「過去10年間で出版されたこの分野の研究書のなかでもっともすぐれたもの」というような表現が卒論のなかでなされた場合、そこには、含意として、書き手が、この分野の研究者で、多くの文献を読みこんでいる優れた人間ということがあげられる。卒論を書く一学生が、そんな研究者であるはずもなく、違和感マックスなのだが、本人としても、優秀な、あるいは有能な研究者としての自我を一瞬でも引き受けて、いい気持ちになったということが、まったくないとは言いきれまい。自分を偉く見せようという強い気持ちはなくても、自分が偉くなったと一瞬でも感じたのではないか。そこのところが気になる。
同じようなことを私は感じたの、バイロンの『カイン』の翻訳というよりも、その訳注を読んで。
バイロンの『カイン』の翻訳の「訳注」を読んで、驚いた。
たとえば最初の注
……バイロンは、劇の歴史にいっくらかはしたしんでいたらしいが、かれの知識がとこからきており、どのくらいものであったかは推測したがい。一八一八年に公にされた「チェスター戯曲集」の再刊本はよんでいたろう。ウォートンの「詩史」のなかの奇蹟劇の部分をよんでいたのことはたしかである。あるいはLudus Coventrieaeの版本もみていたかもしれない。Le mistere duy Viel Testamentの十六世紀版は、一八七八年にロスチャイルド伯爵が再刊したが、はたしてバイロンがそれを見ていたかどうかはわかない。奇蹟劇の神聖冒涜についての例は、Towneley Plays(一八三六初刊)参照。(p.163)
これを読んだときに、翻訳者の島田謹二の知識というか学識は、すごいものだと一瞬驚いた。いまの若い世代は知らないかもしれないが、島田謹二という人は、その威光に誰もがひれ伏しておかしくない大学者だった。Wikipediaで調べてみてもいい。そこには島田謹二(1901年3月20日 - 1993年4月20日)が比較文学者、英米文学者で、戦後、新制発足間もない東京大学教養学部の大学院比較文学比較文化専修課程の初代主任教官となり「平川祐弘、芳賀徹、小堀桂一郎、亀井俊介ら、多方面で活躍する人材を多く育てた」とある。また司馬遼太郎とも親交があり、そして女癖が悪かったという。この女癖については、いかにもWikipediaタッチで、べつになにか大事件になったわけでもないし、そんなことを書く必要があるのかとWikpediaの記述の、いつもながらのゲスぶりにあらためて憤りすら覚えたのだが、今回の『カイン』は、この人物の翻訳であり、また「注」なのだ。
翻訳については、すぐれた翻訳だと思うので、なにもいうことはない。問題は、そこにつけられた訳注である。
ただし、なにか翻訳者が不正なこととか、まちがったことをしたということではまったくない。訳注をみて、私は最初から、その学識に度肝をぬかれたが、ただ、さすがに読んでいくと、これは翻訳者当人がつけた訳注ではないことはわかってくる。実際、文庫版の解説の最後に、訳注は、バイロン全集のこの作品に着けられた原注を選んで翻訳したものであることを明記してある。
……アーネスト・ハートレー・コールリッジが標準的なマレー版「バイロン全集」第五巻についけた注をもとにして、簡単なノート(注)を前に出しておいた。初心の読者のために多少のお役にたてばありがたいとおもっている。(p.185)
と書いてある。
ただし、解説の最後まで読まないと、わかないのだが、しかし、明記してあるので、これは盗作でもなんでもない。また原書につけられた原注も翻訳することは、まちがいではないし、また原初の原注を訳してくれると読者としてもありがたいことも事実である。
だから、まちがったことはなにひとつないのだが、しかし、「……バイロンは、劇の歴史にいくらかは親しんでいたらしいが、かれの知識がとこからきており、どのくらいものであったかは推測したがい」という趣旨の訳注は、翻訳者の学識あふれる感慨として受けとられてもおかしくない。翻訳者は、ただの無名の研究者ではなく、島田謹二大先生なのだから。しかも、このような書き方は、翻訳者の意見なのか、原著にふくまれる注釈の作者の意見なのか、すぐには、区別がしがたくなっている。ここは、しつこいぐらいに、これは原著の原注であり、そこではこういうことが書いてあると、明記すべきだろう。そうしないと訳注をつけた者、つまり翻訳者が、ものすごい学識をもっていると誤解されかねない。いや、誤解されたほうがよかったのでは?!
いやちがう、島田先生ならコールリッジなんとやら(コールリッジの孫だが)と同じ学識があってもおかしくないのだから、これは島田先生の学識が披瀝されたものとみてよく、たまたまコールリッジの孫と意見が一致したにすぎないといわれるかもしれない。
しかしだったら、次の注は、どうか。
蛇――「蛇は蛇であった」という主張については、ヴォルテールの「聖書解釈」、ベイル(「エヴァを誘惑したのは現実の蛇であった」)の「批評辞典」(His. And Crit. Dictionary (1735)ii, 851)参照。
という訳注。実は、これも原注の引き写しなのだが、それはそれでいいとしても、ヴォルテールの「聖書解釈」には、説明が欲しい(原著のフランス語のタイトルくらい出すべきだし、原書の原注はヴォルテールの全集の巻数まで明記して、詳細な出典情報を提供しているきめて学術的な注となっている)、ベイルの「批評辞典」というのはなんじゃい?
ベイルのこの本は、現物は見たことがないのだが、けっこう有名な本で、私が翻訳している本にも言及があった。日本版Wikipediaにも「ピエール・ベール」の項目に
ピエール・ベール(Pierre Bayle, 1647年11月18日 - 1706年12月28日)は、フランスの哲学者、辞書学者、思想家。『歴史批評辞典』などを著して神学的な歴史観を懐疑的に分析し、啓蒙思想の先駆けとなった。
とある。そして日本版ウィキペディアにはどういうわけか触れていないのだが、『歴史批評辞典』には、翻訳もある(法政大学出版局、絶版)。ところが、原注を訳した人間は、His. And Crit. DictionaryのHis.が何の略かわからなくて、『批評辞典』としか訳していない。本来なら、これはわかって当然で、『歴史批評辞典』と訳すべきでしょう。この注をつけた、あるいは翻訳した人間は、ベイル/ベールのこの辞典について何も知らないのだ! ならば、自分で知らないことを、日本の読者に伝えてどうするのか。ちなみに原書の原注はHist.and Crit. Dictionaryとあるのだが、岩波文庫版ではHis.and Crit.Dictionaryとあって、Hist.がHis.なっている。どういうわけか。
もうひとつの注
アルフィエリの「アベーレ」とバイロンの「カイン」との間には何の類似もない。
これには読者はきょとんするしかない。実はバイロンは、序のなかで、こう述べている――
最後に一言つけ足したいことがある。アルフィエリに「アベーレ」という「非歌劇」があるが、著者はまだ読んだことがない。伝記をのぞいては、この作家の遺著は一冊も読んでいない。
と。この末尾の言葉に対する注がこれなのだ――「「アベーレ」と「カイン」との間には何の類似もない」。はあ? なんの類似もないのなら、なぜバイロンは、わざわざことわったのだ。この注は原書のコールリッジの孫がつけた注と同じというか、翻訳である。
There is no resemblance whatever between Byron’s Cain and Alfieri’s Abele. これが原注。
この注を訳した翻訳者は、まずアルフィエーリについて何も知らない。まあ日本でもアルフィエーリの戯曲が翻訳されたのは、Wikipediaの記述を信ずれば21世紀に入ってからである。
翻訳リスト
『アルフィエーリ自伝』 Vita scritta da esso(上西明子・大崎さやの訳、人文書院、2001年)【これがバイロンが読んだ唯一の著作。絶対に面白い本だと思うが、私は読んでいない。バイロンがLifeといっているこの書物は、日本語では意味を汲んで『自伝』と訳すべきものだろう。原注を訳した人間は気づいていない。】
『アントニウスとクレオパトラ (悲劇)』(谷口伊兵衛・C.ピアッザ訳、文化書房博文社、2013年)【たぶんシェイクスピアの『アントニーとクレオパトラ』の翻案だろう。読んでいないのでちがっていたらすみません。】
『アルフィエーリ悲劇選 フィリッポ サウル』(菅野類訳、幻戯書房、2020年)【今年出た本。できるなら、もうひとつの代表作『ミルラ』も訳してほしかった。私のイタリア語力では『ミルラ』を原書で読むのはむりだろうし、英訳もちょっと探しにくいので。】
で、このアルフィレーリの『アベーレ』だが、なぜ、なんの類似もない作品に、バイロンは言及したのか、この訳注=原注は、頭がおかしい人間がつけたとしか思わない。なんの説明にもなっていない。そこでWikipediaの説明を一部引用すると、
Abele is an Italian play inspired on the first Bible's chapters by Vittorio Alfieri (1749–1803) which he described as a tramelogedia. It was written in 1786 and first published after Alfieri's death in 1804 in London.
とある。なるほど、「アベーレ」というのは、カインとアベルのアベルのことか。となるとアルフィレーリの『アベーレ』というのは、旧約聖書に取材した戯曲で、バイロンの『カイン』の世界とかぶる。そこでバイロンは、盗作あるいはインスピレーションを得たと誤解されないように、このアルフィレーリの作品は読んでいないと断り、コールリッジの孫も、この戯曲とバイロンの作品の類似性はないと明記した。
これならば、わかる。また英国の読者は、Abeleというタイトルから、アベルを扱った芝居だと想像がつくだろうが、日本の一般読者(私もそうだが)にとって、アベーレからアベル、カインとアベルを思いつくことは至難の業である。もちろん原注を訳した人間も、たぶんなにもわかっていない。結局、これは原注の劣化コピーに過ぎない。
なお細かなことだが、原注において、現代の日本語の一般的な表記と異なり、作品名は「失楽園」、「マンフレッド」、アウグスティヌス「神の国」と、「 」で表記し、引用は『………像ことごとくは/始の輝きを失わず、……』と二重カッコになっている。まあ、それでもシステマティックなら、それでいいのだが、バウリング編『ヴィトリオ・アルフィエリの悲劇』、『詩集』など書名も二重カッコになっている。作品名は「 」、引用は『 』、書名は『 』なら、では「ベイル辞典」(p.166)は何か?(これは『歴史的・批評的辞典』のことだろうが)。しかも「べィル辞典」(p.167)という表記もあるが、これは同じまあ不統一だろうが。
ならば
『婦人たちは……』(「コリント人への第一の手紙」……)(p.170)
はいいとして、
ゲスナーの『アベルの死』参照(p.170)
は作品名が『 』に入っている。
主の天使――「ミルトンは……」
はなぜ『ミルトンは……』
ではないのか。まあめちゃくちゃなのだ。
というか、昔はおおらかだったのだろう。本来なら、こんないい加減な注をつけた岩波文庫は永久絶版にしてもいいのだが、ただ詩の翻訳はすぐれていて、バイロンのこの傑作が読まれなくなるのはつらい。だから有能な研究者が注のところだけでもつけなおしてくれるとありがたいのだが……。
ただいえるのは、昔はおおらかだったということである。また、翻訳に関しては、昔の大先生の翻訳には、言い訳があった。これは、大先生が翻訳したのではなく、弟子とか学生がしたのだという。今の政治家の、全部秘書がしたのだという、あからさまな嘘を思い出すかもしれないが、実は、翻訳の場合、嘘ではないことも多くて、本人が翻訳していないことも多い。また原注の部分については、昔はおおらかだったのか、あるいは学生か弟子が書いたのか、そのいずれかだろうとあきらめるしかないのだが。
ただし、一言、私は、前日の記事の、卒論を書いた学生と同じものを、感じるのだ。意地悪な感想だろうか。
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