いま経験したことのない大きな台風10号が、沖縄から九州地方に接近中だが、その大きさは1959年の伊勢湾台風に匹敵するか、優にそれ以上だという紹介がテレビでなされていた。
当時、日本を大きく震撼させ、また大きな傷跡を残した伊勢湾台風は、私にとっても思い出の台風であり、その恐ろしさはいまも記憶に残っている。
私の母は山口県防府市(海岸沿いの中浦漁港の近くで、母の実家は農家)だった。以前、広島大学で集中講義を担当したとき、たまたま院生に、私の母は山口県防府市の出身だという話をすることがあったのだが、それを聞いた院生は、ああ、コンクリートで有名なところですねという答えを返してきた。それは山口県宇部市のことじゃん。まあ、誰もが隣県だからといって、その県について詳しいわけではない。むしろ詳しくないことのほうが多いだろう。
また以前、福岡市に行ったとき、福岡のテレビでは、山口県の天気予報も伝えていた。え、それって関東の天気予報に、福島県とか新潟県あるいは長野県の天気予報を加えるようなものでしょう。どうして山口県の天気予報を、福岡でもしているのかと不思議に思ったが、まあ、存在感がないというか、山口県、完全に福岡、あるいは九州の一部と思われているのではないだろうか。
【山口県防府市は、高樹のぶ子の自伝的小説『マイマイ新子』を原作とする長編アニメ映画『マイマイ新子と千年の魔法』(2009年)の舞台。ただし防府市の北部が中心の物語で、母が生まれた南部(現在、航空自衛隊の基地がある地域)ではない。『マイマイ新子と千年の魔法』の監督は片渕須直、いうまでもなく『この世界の片隅に』(2016年)の監督だが、『この世界の片隅に』は広島の呉が舞台だが、瀬戸内海の海沿い町や集落は、母の実家のある中浦港周辺を髣髴とさせるものがあった。】
それはともかく、母は、サラリーマンの夫と結婚して名古屋市で暮らすことになるとわかった瞬間、名古屋という大都会での生活を思うと、知らず知らずのうちに笑みがこぼれるのを自分でも強く感じたと言っていた。だが、その笑みも、実際に名古屋での生活がはじまると、凍りつくしかなかった。なぜなら、結婚当初、暮らしていた名古屋市南区の一角は、名古屋市の郊外ではなく、名古屋市中でありながら、見渡す限り、360度、田んぼが広がっていた。名古屋市でありながら、山口県の瀬戸内の中浦漁港近辺,、この世界の小さな片隅よりも、もっと田舎だとは、なんとう運命のいたずらか。田舎から都会にやってきたはずが、田舎からもっと田舎に移住することになるとは。
結婚初日から、母の目標は、一日も早く、引っ越すことだった。借家住まいであったこともある。子供が生まれてからは、その思いは、いっそう強くなり、子供(私のことだが)が小学校入学前に、持ち家を購入し南区から昭和区にひっこすことができた。
いまなら、結婚して5年以内に一戸建ての持ち家を購入するのは(ローンを組むとはいえ)、かなりむつかしい。まあ私の父親に貯金があったのかもしれないが、母によれば、貯金などなく、結婚前は、給料は全額、その月に使い果たしているということだった。したがって母が必死の思いで貯金をしたことと、当時は、土地とか家屋が安かったということもあったのだろう、私が小学校に入学する前に、引っ越すことになった。
昔話と伊勢湾台風がどういう関係にあるのかと不思議に思われるかもしれないが、実は、私の家族が引っ越してから数年後、伊勢湾台風がやってきた。そして引っ越す前に私たちが暮らしていた名古屋市の南区の一角は、伊勢湾台風でほぼ全滅したのである。
以前、何の用件だったが忘れたが、以前暮らしていた名古屋市南区の近くに母といっしょに行くことがあったので、せっかくだから、あるいは面白そうだから、子供のころ暮らしていた家が残っているかどうかみにいくことにした。JRの線路、小さな神社、かかりつけの医師の家など、限られた場所を手掛かりに(私はあまり覚えていなかったが、母は当然、よく覚えていたので)、住んでいた家を探したが、近くに流れていた小川は、あとかたもなく、どこに住んでいたか正確につきとめることもできなくなっていた。
推測で、私が子供のころ暮らしていたのは、いまでは小学校の校庭の一角らしいということがわかった。もちろん周囲の風景もまったく様変わりしていたのだが、それは時とともに変化したというよりも、伊勢湾台風による浸水被害によって地形がかわったのである。
もし引っ越さずにその地で暮らしていたら、水害で、住む家を失っていたばかりではなく、命をも失っていた可能性が高く(おまえなんか台風で死ねばよかったという声も聞こえるのだが、それは無視することにして)、多くの犠牲者たちに対して、私は親近感をいまもおぼえている。私と同年代の子供たちが多く犠牲になったこともあり、別に悪いことをしたわけではないが、私だけが助かったというほど大げさなものでもないのだが、しかし罪の意識のようなものをどうしても感じるのである。
ちなみに引っ越し先で迎えた伊勢湾台風は、水害こそないものの、それは恐ろしいものであった。というのも、当時は、雨戸のある家に暮らしていたのだが、雨戸を閉めていても、風が吹き込んできて、ガラス戸が、たわむのである。
ガラスがたわむ? そう、夜、家のなかは電気をつけていて、閉めた雨戸のこちら側のガラス戸を、室内からみていると、鏡効果でガラス戸にうつる電球とか人の姿がゆがむのである。ガラスがたわんでいるのだ。
私は、このことを鮮明に覚えているが、しかし、ガラスがたわむというのは信じられないので、夢でもみているのか、偽りの記憶だろうと思っていたが、実際に、ガラスがたわむことはありうるということを知って、夢ではなかったとあらためて思い知ったのである。
たしかにその時両親から、ガラスに手を触れたら割れるから、絶対に手を触れずに、窓枠だけを押さえるようにといわれたことを覚えている。そしてもし雨戸が吹きとばされ、窓が割られたら、すぐに反対側の窓なり戸口を開け放って、風の通り道をつくらないと、入ってきた風が、家のなかで閉じ込められ暴れて、屋根が吹き飛ばされるとか、家具などがめちゃくちゃになるからと言われた。そして風の通り道を考えると、もし南側のガラス戸が壊れたら、北の玄関のドアを開け放つということを確認したことまで覚えている。幸い、そこまでのことにはならなかったのだが。
【窓ガラスは、しなったり、たわんだりすることは、事実としてある。強い台風を経験したことのある地域では、これはよくあることのようだ。私自身は、子供のころ、経験しただけで、いまにいたるまで、ガラスのたわみは経験していない。ただし、今後どうなるかはわからないが。ガラスのたわみやしなりは、確かに、みていて、いまにも割れそうでこわいのだが、窓ガラスは、風圧では割れなくて、何か物が飛んできてぶつかって割れるとのこと。】
幸い窓ガラスがしなるような大きな台風は、伊勢湾台風以外には一度か二度くらい経験しように記憶しているが、すべて子供のころの話で、それ以後、今日に至るまで。そこまでの強風は経験していない。
ちなみに伊勢湾台風が去った翌朝、父親といっしょに近所を散歩して被害をみてまわった。家屋が壊れたりしているところはないので、人の不幸をみて喜ぶというような気持ちはまったくなく、ただ電柱でも倒れていないかと散歩がてらみてまわったにすぎない。台風一過の空は晴れ渡り、空気も澄みきって快適だったことも散歩に出かけた理由のひとつだった。そして、当時は、まだ市街電車が走っていた大通りに出て驚いた。銀杏の街路樹が、目につくかぎりなぎ倒されていたのである。太い幹が折れた街路樹の前に、父親といっしょにしばしたたずんでいたことを記憶している。
その後の人生で、こうした大きな台風を経験することがなくて、正直いってほっとしていた。台風が来るとしても、そんなに怖いとも思わなくなった。気候が変動していることはわかったが、むしろ気候変動によって台風は大型化しないようになったのかと、勝手に思い込んでいた。
完全な勝手な思い込みで、むしろ、気候変動によって、台風は大型化しているのが、近年の傾向である。台風の悪夢は子供のころに終わりを告げたと思っていたが、いままた、子供のころの悪夢が蘇ってくる。不運は一度目はやりすごせても、二度目はないだろうとしたら、なんとも皮肉な人生である。