2020年09月09日

ホモフォビアの効用

編集される映画、編集する映画 5 追記

先の4回連続の記事については、長すぎる、そもそも最後のヒッチコックの『ロープ』にたどり着く前に、空母プリンストンだの、レイテ沖海戦だのの話が長すぎて、読んでいる側は、そこで撃沈されて先にすすめない。早く『ロープ』まで行って欲しかったというお叱りの言葉をいただいた、というか間接的な批判の言葉だが。

その批判はあたっているが、最初は、映画『第七機動部隊』の話であって、最終段階で、『ロープ』について思いついた。そこで『ロープ』の話で締めくくることになった。落としどころが変わったので、ぎくしゃくした展開になったことはお詫びしなければならない。

あとヒッチコック映画あるいは『ロープ』に限って言えば、それがゲイにフレンドリーかというと、そういうことはない。ヒッチコック映画全体をみても、同性愛は、悪魔化されているのであって、同性愛映画というよりもホモフォビア映画であることは、ことわっておかねばならない。

ただし人種とか民族ヘイトと異なるのは、ホモフォビア(同性愛ヘイト)の場合、それはまぎれもなく差別でありフォビアでありヘイトなのだが、同性愛を認知しているという点で、同性愛を救出しているのである。

つまり歴史から隠されているHidden from History、同性愛の場合、同性愛あるいは同性愛者というのは無視されるか、オープンシークレット状態(カムフラージュ状態)になっているからである。

同性愛問題に対しては、客観的な認知、ヘイトによる認知、ヘイトによる完全無視の三つの対応があるが、ヘイトによる完全無視が圧倒的に多いがゆえに、たとえヘイトによるものであっても認知されることは、貴重な機会なのである。

たとえば英国作家Saki(ペンネーム、本名H.H.Munro 1870-1916)は、短編小説作家として有名だが、日本版ウィキペディアには、あるいは翻訳のあとがきや解説などでは、彼が同性愛者であったこと記載していない。もちろん重要人物の経歴や私生活のなかで、どこを記載するかはむつかしい問題かもしれない。しかし大坂なおみの場合、父親がハイチ系アメリカ人であることは、彼女がみずからを「黒人」としてアイデンティファイする重要な要因となっているために省略はできないのと同じように、サキが同性愛者であることは、その特異で独特な作風の要因かもしれない点で無視できないことである。サキが同性愛者であることは、妻とホットケーキを食べることが好きだという特異な、またどうでもいい、無視しても性向とは違うのである。

英語版Wikipediaにはこうある

Sexuality
Munro was homosexual at a time when in Britain sexual activity between men was a crime. The Cleveland Street scandal (1889), followed by the downfall of Oscar Wilde (1895), meant "that side of [Munro's] life had to be secret".


しかもSakiというのはペルシア語でいう酒酌み少年のことで、トロイの王子からゼウスにオリンポス山に拉致され、そこで酒酌みになった美少年ガニュメデスのペルシア版である。つまりSakiは自分が「うつけ坂49」だとカミングアウトしているのであるが、誰も認知しないという屈辱的仕打ちにあう。その屈辱の最たるものが、日本のクソ翻訳者とクソ出版者と、日本版クソウィキペディアから「同性愛者」ということの無視である。

【ちなみに今はどうなっているのか知らないが、英国ペンギン版の一巻本のサキ全集の表紙に使われていた写真をみるだけでいい。ギャニミードだと思わないほうがどうかしている。私のサキに対するイメージは、この写真で決定づけられた。】

ゲーテの『西東詩集』はゲーテ晩年の詩集で、絵に描いたようなオリエンタリズム全開となっている作品で、のちにマルクスが、インドにおける大英帝国植民地主義についてのエッセイを書いたとき最後に、この『西東詩集』から4行を引用したため、サイードから、インドの植民地問題を考えるのに、なぜ『西東詩集』に頼るのかと批判もされたのだが(この批判については考えるところがあり、いずれ記事にしたい)、とはいえ、サイードは、1999年にユダヤ系指揮者ダニエル・バレンボイムと設立したオーケストラにウェスト=イースタン・ディヴァン管弦楽団(West-Eastern Divan Orchestra)と命名するが、これは『西東詩集』(West-östlicher Divan)からとったもの【Divanというのはなぜ「詩集」なのかは、辞書で調べてください】。

この『西東詩集』には「酌童」書があり、「酌童」はサキ(Sake)と呼ばれている。そしてこの「酌童」との、同性愛・少年愛をうかがわせる詩篇もある(すべてではないが)。作家サキのペンネームはオマルカイヤームの『ルバイヤート』からとられているといわれているが、またサキがゲーテの『西東詩集』を読んだか知っていたかとは関係なく、「サキ」という語は、19世紀以降、ヨーロッパでは、ペルシアや「酌童」や少年愛/同性愛のイメージとともにあったことはまちがいない――たとえ知る人ぞ知るということであっても。

同性愛者であることを知らせると、恥ずかしい、破廉恥、不道徳、タブーに触れることになるのだろうか。同性愛者が書いた文学を翻訳するのは同性愛者でなくてはいけないという法則はない。また同性愛は嫌いだという人がいてもおかしくない。ただ、同性愛が嫌いだとか、同性愛者と誤解されるのはいやだとう思う者は、絶対に同性愛者が書いたものを翻訳すべきではないだろう。同性愛者にあこがれるのはいいが、同性愛者を軽蔑したり、恥ずかしいと思っている者は、絶対にサキの作品は翻訳すべきではない。
posted by ohashi at 20:11| エッセイ | 更新情報をチェックする