2021年01月08日

イリュージョンの未来

夢のなかで高校時代にもどることがある。ずっとサボっている授業があって、このままでは落第が確定しそうで、なんとか出席しようと思うのだが、これまでずっと休んでいるのに、どの面を下げてというか、どう言い訳して授業に出るのか、苦しい思いでいる……。そんな悪夢である。このまま、この授業は放棄しようかと思うのだが、そうなると落第して卒業できない。どうしたらいいのかと思い悩んでいると、ある思いがわいてくる。

そういえばまだ授業の準備をしていなかった。午後の授業のために、配付資料なども整えておかねばならない……。と、ここで私は何を考えているのかと思い惑う。片方で落第寸前で困っていながら、同時に、これからの授業のことを心配している私。授業。受ける授業ではなく、教員としておこなう授業。私は大学で授業をしているのだ。その準備。ということは、私は大学の教員であり、高校を卒業できていたのだ。と、その瞬間、私のこの高校生活は夢なのだ、現実ではない、現実の私は高校を卒業して、いまでは大学で教えている……。

こうして悪夢から解放された。ふつう夢のなかの出来事は、目が覚めると忘れてしまう。夢のなかで大発見したと思っても、夢から覚める過程で、着実に、消えていく。どんな種類の大発見かも忘れてしまう。すぐれた小説のアイデアを思いついたことがあった――夢のなかで。目が覚めたら書き留めておこうとしたことも覚えているが、目が覚めたとき、アイデアはきれいに消えていた。

新海監督のアニメ映画『君の名は』に、似たような場面があった。夢から覚めるときの、消えてゆく世界と、それをとりもどせないもどかしさ。だから本来なら高校時代の悪夢から覚めるプロセスは覚えているはずはないのだが、夢の内容はさだかでなくなっても(私は優秀な高校生ではなかったが、落第を心配するほどの低空飛行をしていたわけではない)、目覚めるときのプロセスは、経験として記憶されたのだと思う。それはとにかく悪夢を脱したときの解放感があった。

先週の木曜日(2020年12月31日)は、このぶんでいくと東京都の新型コロナウィルスの感染者は、1000名を超えるのではないかと数日前から心配していたが、まさか1300人になるとは夢にも思わなかったし、さらに驚くべきは、その1週間後の1月7日に、感染者が2000名を超え、2500名に迫るとは、まったく予想できなかった。私たちは、いま、まさに悪夢のなかにいる。だから、そんなことを思い出したのだともいえるのだが、悪夢と悪夢からの覚醒によって思い出す、有名な小説がある。


大岡昇平の『野火』である(昨年暮れに、塚本晋也監督の映画について触れたので、同じ監督の『野火』を思い出したのかもしれないが、今回は、映画ではなく小説の話)。

『野火』の最後のほうのことを覚えているだろうか。地獄のようなルソン島の戦場の出来事が、次の章では、現代というか、その小説が発表された当時の、戦後まもない日本にワープする。その衝撃は、おそらく、この小説が出版されたときの読者でないと、正しく受けとめられないのではないかとも思ってしまうのだが、その衝撃は安堵でもある。

とにかく主人公とともに、地獄のような戦場を彷徨した読者は、ここで、ふっと我にかえるような気がする。あれは過去の、終わった、戦争なのだ、と。いま私は、地獄ではなく、戦後の平和な日本にいる。私は生きている。そしてこの日常、このありきたりな日常が、過去の地獄の戦場のせいで、なにか輝いてすらみえる。

だが、これが小説の最後の場面ではない。この小説のすごいところは、最後に、またルソン島にもどるのだ。一瞬、現在にワープしたために、置き去りにされた地獄の一場面にふたたび戻るところで小説は終わる。

この衝撃は大きい。なぜなら、戦後の平和な日本の凡庸な日常は、リアルではなくて、ルソン島で死にゆく日本兵たちが夢にみた幻想かもしれない。戦争はまだ終わっていない。地獄の季節は終わっていないかもしれない。つまり、この小説を読んでいる読者の現実は、リアルではない、ただの幻想、まぼろしかもしれないのだ。私たちは、仲間の死肉を食べながら,死んでゆく狂気の兵士たちの絶望的な妄想のなかの存在でしかないのかもしれない。

昨年出版された村上春樹『猫を捨てる―父親について語るとき』(文藝春秋)のなかに、『野火』の舞台となった、ルソン島での惨状を簡潔につたえる説明文がある――

第十六師団は激しい艦砲射撃と、上陸軍との水際での戦闘で人員の半数を失い、その後内陸部に退いて抵抗をおこなったが、補給路を完全に断たれ、後方からゲリラに襲撃され、ばらばらに敗残兵となった多くの兵士が飢餓とマラリアのために倒れていった。とりわけ飢餓は激しく、人肉食もあったと言われている。勝ち目のない、類を見ないほど悲惨きわまりない戦いであり、当初1万8000名を数えた十六師団の生存者は、僅か580に過ぎなかった。(73)


まさにこの世界である。そして小説『野火』は、最後にルソン島の惨状に戻る。戦後の平和など虚妄にすぎない。戦争の地獄は終わっていないことを訴えかける。

もちろん戦争は終わった。だが、まるで戦後の平和が幻想であり、地獄の戦場こそがリアルであるかのような描き方は、何を意味しているのだろうか。

最初の夢にもどろう。もし高校時代に落第確実の悪夢に苦しんでいる私が、大学で教えている事実に目覚めて、悪夢だったとほっとした矢先、再び、高校生に戻っている。大学教員の私は、高校生であった私が、現状から逃れたいと思って夢見た妄想でしかすぎなかったとしたら。再び悪夢の世界にもどる。今度は二乗、三乗された悪夢へと。Return with a vengeanceというやつである(うまく訳せないけれど)

同じことは、いまの日本にもいえる。私はひたすら自粛生活を送っていて、コロナ禍がおさまることを夢に見ているが、これからもっとひどくなるのではと不安を抱いている。しかし多くの日本人あるいは東京人は、まるでコロナ禍がおさまったかのような日常を生きている。いくら大衆は現実に耐えられないといっても、これはひどすぎる。戦争が終わってもいないのに、平和な戦後にいると思い込んでいる。昨今の感染爆発は、愚か者たちを、まさにその妄想から引きずり出し現実に直面させるようなところがある。まさに彼らに現実はReturn with a vengeance(うまく訳せないけれど)。


悲惨な現実と向かい合わない限り、あるいは死者を弔わないと、いまとここは、ただの幻想にすぎなくなる。過去を過去として葬る、いや葬ることすら葬る、まさに忘却の忘却によって現在を生きるのは、現在を限りなく希薄なものにしかねない。リアルと思っていた現在が、幻想にしか思えなくなる。そんな認識の深淵が穴をあけるのである。

そう、もし過去への忘却の忘却を生きているのなら、私の存在は、希薄になる。「自分自身が透明になっていくような、不思議な感覚に襲われることになる。手を宙にかざしてみると、向こう側が僅かに透けて見えるような気がしてくるのだ」と村上春樹は書いている(90)が、まさにそんなイメージがぴったりくるように思われる。

ただし、『猫を棄てる』のなかで語られているこのイメージは、私の議論とは方向性が逆である。過去から目をそむければそむけるほど、今の私の存在が、私の手が透明になってしまうということではなく、過去に向き合えば向き合うほど、いまの自分の存在が希薄なものにみえてくる、「手を宙にかざしてみると、向こう側が僅かに透けて見えるような気がしてくる」ということである。なぜなら親の世代においては戦争があった。そこで多くの人が死んでいた。自分の親も死んでいておかしくなかった。つまり生と死の紙一重のなかに、かろうじて幸運にも生を受けた自分のもつ存在のあやうさ、あるいは幻想性(死者たちの妄想の産物的なところ)が痛感されるのである――過去に向き合い、過去を知れば知るほど。

そう考えると、僕が小説家としてここに生きているという営み自体が、実体を欠いたただの儚い幻想のように思えてくる。僕という個体の持つ意味あいが、どんどん不明なものになってくる。手のひらが透けて見えたとしてもとくに不思議はあるまい。(90-91)


となると、過去に向き合うことによって現在が厚みをまし私の実存が保証されるのか、過去に向き合うことによって、現在が希薄なものになってしまうのか、私の実存が薄っぺらなものになってしまうのか(とはいえこれはまた「我々は結局のところ、偶然がたまたま生んだひとつの事実を、唯一無二の事実とみなして生きているだけのことなのではあるまいか」(96)という省察にもつながるのだが)、方向性は正反対だが、たしかな共通点もある。それはリアルは過去が握っているということである。

実際、過去のリアルを知ることによる現在の希薄化を説く村上は、過去に降り立つ勇気をもつことも説いている。父親を知り、父親が語りたがらなかった戦争のリアルを知ることによって、あらためて自己のはかなさにむきあう。そのとき、自己はもはやはかないものとはなくなっているだろう――私の方向にむりやり向けてしまうと。

『猫を棄てる』というエッセイの冒頭で、子どもの頃の村上が父親と猫を棄てに行く話が語られる。このエッセイにあらわれた「猫」については、本来なら、もっと丁寧に語られるべきだだが、おおざっぱにいえば、冒頭の棄てられた猫は、父親の戦争の思い出、戦争あるいは過去そのもの、さらには父親そのひとでもあるし、またこの本のイラストからすれば、棄てられたのは村上(子どもの)自身でもある。冒頭で棄てられた猫は、何事もなかったように戻ってくるのだから、戦争の記憶/過去/父親/息子、すべて棄てられたかのようにみえて帰ってくる。

これに対し、エッセイの最後で語れるのは、木に登ったのはいいけれども、木から降りられなくなった猫で、しかも、その猫はどこかに消えてしまう。もどって来なくなった猫、それはまた戦争の記憶/過去/父親でもあるのだろうが、そして、この消えてしまった猫によって、村上自身が棄てられてしまったともとれるのだが、この猫もまた村上自身のことでもある。木に登るのか簡単だが降りるのがむつかしい。「降りることは、上がることよりずっとむずかしい」(94)。だが、たとえそうでも、「遙か下の、目の眩むような地上に向かって垂直に降りていくことのむつかしさについて思いを巡らす」(97)と語る著者の、困難な垂直降下がこのエッセイということになる。

この猫は、こわごわと降りてくる。父親を、また両親を語り、時代の過去へと、もちろん自分の過去もふくめ、見極めようとする、いや見極めようと降りてくる、その降りざまの記録が、このエッセイということになる。さもないと著者自身が、消えた猫のように「その枝の上で白骨に」なっているだけかもしれないからだ。

過去に降りようとしないどころか、過去を捏造しようとする現代の日本に対して、勇気をもって木から下りようとする子猫あるいは白骨化した子猫のささやかな矜恃を語る著者の姿勢は、どこまでも厳しく、またどこまでもやさしい。


posted by ohashi at 13:47| エッセイ | 更新情報をチェックする