2020年10月04日

神田神保町での思い出

2020年10月3日(土)のテレビ東京『出没!アド街ック天国』で、東京の神田神保町を特集していたので、私もというのは、あまり理由はないが、ひとつのきっかけとして、個人的な思い出話を。

書泉グランテが、いまのように趣味の館と化す前の、各階を専門分野別に分けていた頃のことだが、グランテの一階の雑誌コーナーで展示してある新刊雑誌をぼんやりみていて、ふと眼をあげると雑誌のラックの向こうに、アイリス・マードックがいた。

アイリス・マードック!? マードックの作品は、大学の英語の授業で読んでいて、当時の私は、卒論で何を書くか決まっていなかったので、英文学のいろいろな分野の作品をつまみ食い的に読んでいた。授業で読んでいるマードックについても、いろいろ調べたというよりも、調べなくても情報が自然に入ってくるような文化状況に当時の日本はあった。翻訳がどんどん出され、また論じられたり、新刊が話題になったりした作家のひとりがマードックだったのだ。日本風にいうと「純文学」の作家だったが、小説は、とりわけロマネスクな作風のものが人気があって、よく読まれていたと記憶する。当然、顔も写真を通して、知っていた。そのマードックが、どうして神田神保町の書泉グランテの一階のフロアで、私の目の前にいるのか。

私の幻覚かもしれない、そのマードックは、同じくらいの年配の白人男性とともにいて、フロアのレジにいた店員に何か質問をしていて、その後、書店を出た。

私の幻覚なのか、人違いなのか、そもそも誰なのか、好奇心にかられて、私もあとをつけた。まるでストーカーのように。そのカップルは、御茶ノ水駅に行く坂を登って、明治大学の校舎に消えていった。

まさに狐につままれたような経験だったが、あとで調べたら、私の幻覚ではなかった。当時、マードックは、夫のジョン・ベイリーと来日していて、滞在中、明治大学で講演をしていた。夫妻は、書店で、明治大学への道筋を尋ねていたのかもしれない。

私は、大学学部生だった頃のこと記憶しているが、大学院生の頃かもしれない。1999年につくられた日本アイリス・マードック学会のホームページに以前あったマードック年譜で、来日した年を確認しようにも、ずっと準備中で、それも、いつのまにか消えてしまった。もっとも学会の活動は現在もつづいているようだが。

とまれ、私が目撃した頃には予想もできなかったことがあった。それは、彼女が,その後、認知症になったことであり、そのことが映画にもなったことだった。夫ジョン・ベイリーによる回顧録の映画化だった(『アイリス』)。

私とマードックの出会いは、その一瞬で終わった。実際、私はいまもマードックの熱心な読者ではない。だからマードックについて、なにか語ることはないのだが、ただ、彼女は、その評論での発言から明白なのだが、典型的なリベラル・ヒューマニストで、私が翻訳しているテリー・イーグルトンにとっては天敵みたいな存在である。個人的な因縁ではなくて、リベラル・ヒューマニズムそのものが中産階級のブルジョワイデオロギーだからである。

とはいえ実は個人的な因縁がないわけではない。イーグルトンはオックフォード大学の教授だったが、その前任者は制度的にジョン・ベイリーなのである。そして実際、前任者だったジョン・ベイリーのリベラル・ヒューマニズムを批判する論文をイーグルトンは書いている(『批評の政治学』(平凡社)所収)。この論文はベイリー教授批判というよりもリベラル・ヒューマニズム批判の古典的論文ともいえるのだが、リベラル、リベラリティという英語の訳語をどうするか、リベラルとカタカナで通すか、訳語を考案するかで、翻訳者は迷っているところがあって、それがときに意味をわかりにくくしているのだが、いまもなお文学研究の場を支配してるリベラル・ヒューマニズムへの透徹した眼差しから得るところは多い論文である。

ちなみにベイリーには海老根宏先生が訳された『トルストイと小説』(研究社出版 1973)という著作がある。英文科の教員で、ロシア文学に詳しいというのは、まさに古き良きオックスフォード大学の伝統を代表していたともいえる(オックスフォード大学のEnglish(英文学コース)では、昔は、ロシア文学も教えていた――いまはどうなっているのか知らないが)。

リベラル・ヒューマニズムというと、何が悪いのかと思われるかもしれない。リベラルで、ヒューマニズムのどこが悪いのか、と。しかしリベラル・ヒューマニズムは、いまでいうリベラルとは異なる。いまでいうリベラルを政治的であると批判するのがリベラル・ヒューマニズムなのだ【もっとも最近の日本では、この保守が中立の皮をかぶっているだけのリベラレル・ヒューマニズムを、左派のリベラルといっしょくたにして、抑圧しようとしているのだから、リベラル・ヒューマニズムにとっても受難の時代は始まっている】

マードックについても最近までイーグルトンはその著作で、折に触れて言及している――批判するために。しかし、それがまたマードック作品をよく読んでいることの証しともなっていて、案外、愛読者のひとりではないかと思わせるところがある――まあ、こういう和解的発想自体が、リベラル・ヒューマニズム的といって批判されるのかもしれないが。

posted by ohashi at 15:08| エッセイ | 更新情報をチェックする