首相は18日に開会した通常国会で施政方針演説に臨んだ。衆院本会議ではほぼ原稿通り読み上げたが、その後の参院本会議では、新型コロナウイルス感染症対策の緊急事態宣言をめぐり、「徹底的な対策」というべきところを「限定的な対策」、35人学級について「小学校」と言うべきところを「小中学校」と口にし、言い直す場面もあった。
この記事にあるようなことは、テレビのニュースでも放送されていて、このまたもこの言い間違いかとあきれる声も多い。また、首相の言い間違いに対しては、コロナ対策で心身をすり減らしているので過労気味だというような擁護の声もあがっているようだが、言い間違いというのは、ほんとうにありがたいことであることを、誰もが認識すべきである。
首相にはもっともっと言い間違いをして欲しい。過労気味であるとすれば、気の毒だが、過労を維持して、言い間違いを連発して欲しい。
なぜなら、言い間違いのなかにこそ、真実が語られるからである。
「徹底的」を「限定的」というのは、どうしたらそんな間違いがと思う。「福岡」を「静岡」と間違うのは、フロイト的言い間違い(音が似ているので)かもしれないが、「徹底的」と「限定的」は字面からすると「的」しか似ていない――ただ音的には「ていてき」で両者は韻を踏むほど似ているかもしれないのだが。
フロイトによれば、言い間違いとは、音が似ているとか、内容の類似とか、脳内の思考のありようによって、意識の検閲を出し抜いて、不意に出てくるものであり、そこに無意識の願望とか、表に出せない思考があらわれてくる。つまり、言い間違いによって本音がでてくるのである。
言い間違いによって建前が出てくるというのは普通考えられない。また元気で、充分に注意をしているときに、表に出してはいけない本音を語ることはなく、建前だけを語り、批判されても慎重にそれをかわして、まちがっても本音がでるようなことはしない。
しかし疲れていると、本音が出る。「徹底的」というべきところ、「限定的」というのは、政府の方針が、「徹底的」ではなく「限定的」だということだろう。ネトウヨは管首相が疲れているからのささいな間違いであり、そんな間違いを重視するなと語っているようだが、疲れているからこそ、出てきた奇跡的本音であり、言い間違いであることで、建前ではなく本音が開示された、貴重極まりない瞬間なのである。言い間違いだからこそ、重視すべきである。言い間違いではない発言など、本来、どうでもいいことなのである。
フロイトのこの言い間違い理論をうけてラカンは、言い間違いこそ、つまり本音が出てくるこの言い間違いこそ、真のコミュニケーションが達成された瞬間であると述べている。
管首相には、どんどん疲れて、言い間違いをしてもらいたい。そこに真実と本音があらわれるからである。
付記:「福岡」と「静岡」の言い間違いについては、音の類似によっての間違いで、首相の意識の低さか、過労によるぼんやりであって、決して、そこに本音がでているわけではないと思われるかもしれないが、「静岡」に変位種のコロナに感染した人(渡航歴なし)があらわれたことから、政府は、静岡について、重大な何らかの懸念すべき情報をもっているのかもしれない。「福岡」を「静岡」と言い間違ったのも、単純な言い間違いではないふしがある。