ちょっと古い映画だが、思うところがあって、ネタバレ的コメントをしつつ、書いておきたい。
Foxテレビか何かで最近映画『ドリームハウス』を放送していた。2011年(日本公開2012年)の古い映画なのでが、ジム・シェリダン監督の興味深い映画であり、またこの映画、アマゾン・プライムでも見ることができる、つまり、この映画についての一般観客のコメントが豊富に蓄積されているので、いい意味でも悪い意味でも参考になる。もちろん、多くのコメントに対して私が違和感を覚えたことで、ここにコメントしたいと思ったということもあるが。
ただしネタバレあり。
ジム・シェリダン監督、出演ダニエル・クレイグ、レイチェル・ワイズ、ナオミ・ワッツらのサイコ・サスペンス・ミステリーともいうべき作品で、この映画の大きなポイントは、90分の映画の中盤に犯人がわかることである。というか、そこで最初の種明かしがされる。
しかし、この種明かし、最後にもってきてもよい、大きなどんでん返しなのだが、同時に、中盤での解決へもっていくために、さまざまなヒントがちりばめられていて、観客のなかにある種の期待あるいは予測が醸成されるのだが、それが中盤で的中するのである。
しかし、いうまでもなく、たとえばテレビの1時間の刑事ドラマで、開始30分後に捕まる犯人はほんとうの犯人ではない、真犯人はドラマの最後に捕まるのだから、という、ありきたりな英知は、この映画にもあてはまる。
つまり、この中盤で明かされる犯人は真犯人ではない。では、誰が犯人なのか。その余韻的疑問こそがこの映画の特徴ともなっている。中盤であかされる犯人は、無実ということになる。そして後半は、真犯人をめぐる謎解きということになる。
映画のあらすじは、出版社の編集者が、仕事を辞めて、作家業に専念すべく、別れるて暮らしていた家族のもとに戻り、そこで家族水入らずの幸福な、また夢のような生活をはじめるというのが最初の設定。ところが、新たに購入した家が、以前、悲惨な殺人事件の起こった事故物件の家であり、主人公の男性が家族と生活しはじめると、不思議なこと不気味なことが家や周辺で起こり始める。ここまでくると、ホラー映画の展開を予想する。
実際、この映画は夫婦と二人の幼い姉妹という4人家族なのだが、この家で過去に父親が家族全員を皆殺しにする事件が起こっている。映画のなかでは一瞬だが、キューブリックの映画『シャイニング』を思わせる画像がある(意図的に仕組まれたものだろう)。狂気の父親の一家惨殺事件。そんな事故物件で暮らすことになった家族――ここでかつて何が起こったのか、隣の謎めいた家族とはどういう関係にあるのか、殺害犯の父親はいまどこにいるのかを主人公は調べ始める。
ところが不思議なこともある。たとえば主人公の名前。字幕では「ウィル・エイテンテン」となっている、実際、耳で聞いても、そう聞こえる。「ウィル」はいいとしても、「エイテンテン」という珍奇な名前はあるのか。これは8-10-10(エイト・テン・テン)と数字を組み合わせた名前ではないか。数字の意味はわからないとしても、数字的な名前自体があやしい。
実はこれは日本語字幕のほうが、観客に疑惑をもたせることになった、あるいは字幕が図らずもネタバラシをしてしまっている一例なのだが、ウィル・エイテンテンは英語ではWill Atentonという。Atentonという名前も珍しいが、Eight-ten-tenと聞こえる名前に比べらたら違和感がすくない。これも含めて、主人公自身に疑惑の目がゆくように映画は展開する。
まさに『オイディプス王』である。主人公は、犯人が誰かつきとめる、あるいは犯人が何をしたのか、この事故物件の家で何があったのか究明するなかで、観客が徐々に予感しはじめること、映画の最後までひきずっていてもおかしくない設定があきらかになる。犯人を究明ようとしていた主人公は自分自身が犯人だったのである。
精神病院に収容された主人公は、自分が妻と娘を惨殺したという事実から目をそらすために、自分のなかに別人格をつくりはじめ、自分は事件とは関係のないという妄想に支配されはじめた。その主人公が、自分の家、かつての殺害現場にもどって、真実に直面するようになる……。
ここで終わってもよかったのだが、映画のこれが中盤なのである。
災厄の原因を追究しようとする国王が、原因は、先代の国王を殺した人間であることがわかり、その犯人を追及するうちに、自分がその犯人だったとわかるのが『オイディプス王』である。あるいは『オイディプス王』なら、映画のここでおわっているはずである。ところが、映画はつづく。つまり犯人とされた主人公は、実は犯人ではなかった、では誰が、何がおこったのか。その余韻こそがこの映画の特質となる。
アマゾン・プライムの映画なので、コメントも多い。そのなかで主人公が出会う妻というのは、彼の頭のなかの妄想なのか、幽霊なのか、わからないというか、両方がまざっているとう指摘があった。
たとえば最後の場面、主人公が真犯人に追い詰められ殺されそうになるとき、死んだ妻も、主人公にだけは目に見えるかたちで存在している。彼女は主人公にだけ見える妄想であるはずだが、窮地におちいった主人公をたすけるべく、犯人の注意をそらすような行動にでる(三谷幸喜監督『素敵な金縛り』で問題になったように、幽霊は現実世界に影響を及ぼすことができるのかどうか、たとえ及ぼすとしても影響は限定的であり、風というか空気のゆらぎくらいを引き起こすことしかできないということだった、それを髣髴とさせるかのように)、幽霊は、空気をゆらして、そよ風みたいなものを引き起こして金属に音を出させる――それくらいのことしかできないのだが、しかし、そもそも、幽霊ではなく妄想のなかの存在でしかなかったのでは?
また主人公にだけみえるので妄想だが、しかし幽霊でもある、あるいは幽霊が、主人公にだけ姿をみせるというのは、『ハムレット』の亡霊がそうである。さらにいうと幽霊については、映画や小説では、見える人と、見えない人がいることになっている(現実でもそうか?)。この映画では、主人公は幽霊が見えるのかもしれない――しかし、その幽霊は、主人公の妄想の産物でもあったので話がややこしくなる。
この映画は、幽霊の側に、見せる/見せないの主体性がない。そもそも主人公の妄想の住人である妻には、そのように主体的にうごけないし、妄想の存在であればこそ、現実の世界に、物理的な影響をおよぼせるはずはない。だが、この矛盾は、はたして映画のいい加減なところだろうか。
ちなみにもうひとつの興味深いコメントがあって、それは、最後に、燃えさかる自分の家から外に脱出した主人公が、消防隊員に助け起こされ、中には誰もいないかと問われ、誰もいないと答えるところに、主人公の精神の決定的な転機をみるというものだった。
主人公は、自分の家族が、とりわけ自分の妻が、家のなかにいるという妄想をずっと抱いている。しかし最後になって、真犯人がわかり、事件の全容があきらかになったとき、主人公も妄想から解放され、家の中には誰もいないと認めることになった。妄想か、幽霊か、わからないのだが、それが成仏できたのである。主人公も、罪の意識(たとえみずから手を下さなくても、家族を死なせてしまった)からくる妄想から解放されることになる。そんなふうに観客は解釈する。その意味で、印象的なやりとりであり、言葉である――中には誰もいない。
しかし観客は知っている、なかには真犯人と、その真犯人にやとわれた殺し屋がいること、を。彼ら二人は、猛火のなかで焼け死んだと思われるのだが、まだ生きているかもしれない。それにしても、焼け跡から二体の死体が発見されたら、どう説明するのか――もちろん知らなかったでとおすこともできるのだが。あるいは、もう死んでしまったにちがいなく、中には誰もいないと答えたのか。主人公の妻が亡霊か妄想かわからないという矛盾を指摘するのなら、真犯人と殺し屋が死んだかどうか主人公は目撃していないにもかかわらず、彼らがいなかったかのように答える主人公は、なにかおかしくないか――中には人がいたのか。
このように「なかには誰もいない」という言葉もそうだが、いろいろな台詞に、裏の意味が隠されている。それが中盤以降、明確になる。どのセリフにも、余韻がある、あるいは裏の意味がある、そのため、もはや懐疑を終わらせ、思考を停止する機会は失われてしまうのである。
映画の最後というかエピローグには不満があるというコメントが多い。主人公は、家族を殺した悪魔的殺人鬼ではなく被害者だったのだから、真相がわかり、無実であったと判明した時点で、せめて死んだ家族の墓参りくらいしたら、切なくも感銘深い終わりになったのではという類のコメントがあった。
実際の映画の終わりは、主人公が都会の街角を歩いていると書店の前で足をとめる。書店のショーウィンドーには『ドリームハウス』という本がベストセラーとして陳列されている。作者はピーター・バーグ(エイテンテンの本名である)で、ドキュメンタリーとか告白本ではなく、純然たる小説して売られている。
この終わり方への不満は、家族を失った主人公が、それをネタに小説を書いて儲けたことへの不快感でもあるかもしれない。また、それだけではなく、主人公の墓参りという、一定のクロージャーとは異なり、この終わり方は、余韻のくせが強すぎる。いろいろな解釈に開かれすぎている。
もっとも身もふたもないことをいえば、映画のそこまでの内容は、すべて主人公の経験でもなんでもなく、ただの面白おかしい作り話、フィクション、小説にすぎないのである。まあ、これは実事件を反映した映画でもないので、まさに映画そのものと一致する。
もう少し和解的な結末を考えれば、このように、おそらくみずからの経験をもとに小説を書いてベストセラーになったということは、映画『シャイニング』のジャック・ニコルソンのような狂気の父親として断罪された過去、冤罪の犠牲者となった過去を清算して、社会に復帰し、新しい人生をはじめることになったということだろう。それを簡潔に映像だけで表現した。また彼には、隣人の離婚した夫人(ナオミ・ワッツ)と第二の人生を送る可能性もでてきているわけだから。
主人公が隣家の女性と結婚するという第二の人生――その女性の娘とも仲がよさそうだった。ここまでの事件はすべて、隣の女性と再婚するために、主人公が仕組んだ完全犯罪ではないだろうか。彼はじゃまなものをすべて消去した。隣の女性の離婚した強権的な元夫、そして自分の妻と二人の娘。
あるいは最初から隣の女性はいなかったか、関係なかったのかもしれない。彼は理由もなく、自分の家族をほんとうに殺していたジャック・ニコルソンだったのかもしれない。しかし、自分を無実の人間とするために、真犯人と、その殺し屋をでっちあげたのかもしれない。燃えさかる自分の家のなかには、誰もいなかったというのは、一周回って真実だったのだ。彼は自分で放火した。妄想の妻もいなければ、真犯人も殺し屋も最初からいなかった……(実際、殺し屋は、空き家を管理している警察関係者でもあったし、帰りの列車に乗り合わせた乗客でもあった――たまたま見た人間から即興的に物語をでっちあげるというのは『ユージャル・サスぺクツ』の手法である。殺し屋は主人公のでっちあげなのかもしれない)。
そして妻が妄想なのか、幽霊なのか、どちらかわからないというか、あいまいなのは、すべてが彼のでっちあげだからである。事実、隣の女性との関係や、主人公自身の家族との関係の描き方が薄っぺらいというか、情報不足で、リアリティがないというコメントもアマゾンにはあったが、実は、それこそがこの映画がはらんでいる可能性のひとつだろう。つまり、すべてリアリティがない、主人公の妄想、自己弁護のためのでっちあげだったのかもしれないのだ。
そもそも主人公は『ドリームハウス』とタイトルをつけた創作ノートのようなものをもっていて、それに書き込みながら、家族と暮らしていた。あたかも彼の家族が、そのノートから生まれた妄想の存在であるかのように。あるいはそのノートは家族を殺害にいたらしめる彼の邪悪な妄想の掃きだめであるかのように。
事実、最後に燃え盛る家から彼は、そのノートを持ち出すのである。おそらくそれがもとになって小説『ドリームハウス』が出来上がったのだろうと推測できるが、同時に、そこには、人から見られてはまずい犯罪計画が書かれていたのかもしれない。
アマゾン・プライムのコメントには、主人公が最初、同僚に見送られつつ退社する出版社が、実は精神病院であったのだが、それが中盤になるまでわからなかった自分は歳をとったというようなコメントがあったが、実際、中盤になってはじめてわかるのだから、そんなものはわからなくて当たり前で、歳とは関係ない、むしろ、歳をとったからわからなかったと考えるほうが歳をとった証拠なのだ。
そして出版社が精神病院だったのなら、では、主人公が最後に小説を書いたのはどういうことだろう。もちろんどちらの場合でも、小説は書ける。作家だった主人公が精神病院を出てから小説を書いても、出版社勤務の編集者であった主人公が作家になって小説を書いたとしても。問題なのは、どちらでも可能だということは、決定不能なのである。
主人公が犯人か犯人ではないのか。すべて真実なのかでっち上げなのか。どこまでいっても余韻しか残らない。裏があるとしか思われない。しかも裏ではなく表と思われるものが、実は裏だったりするのだ。
最初、どこまでが現実で、どこまでが妄想だったのか、わからなくなる作り方をしていたのだが、いつしか、どこが終わりなのかもわからなくなってくる。
それはまたこの映画そのものにもあてはまる。コメントでは、なんとかの一つ覚えみたいに、主人公を演じたダニエル・クレイグが、この映画を機に、妻役だったレイチェル・ワイズと結婚したことが頻繁に触れられている。確かにそうだとしても、この映画には、さらに余韻がある。
というのも監督のジム・シェリダンは、映画製作会社モーガン・クリークとトラブっている。途中から映画の編集を制作会社が行なったため、監督は、映画のクレジットから自分の名前を外すように訴えたらしいし、またそれによって、監督、ダニエル・クレイグ、レイチェル・ワイズは、この映画のプロモーションにいっさい協力しなかったようだ。
ウィキペディアによると、製作費$50,000,000に対して興行収入$38,502,340と(2012年段階で)、この映画は、もとをとれていない失敗作である。もちろんその後、テレビの放映権とかDVD化などによって、もとは取れるのだろうけれど、有名監督とスター俳優を起用したわりにはヒットしなかったことは事実だろう――面白い映画であることは私の個人的見解だが保証するとしても。しかも出来上がった映画には、監督の以外の制作会社の手がはいってしまっていて、監督が意図した映像あるいは編集かどうかも疑わしい。私たちがみているのは、もっと長い映画の幽霊版みたいなものかもしれない(もちろん短くなって、余韻が出てきたのという可能性も否めないが)。
これで終わってはいないのだ、あるいは、どこで終わっていいのかわからない。いつまでたっても終わらない。それが、映画の内容と、映画そのものに呪いのようにとりついているかのようである。
