2021年01月01日

新年あけましておめでとうございます

毎年、この時期に書いていることだが、いつ頃からは、「あけましておめでとう」ということは、「旧年」が「開けて」「新年」になることだから、「新年あけましておめでという」というのはおかしいという、くだらない説が出てきて、「新年あけましておめでとうございます」という表現は、一時、絶滅危惧種というか、ほぼ絶滅したことがあった。

大げさなというなかれ。市販されている印刷済の年賀状の文面からも、「新年あけまして……」という表現が消えたことがある。いまでも消えているのかもしれないが。

しかし、長年使われてきた「新年あけましておめでとうございます」という表現が、おかしいというのは、日本語の使い方を全く知らない外国人がする指摘のようなもので、それに対して明確に答えられなかった日本人あるいは、それに同調してしまった無知な日本人の責任は大きい(別にほんとうに外国人が指摘したということではない)。

まあ、漫才のネタのような話で、最初は冗談だったのかもしれないが、それがいつしか本気でとられてしまった。愚かさに国境はない。漫才の冗談ネタのような話が、伝統を破壊したというのは、美しい素晴らしい日本にふさわしい快挙だと思う(ちなにみ、漫才ネタではなかったはずだ――もしこれがほんとうに漫才ネタだったら、笑ってすませられるだけで、ここまで感染爆発はしなかっただろうから)。

これもよく言われる例だが、「お湯を沸かす」という表現は、一度沸いたお湯をもう一度沸かすという意味ではなく、水をお湯にするという意味である。「水を湧かす」と言ってもいいし、それはまちがいないのだが(人によっては、まちがいとみなすこともあろう)が、「お湯を沸かす」が一般的である。つまり原因ではなく結果の方を先にいう表現は、日本語には多い。

「新年あけましておめでとうございます」は、「旧年が開けて新年になる」ときの結果のほうを先に言っているのである。だから違和感はない。「お湯を沸かす」に違和感がないように。

もちろん、これから先は言語学者の専門的議論にまかせるしかないが。

そしてもちろん、私は怒っている。「新年あけましておめでとう」がおかしいと本気で言った人間を突き止めて、謝罪を要求したい。

そしてもちろん私は安堵している。「新年あけましておめでとうございます」という表現が、もどってきている。メディアでも、年賀状の文面でも。それは一部の愚か者たちの暴挙にもかかわらず、伝統が残っていることの、証しなのだと思う。伝統はこんなことで崩れるわけないはいかないと私は思っている。崩すのならもっと広範囲に徹底的に崩すべきだから。


付記:
私が子どもの頃テレビでみた漫才ネタで、誰のネタだったかは忘れたのだが、いまでもネタそのものの衝撃はよく覚えているものがある。

私たちは一年に何時間、働いているかと計算するとき、足し算・かけ算でやっていくと、たとえば一日8時間、週5日で40時間、一ヶ月4週働くとして160時間、12ヶ月働いて1920時間で、実働80日である。これが長いか短いかわからないが、足し算ですればこうなるが、その漫才では引き算と割り算で考える。

私たちは一日8時間、三分の一は寝ている。したがって一年の三分の一、およそ120日は寝ている。残り240日のうち、土日の休みがおよそ100日で、残り140日、さらにそこから食事時間、通勤時間、入浴時間、トイレ時間と、どんどん引いていくと、実働0日になってしまうというネタ。

計算方法のマジックであって、この話の嘘をうまく証明できないとしても、かといって信ずることはない。それが衝撃的だった。そして、これは面白い冗談として受け止めるしかなかったが、まさにこれこそが、この漫才、いや漫才全般の衝撃であり、また醍醐味なのだと私は思っている。
posted by ohashi at 09:59| エッセイ | 更新情報をチェックする