2021年01月15日

『提督の艦隊』から

『提督の艦隊」Michiel de Ruyterからフェルメールへ

2015年のオランダ映画だが、日本未公開。Amazonのプライムビデオで視聴した。何の予備知識もなく。

事実いや史実は小説よりも奇なり。歴史上のいろいろな出来事も、なんの予備知識もなく、その経過をたどると、通常の小説ではありえない、予想外の展開をして、驚かされるのではないか。たとえば「関ヶ原の合戦」にしても、私たちは、勝敗あるいは実際の経過について知り尽くしているから(ただし詳細が正しいものかどうかは判定できないとしても)、はじめてその戦いの記述に触れた者の立場に身を置くことはできないのだが、たぶん、何も知らない読者なり観客が、関ヶ原の戦いを扱った小説なり映画やドラマに接したら、予想外の展開に驚くのではないだろうか。あるいはプロットなり展開が、一定のルールに則していないと文句すら出るのではないだろうか。

同じ事は、この映画『提督の艦隊』を何に予備知識もなく視た観客――私のことだが――についてもあてはまる。純然たる海洋冒険物の映画かと、ぼんやり視ていた私は、途中から、事態が予想だにしない方向へと進んでしまい、戸惑うばかりで、映画を理解しえなくなっていた。

そうではないか、オランダで王党派を抑え、最高指導者となった共和派のリーダー、しかも、引退していた海軍提督を艦隊司令官に抜擢して英仏艦隊に勝利したこのリーダーが、どういう失政ゆえにかわからないが、怒り狂った民衆(裏で王党派が糸をひいている)によって、なぶり殺しにされて、兄ともども、おちんちんを切り取られるなどと、この映画を見ている観客の誰が想像しえただろうか。なぜ、こんなセンセーショナルな展開を必要としたのだろうかと、怒りすら覚えたのである。

ここまで書くと、オランダ人のみならず、わかる人にはわかる。

その暴徒によって処刑された二人は、ヨハン・デ・ウィットと、その兄コルネリス・デ・ウィットでしょうと。それを知らなかったお前は、アホじゃと言われても仕方がない。そう、このデ・ウィット兄弟が処刑されるまで、名前を気にもしていなかった(フィクションだと、海洋冒険物で戦争物だと勝手に思い込んでいたので)。しかし、いくらぼんやり生きている私としても、この二人の処刑という展開に戸惑いつつも、一条の光が見えてきた。覚醒の瞬間があった。ヨハン・デ・ウィットとコルネリウス・デ・ウィット。そしてもうひとつの名前が思い浮かんだ。スピノザ、と。

スピノザが、あれほど怒り批判していた暴徒化したオランダ市民によるデ・ウィッテ兄弟虐殺(トランプ支持者の議事堂侵入とつながるような、あるいはシェイクスピアの『ジュリアス・シーザー』をほうふつとさせるような)、その歴史的瞬間に、たとえ映画とはいえ、いま立ち会ったのだという思いが沸いてきた、そして、あらためて知ったのだ、この映画は史実に基づいているのだと。

たしかに、純然たるフィクションというには、スケールが大きすぎる。海洋での会戦の再現と、その映像化には金がかかっている。しかも、こんなにお金をかけていそうで、上映時間105分という、あっというまに終わる小ぶりな映画にまとめているのは、おしつけがましくていいと思ったのだが、オランダでの公開時には、これは3時間越えの大作映画。英国でDVD化されたとき2時間の映画となり、それが今回、amazonプライム・ビデオで1時間45分くらいの映画に縮んだ。だから、3時間をかけてじっくりみせる映画が、その半分の長さになったので、説明不足のところがでてきて、展開も唐突になったのではと理解できる。また、そもそもミヒール・デ・ロイヤル提督は救国の英雄でもあって、オランダ人なら知らぬ人もいないのであろうから、細かな説明抜きでも映画は成立するということだろう。

映画はデ・ロイテル提督が主役なのだが、前半の影の主役がデ・ウィッテ兄弟だとすれば、後半は、オラーニュ公ウィレムが影の主役で、英国のチャールズ二世も登場する――チャールズ・ダンスがチャールズ二世を演じている。チャールズ二世の犬好きとか、娼婦の愛人――ネル・グウィンか、あるいはフランスのルイ十四世から送り込まれたルイーズ・ルネ・ケルアイユかどちから、あるいはふたりともか――が登場するし、ウィレム三世の同性愛も明確に示される。その辺は、通俗的な(つまり私でも知っている)歴史理解にそうかたちで物語がつくられている。

デ・ロイテル提督は、よき家庭人であるとともに、天才的な戦略家で、劣勢のオランダ海軍をたてなおし、すぐれた作戦で、英仏の艦隊を翻弄し、オランダに勝利をもたらす英雄なのだが、デ・ウィッテ兄弟との友情があだとなり、また国民的人気を提督にさらわれたウェイラム三世の嫉妬心も手伝って、最後には、勝てる見込みのない会戦に参加させられ戦死する悲劇の英雄でもある。おそらくそれゆにえオランダでは国民的英雄となっているのだろう。

その提督に比べると、ウィレム三世は、建国の英雄であったウィレム一世(オランダの国歌のなかでも歌われている英雄)とは異なる小物であり、母が英国のチャールズ二世の妹であったこともからも、英国との関係が深く、英国のチャールズ二世(チャールズ・ダンスのあくの強い演技が印象的だが)のいいなりなっている,ある意味、裏切り者である。しかもそのチャールズ二世も、フランスが起こす戦争に対しては、これを支援するという密約をルイ一四世と結んでいる裏切り者である。

チャールズ二世は、英国の王政復古の国王であり、フランスからの帰国に際しては、国民がこぞって、その復帰を盛大に祝ったというのが、いくら共和制時代が息詰まるものであったとしても、よくもまあ、こんなクソみたいな王を迎えたものだと、なさけなくなる。あるいは、国民が瞞されたのかもしれないが、国民のことを歯牙にもかけぬ無能な王のくせ……、いや、なにか八つ当たりをするようなことにもなるので、やめておこう。

結局、チャールズ二世の後継者となるのは、ジェイムズ二世ではなく、このウィレム三世であることも皮肉であり、ウィリアム三世はオランダと英国の国王となって、英仏の同盟を分断して、英仏の対立関係を構築することに成功したのだが、肝心なオランダは、かつては小国であっても、イングランドと覇を競う海洋国であったのが、ウィリアム三世が英国王に即位してからは英国に従属することになり、国力を失ってゆく。ウィレム三世は、ウィリアム三世となってバケの皮が剥がれたというべきか。ウィレム三世も、ある意味、オランダ国民を裏切っていたのである。また英国民も、また、よくもまあ、こんなクソみたいな男を国王にして名誉革命などと浮かれていたものだと、今の日本人と同じく、哀れですらある。

ただオランダのウィレム三世は、描かれ方によっては、大国を手玉にとって自国を守った英雄ともなるのだが、この映画では、そうした観点はまったくなく、ほんとうに裏切り者の卑劣な小心者である。たとえば侵略するフランス軍に対して、運河を壊し、国土を水浸しにして撃退するという戦略は、功を奏したこともあって、ウィレム三世の思い切った奇策として称賛されることもあるが、この映画では、エクセントリックな素人戦略として必ずしも称賛されていないようだ。まあ、オランダ人にとって、遠い過去の歴史であるから、ウィレム三世が悪く描かれようが、現在に影響はないのだろう。

それよりも、はじめにもどる。デ・ウィッテ兄弟が処刑され切り取られたペニスがお土産に売られるような展開において、影の主役はスピノザ(1632-1677)である。そしてもうひとり、スピノザの同時代人というか同年齢のフェルメール(1632-1675)も。二人が影で糸をひいているということではない。むしろ、その逆で、全く無関係なことが、この二人を負の主人公にしている。別次元、あるいはパラレルワールドに棲んでいるかのようなのだ。

時代と人物との関係をめぐるモデルにはいろいろとあるが、もっとも単純なメタファーとメトニミーもモデルで考えてみる。

たとえば新しい時代の幕開け時期に、刷新的な思想とか理論、あるいは新基盤となる実践が生まれたとしたら、それらは時代の産物ともいえ(時代とアナロジカルな関係にある)、時代とメタファー的関係にあるといえる。反映論と全く同じではないが、反映論の範疇に入るモデルかもしれない。もちろん単純なことではなく、逆もありうる。時代が過去と断絶し刷新的な運動を形成しているときに、ノスタルジックな過去の回顧的思想が生まれるかもしれない。戦乱の世に、ユートピア思想が出現することもある。またユートピア思想ともいえず、私が最悪と考えるのは、戦乱の世界に、それが終わったかのような未来に着地する、茶の湯の日々是好日の世界観である(終わってもいない戦乱の世を、終わったかのようにみせかける欺瞞戦略。コジェーヴがかつて歴史の終わりを体現していると考えた日本の茶の湯の世界)。

時代と人物、あるいは時代と現象との関係はストレートな場合と倒錯的な場合とにわけられる。作家が失恋したから、悲恋物語が生まれることもあるが、逆に、明るいハッピーエンディングの恋愛物語が生まれる可能性もある。明るい性格の作家が暗い物語を書いたり、暗い性格の作家が明るい物語を書くことは、ごくふつうにあることだ。そういう意味で、時代と人物との関係は、ストレートなものと想定すると足をすくわれることがある。

しかし、明るい時代に暗い小説というのは(たとえば昭和末期のバブル期のテレビドラマには、実に暗い内容のものが多かったことを、私はいまでも覚えている)、メタファーにならないとはいえ、関係性は強い。反動という関係性が。明るい時代だからこそ、それに警鐘をならすような暗い雰囲気の文化的産物が好まれたり、暗い時代だからこそ、それに反発して明るい文化的産物が好まれたりする。倒錯的あるいは反発的というのは裏メタファーということもいえる。

これに対してメトニミー的関係というのはどうなるのだろう。部分で全体を示す、あるいは全体で部分を示すメトニミーは、メタファーのように置き換えはおこなわれない。時代を象徴する人物というものがいるのは確かだが、それはその人物が時代のメタファーになっているからである。これに対して、すべての人物がメタファーになるのではない。ただ、その時代に属しているだけで、メタファーにはなっていない人物も多い。つまり新型コロナウィルス禍のこの時期に、何事もなかったように生活をし、感染もせず、感染も気にかけず、ただ日々是好日の世界を生きているのんきな人間(若者と書こうとしてやめた。感染して苦しんでいる、あるいはさらに後遺症に苦しんでいる若者たちも多いので)は、時代のメタファーにはなっていない。

いや、なっていると声もきこえる。

たしかに、コロナ禍で自宅療養中に死亡する気の毒な方はコロナ時代を象徴する人物である。あるいは倒産する飲食店もまたコロナ時代の象徴だし、命と金かを天秤にかけ金を選択して支持率を落としている首相もコロナ時代の象徴だろう。しかし、なにごともなかったかのように暮らす人びとも(マスクもせず、自粛生活もせず、感染を気にもかけず、外食産業を応援するつもりもまったくないまま外食しつづけるような人びと)も、また、いかにもコロナ時代ならではの愚か者であるように思われる。となると、典型的か否かに関係なく、いま、この社会で生きている人びとの思いつく限りの形態を考慮すれば、どれもがメタファーになりうるのである。となると、メトニミーはないのか。

メトニミーであって、それが同時にメタファーでもありうる例はいくつもある。アメリカでは大統領公邸をホワイトハウスという。これは建物の名称を、そのまま大統領公邸あるいは大統領、政府そのものを意味するメトニミーとして使っている。しかし、もしその建物に、ブラックハウスというような名称がついていたら、メトニミーとして使われたなかったのではないだろうか。となるとホワイトハウスは、メトニミーであると同時にメタファーでもある。ちなみに、これに対して、イギリスでは首相公邸、あるいは首相そのものをナンバー・テン(10)ということがある。首相だからナンバーワンではないかといいうなかれ。これは首相の公邸がある番地からきているメトニミーである。ここにはメトニミー/メタファーの二重性はないように思われるが、しかし、本来ナンバーワンであってもいい首相についてナンバーテンという落差なり不適説性がかえって面白がられているとすれば、これもまた負のメタファーかもしれない。

しかし、メトニミーそのものではなく、メトニミカルな関係を余儀なくされることもまた、メタファーであるといえるかもしれない。

たとえばフェルメールの絵画。フェルメールが活動していた時代は、また、激動の時代、戦争の時代でもあり、居住していたデルフトに、近いか遠いか判断のわかれるところだが、まったく遠いとはいえないハーグでは、デ・ウィット兄弟が処刑され、食肉処理された家畜のように裸で吊される事件が起きているのに、のんきに絵なんか描いている場合ではなかったかもしれない。あるいは、そうした狂乱こそ描くべきではなかったか。

ただ、その絵画は、誰もが認めるとおり、祖国が占領される危機にみまわれている戦乱の時代であることをまったく反映しない、日々是好日の室内画である。コロナ下で生きるのんきな、あるいは楽天的な日本人の室内のように、フェルメールの室内には外部は入り込まない。外部が暗示されるとしても、遠い異国の地(たとえば中国とか日本をはじめとする東洋)か、ごくありふれた日常の生活である。そこでは恋愛や不倫がいとなまれているかもしれないが、戦争の影だけは、絶対に忍び込むことがない。あるいはフェルメールが描く、手紙に関係する場面には、戦争の報告、生存者の安否の問い合わせや報告なのかもしれないが、その可能性を示唆しつつも真相あるいは真偽への拘泥は見出し得ないのである。

その絵画は、外部を閉め出す、その身振りこそが、ある意味、戦乱の時代におけるフェルメールの芸術の特徴かもしれない。つまり、戦乱、動乱については、ただ、なにもできないまま傍観することしかできないが、ただ、それがみずからの日常と芸術活動に浸食してくることだけは避けたい、なにしろ浸食されたら、どう対処してよいか見当もつかないなからである--という時代とのこの関係は、まさしくメトニミー的である。そして時代をまるごと背負う、まるごと表象する意欲も意図も、そして提起すべきヴィジョンもないまま、ただっみまるしかないという姿勢、まさにこのメトニミー的姿勢こそが、時代のメタファーになっているのではないだろうか。

そしてフェルメール芸術の、この身振り、この姿勢はまた、なにもできないまま、時代に流されてゆく人びと(それは他人事ではなく、私たち、いや私のことでもあるのだが)のメタファーともなりうる。フェルメールの時代との間で余儀なくされたメトニミー的関係は、それだけに収まらず、後世の時代の多くの人間が余儀なくされる身振りの、まさに、メタファーにもなっているのである。

そしてスピノザは? スピノザの専門家でもない私としては、フェルメールについて、専門家でもないのに好き勝手なことを述べた勢いで、さらにスピノザについて語ることは、恥の上塗りであろうから、今回は避けておくが、はたしてスピノザの思想は、この動乱の時代のメタファーなのか、あるいはメトノミ-的関係を維持しようとしているのだろうか。
posted by ohashi at 22:01| 映画・コメント | 更新情報をチェックする