日本訳というのは、見慣れぬ表現だが、もし誤植でなければ、これは英語に翻訳したものを英訳、フランス語に翻訳したものを仏訳ということのアナロジーから、日本語に翻訳したものを「日本訳」と表記したのだろうか。
事実、上記、翻訳書の同じページには「英訳」「仏訳」の表記もみられるので、それに引きずられて「日本訳」としたのだろうか。しかし、「和訳」とか「邦訳」という表現はふつうに使われているが、「日本訳」は、いかがなものだろうか。
このあたりを、ねちねちと、からかい半分に掘り下げて、このブログに載せようと思ったのだが、ただ、この『ドクトル・ジヴァゴ』の日本語訳は、りっぱな翻訳であって、また訳者あとがきからも、この翻訳にかける翻訳者の熱い心意気などが伝わってきて、下手なことを書いて、それが翻訳者の眼にもとまったりしようものなら、倍返し、いや十倍返しとなって、こちらに跳ね返ってきそうで、何も書くことをしなかったのだが……。
この問題は解決をみた。
バイロンの劇『カイン』を最近、岩波文庫で読んだ。この作品を今回はじめて読んだのだが、昔読んだことがあると嘘でもつこうかと思ったくらいの、読んでいないことが恥ずかしいほどの瞠目すべき大傑作だとわかった。岩波文庫の翻訳そのものもすぐれていて、この作品の価値を高めている。
バイロン『カイン』島田謹二訳(岩波文庫1960)である。
そして翻訳者の「まえがき」にいわく
一、これはバイロンの劇詩「カイン」の日本訳である。
【中略】
一、このマレー版全集には、各幕各場にそれぞれ十行単位の行数がしめされている。ここではそれを五行単位に細分して、できるだけものとのラインにそくして日本訳をこころみた。
【以下略】
なんと「日本訳」とある。1960年当時は、「日本訳」という表現が使われていたのだ。誰でもそうなのだが、知らないことはいっぱいある。「日本訳」という表現を誤植かなにかのようにあげつらうような記事を書かなくてほんとうによかったと冷や汗をかいている。もっとも現在の日本では、日本訳という表現は完全に使われなくなったと思う。
あと、せっかくだからバイロンの『カイン』について一言
モダニズム文学は、永遠あるいは永遠の一瞬のような超越的瞬間にこだわりをみせているのだが――たとえばジョイスの「エピファニー」のような、あるいはベンヤミンの歴史哲学における救済の瞬間も、これに属するだろう――、これに対してロマン主義文学がこだわったのが無限であるといわれることがある。モダニズムの永遠Eternityに対してロマン主義の無限Infinity。バイロンのこの戯曲は、まさにロマン派的無限性の主題を前面に押し出した作品で、ここに、美に対する崇高の美学、そして啓蒙を経由した合理主義的悪魔主義とが加わって、みごとなまでの旧約聖書・創世記物語の翻案、そしてまた独立したひとつの悲劇作品となっている。
カインとはアダムとイヴの長男で、アベルもまだ生きているという、地上に人類が数名しかいない神話的過去を舞台に、カインによるアベル殺害にいたる(これは予想できる展開だが)までの懊悩と悲嘆、そして虚無的なカインと、悪魔的な(悪魔だが)ルシファーとのやりとりなどがメインで進行するなか、イメージ性、思想性が、リミッターをはずされたかのように、暴走し、すべてが圧倒的強度で読む者に迫ってくる。
中盤の第二幕は、誰もがファウスト伝説を思い浮かべると思うのだが、ファウストがメフィストフェレスによって地上の多くの場へと連れて行かれ、見聞を深めるのに対し、この作品ではカインがルシファーにつれられて宇宙そのものを旅し、地球を外側からもみる。虚無的懐疑的になっているカインは、まさにファウストであり、ルシファーは、このファウストを宇宙に連れ出すメフィストフェレスである(『カイン』のルシファーをメフィストフェレスだというのは格落ちで、ルシファーには失礼なことになるが)。
この宇宙旅行を指して、この戯曲が上演不可能なレーゼドラマ(英語ではクロゼット・ドラマ)といわれるゆえんだが、しかし現代の特殊効果とかプロジェクションマッピングなどを駆使しなくても、演劇にとって舞台でできないことはない。だからレーゼドラマというのは、存在しないと私は思っているが、同時に、戯曲の多くは、読まれるだけで、舞台化されるのは、ほんの一握りの作品でしかないという悲しいが不可避の現実もある。つまり演劇というジャンルは、ほとんどがレーゼドラマなのだ。
なお岩波文庫版、島田謹二訳『カイン』については、素晴らしい翻訳に感銘をうけつつも、気づいたこともあるので、日を改めて語りたい。
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