私には友人がいないと学生に話したことがあったが、そうすると驚く学生がいた。人間たる者、友人がいるのがあたりまえで、友人がいないというのは、理由はなんであれ、最低限の人間の暮らしをしいないかのように思われてしまう。
友人がいないというと、みんなからいじめられたり、うとまれたり、避けられたりして、誰もかばったり、まもったりしない。全世界を敵にまわしているような人間に思われてしまうのだが、もちろん、そんなことはない。前は同僚ともふつうに挨拶をしたし、私を見かけたら、誰もが逃げ出すというか、忌避するということもない。一応、ふつうの社会生活を送っているし、周囲とも良好な関係を保っていたと思う。最近は自粛生活がつづいているので、あまり社交の場がないのだが。
だから、友人がいないというのは、たとえば,自分の子どもがいないとか、兄弟姉妹がいないとかいうのと、同じで、とくに私自身に深い原因があるわけではない、一種の境遇のようなものである。
おそらくこのことを掘り下げれば、人間には二種類あって、気持ちを分かち合うことによって救われ安心できると思う人と、自分のなかに気持ちをしまっておくことで安心できる人がいるからということになろうか。親密さを求める人間と、親密さから逃れる人間という二種類。
前者の人の場合、なぐさめてもらったり、同情してもらったりすると、気持ちが休まるのに対して、後者の人の場合、なぐさめはうっとうしく、同情などしてもらいなくない、ただ、そっとしておいてほしいということになる。人間は社会的動物だとすれば、前者が圧倒的に多いのかもしれないが、後者もいることいるだろう。
だから友人がいないというのは、私が嫌われているせいでもないし、逆に、私が人間嫌いで、周囲を憎んでいるわけでもなんでもない。一人にしておいて欲しいというのにすぎない。もちろん、私にも、親しい人、親しくなりたいと思っている人はけっこういる。ただ、どんなに親しくても、私のなかでは、そうした人たちは友人ではないだけである。
いや、親しくしていても、相手の心のなかに土足で入り込まないように、一定の距離をたもってつきあうというのが、実は、真の友人なのだということもいえないこともないのだが、それはともかく、私にも、定期的ではないが、時折、メールのやりとりをする友人というよりも知人がいる。
もちろん表面的な付き合いで、たがいに胸の内をさらけだすような付き合いはしてないし、もしそんなことをすれば大げんかになることはまちがいないと思っている。
その知人は、今回のコロナ禍については、つねに楽観的で、つねに悲観的な私とは、発想が正反対である。聞いたことはないのだが、なにか情報源(ネット上で)をもっていて、そこで得た知識の受け売りではないかと思うのだが。またその情報源は、おそらくネトウヨが信じているような、ろくでもない、フェイクニュースに近いもので、政権のすることを追認して否定しないような、クソ保守的な姿勢に染まったクズ情報だと私は確信しているが、ただ、そのことを私は追求しない。黙って相手の説を聞くということになる(心の中では、それはちがうぞと思いつつ)。その知人がこのブログを読んだらと思うかもしれないが、その心配は、まったくない。だから、ここで本音が書けるのだが。
その知人の繰り出す、トンでも情報をここで披露してもいいのだが、やめる。ただ、最近、特筆すべきは、コロナ感染者減少について、意見が一致したことである。
たがいに異なる情報源から得た知見なのだが、このところ急激に感染者が減っているのは、べつにほんとうに減っているいるわけではない。PCR検査を減らしているからということだ。
これには、私の、私の知人も意見が一致した。まったくその通りだと思う。厚労省の統計調査のいい加減さは、あるいは操作性は、いまに始まったことではないし、今回には、感染者数を減らそうと必死になっているだけである。