卒論の季節(早い大学では12月に提出なので)となって思い出すことがある。ただし、こんなことを書くと、英文科の学生がそんなに程度が低いのかと思われてしまうと困るので、これは10年、いや30年に一度くらいの事例で、しかも究極的な責任は、学生というよりも指導教員の側にあるので、恥ずかしいかぎりだが、ほかの学生がこうだということは絶対になりことをまず、お断りしたい――これまでの卒業生、ならびに在校生の名誉のためにも。
卒論で重要なのは、自分の意見と他人の意見を区別すること。他人の意見なのに、それを自分の意見であるかのように書くのは端的にいって盗作である。もちろん、つきつめると、私たちの意見は全部他人の意見であるともいえるのだが、実際の手続き上の問題としては、この区分は有効である。
卒論の口頭試問のなかで、私は、学生に対して、「あなたは、この研究書について、『過去十年間で出版されたなかでもっともすぐれた本である』と書いているが、その本の出版年を確認してみると、いまから20年以上も前であって、ここ10年間とは言えないですよね」と問い詰めた。
すると学生は、そういうふうに、ある研究書に書いてあったという。
だったら、なぜ、「これこれこういう本とか論文によると、その本が過去10年間で出版されたなかでもっとも優れた本である」と書いてあったと書かないのか。そういうふうに書かないと、これがあなたの意見ということになってしまう。そうすると、こういうことを言うあなたは、この分野の研究論文をたくさん読み漁ってきていて、しかも、10年と20年の区別がついていない、専門家・研究者で、変な人ということになります。あるいは、ただのうそつきです。しかし、こういうことを書いてある論文があったということであれば、あなたはよくリサーチしていると、ほめられることこそあれ、批判されることはありません。天国と地獄の分かれ目は、まさにここにあるのです。
まあ短い口頭試問の時間に、ここまで説いて聞かせることはしなかったが、これはたんに学生をディスっているのではなく、本来ならこういうやりとりは卒論指導の際の一対一のやりとりのなかで出てくる問題で、口頭試問の場で出現するような問題ではない。つまり、こういう、自分の意見とも他人の意見ともわからないような雑な書き方は最終的に卒論を提出するまでには直っているはずのことなのだ。それができなかったのは、卒論指導がなされていなかったことだ。それは教員の側の責任でもある。ただ相談に来ないし、声をかけようにも授業にも出てこない学生で、動向が全く把握できなかったのである(言い訳になるが)。
20年以上も前に出版された本を「過去10年間で出版されたこの分野の研究所のなかでもっと優れた本」と卒論で書くのは、いっぽうでは、高校生が書くレポートのようなのもので、事典、辞書、参考書の類を引き写しただけというだけで、情報源なり出展を明示し、他人の意見と自分の意見を区別するという手続きについてはただ無知なだけの、高校生のような大学生なのか(ただし、現在、高校では、情報源や出展の扱いをきちんと指導しているかもしれないので、その場合は、私の無知をお詫びするしかないが)、あるいは、ほんとうにこの卒論は本人が書いたのかどうかわからない、他人が書いたから、あるいは最初から最後まで何かを引き写した盗作卒論なのか、この両極端のなかで、意図的盗作も十分に考えられるものの、英語が下手なのと、内容がおかしいところから、盗作ではないと考えた。
なぜならシェイクスピア劇を扱っているときに、「イタリア政府」と書いてあるからである。現在の話ではない。シェイクスピアの時代の話である。当時のイタリアは、まだ近代的な「国民国家」誕生以前であって、イタリア政府などというものは存在していなかったのですよと、説明せねばならなかった――卒論指導の場ならいいのだが、口頭試問の場で。
もちろん「過去10年……」は厳密にいえば盗作である。ただすぐにわかる盗作だし、巧妙にごまかそうとしたわけではないので、書き方を知らなかったということなので、書き直しとか卒論を認定しないということはしなかった。
なお、ここまでは、バイロン『カイン』についての前振りである。