授会は年度内最後の教授会で、あとは、卒業式まで、3月は何もない。学務から一時的にまぬがれた解放感で、運命の金曜日には、映画をみにいっていた。映画上映中に、大地震に遭遇。上映は中止になりいったん廊下に逃れたのだが、また館内にもどされ、スクリーンの脇の非常ドアから外へと案内された。そのとき3Dメガネをもったまま右往左往していて、映画館から出るとき、ふと気がついて、そのメガネを係員に返したことを記憶している。
だが、苦難は、映画館から出たときからはじまった。神奈川県の映画館だったのだが、外にでると余震が何度も襲ってきた。そのうえさらに周囲が完全に停電している。周囲の店舗から客だけでなく従業員も外にでてきている。信号機も停電でとまっている。もよりの駅にもどったら、JRと私鉄がともに止まっている。
10年前の3月11日はまだ寒かった。すぐに心配したのはトイレのことで、駅周辺の店舗は内部が真っ暗で、そのトイレを使ったり借りたりするのはむつかしいそうだ。駅のトイレの前には長蛇の列ができている。
結局駅の近くの小学校の体育館へと避難することになった。小学校のトイレが使えるので、ひとまずトイレの心配はなくなり、あとは電車の復旧を待つことになったが、余震のつづくなか、電車の復旧の目途はたっていない。
東大の文学部では避難者のために、いろいろな飲み物を用意していたらしいが(利用者はそんなにいなかったにしても)、私が避難した小学校の体育館では水しか提供しない。湯飲み茶碗も数に限りがあるから、使ったら洗って戻せというようにいわれる。幸い、ペットボトルの水をもっていたので、水をめぐんでもらうことはなかったのだが。
夜になると、この体育館は、地元の人が使うので、そうでない人は、隣の小学校の体育館に移動してくれといわれ、停電地帯で街路灯も信号も消えていて、道路を走る車のライトだけが周囲を照らしているというところを、歩いて移動した。到着した隣の小学校の体育館では、乾パンとバナナ1本と毛布が支給されここで一夜を過ごすことになった。夜の11時台になって私鉄が復旧したとの連絡があったが、それを利用して東京に戻っても、そこから先の保証がないために、結局、一夜を過ごすことになった。余震は何度も襲ってきた。
別の体育館に移動するとき気づいたのだが、停電しているのはこの地区だけで、遠くの東京方面では明かりがついていた。どうやら避難生活を余儀なくされたのは、この地区にいる人間だけだった。
東北からは遠く離れているのだが、私は偶然にも避難生活を経験することになった。それでわかったことがある。いつもは食いしん坊の私が、乾パン1個とバナナ一本で、満足してしまった。それでも空腹感がまったくない。つらいとも思わない。つまり避難生活、耐久生活を、たとえ一晩でも余儀なくされたとわかったのとき、体が急遽、省エネ・モードに移行したのである。
もしこの状態が長くつづいたら、省エネ・モードは、身体活動、精神活動に影響を及ぼし、人間を長期的に衰弱させることがわかる。たとえ身体的に問題はなくとも、精神的にダメージが大きいのではないか。省エネ・モードはじわじわと影響を及ぼしてくるのが恐い。たとえ一夜のことであっても、被災地の人たちの苦難について、その一端を感ずることができた。
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2011年4月29日公開された映画『阪急電車 片道15分の奇跡』(監督 三宅喜重;脚本 岡田惠和;原作 有川浩;出演者 中谷美紀、戸田恵梨香、宮本信子、芦田愛菜ほか、
上映時間120分)を4月か5月に映画館でみた。実は、その前の年、某大学の集中講義を担当して、大学が用意してくれた宝塚ホテルに宿泊し毎日阪急電車を利用して大学まで通ったことがあるので、一週間とはいえ、阪急電車利用者であった私は懐かしい思い出とともに、この映画をみていた。「ハートフル群像映画」ということで、それになりヒットした映画だったが、見ていて、なにか涙があふれそうになった。
撮影は2010年に行なわれている。この世界、東北から遠く離れた関西の地では、大震災の影響はなかったかもしれないが、この映画のなかの阪急電車沿線の世界は、震災前の、もはや失われて二度ととりもどせない世界であるということに気づいた。
物的被害の甚大さ、犠牲者の多さ、そして原発事故、それ以前の過去の安定が根源から揺さぶられた感のある、この震災は、それ以前とそれ以後とを区切る大きな契機となった。ポスト東日本大震災は、失ったものへの悲しみと来たる惨事への不安にさいなまれる動揺の時代となった。そしてそのぶん、それ以前が、ノスタルジックな思いのなか、いや増しに甘美さを生み、哀切な意識をかき立てて止まないのだろう。
あるいは見方を変えれば、ポスト震災はポスト原発事故でもある。
東北大震災は、大きな地震と津波で、多くの犠牲者が出た大惨事であるというにとどまらない。原発事故が、東北福島の大地だけでなく、この震災そのものを汚染したことでなによりも記憶されるべきだ。
原発事故による汚染ゆえに、大震災の記憶を希薄化する、あるいはフェイク化するような、そして原発事業を再生しようとする勢力の跳梁跋扈を招くことになった。犠牲者への追悼が、原発事故を忘却してしまいたい政治的判断によって、希薄化されている。だが、そのいっぽうで、原発事故を伴うことでこの大震災は、あまたの震災被害・津波被害のなかでも、絶対に忘れることのできないものとなった。消し去ろうとする勢力がいくら悪辣な手段を用いても、この震災は原発事故の記憶とともに存在しつづけるだろう。
ポスト原発事故は、ある意味、記憶をめぐる闘争の世界となった。