2020年08月28日

「悲劇の未来について」

翻訳の闇

アルベール・カミュのこのエッセイは、英米圏では、よく参照されることが多くて、それを読んでみたいというというか、それを参照する必要にせまられて、昨年から、その日本語訳を探していた。

とはいえ、かつて出版されていた翻訳全集はいまでは絶版だし、図書館で閲覧するしかないのかもしれないが、この時期、図書館に行くのは恐いというか、そもそも館内閲覧できなくなっている公共の図書館は多い。

ところが実は、そのエッセイが未訳であることを知ったのは、昨年、二〇一九年一一月号の『悲劇喜劇』にその翻訳が日本初訳として掲載されたからである。

アルベール・カミュ「悲劇の未来について(一九五五年四月二九日、ギリシャ・アテネでカミュが行なった講演)」東浦弘樹訳、『悲劇喜劇』No.801(二〇一九年十一月号)pp.42-51.


翻訳そのものはりっぱな、そしてわかりやすい翻訳で、問題ではなく、またはじめてエッセイではなく講演であることを知ったのだが、問題は翻訳ではなく、原典の講演記録そのものにあった。

カミュは、後半、いろいろな作品から引用して、その箇所を朗読するのだが、日本語訳では、ただ、「(朗読)」と印刷していあるだけで、どこが引用されたのか、まったくわからない。最後もカミュはクローデルの作品からの引用で締めくくるのだが、

……ここでは我々は二つの言語が互いを変容しあい、風変わりで威厳のある唯一の言葉を作り上げています。
(朗読)


これで終わり。え、朗読で終わり。どうしたのか、最初、なにかのミスかと思ったが、他の朗読の部分も、中身が示されていない。

これはなんなのだと、いらいらがつのり、とりあえず、英語圏でよく読まれているカミュのエッセイ集の英語訳を購入することにした。Kindleで880円くらいで購入。

Albert Camus, Lyrical and Critical Essays, Edited Philip Thody, Translated by Ellen Conroy Kennedy, (New York: Vintage Book, 1968).


このなかに‘On the Future of Tragedy’が収録されている。

ちなみにこの英語訳エッセイ集、いわゆる『表と裏』とか『結婚』とか『夏』といったエッセイ集(私が『異邦人』めあてで購入した新潮世界文学の第一回配本のなかに入っていたエッセイ集でもあって、高校生の私にはよくわからなかったが、ただ、なんとなく気色悪いエッセイ集だという個人的感想をもった。『異邦人』は、もっとわからない本だったが、ものすごく面白かったことは記憶にある。『異邦人』は、のちにフランス語でも読んだ――まあ短い本だし)のほかに、メルヴィルとかフォークナーについての批評文もあって、英米文学研究者や愛好家には、けっこううれしい本でもある。

さて、この英語訳エッセイ集で確認したが、英語訳でも最後は [reads]で終わっている。ただし、英語訳では編者が注をつけていて、最初の朗読がはじまるところで、「残念ながら、フランス語の原典は、カミュが講演中にどの部分を朗読したのか示していない」と書いてある。

そういうことか、もともとのカミュの講演録にも、朗読した箇所は記載されていないのか。まあ、しかなたいかという思いと、だったらそう注記しておけよ、この日本語のバカ翻訳者がと心の中で思った――あくまでも心の中での思い、瞬間的な理不尽な怒りであって、公の発言ではないし、公の場で、私はそういう発現は絶対にしないので誤解のないように。

まあ、しかし**は英語の翻訳者もそうであって、カミュは、シェイクスピアから出典を明示することなく引用しているのだが、日本語翻訳者は、それを『アントニーとクレオパトラ』の第五幕第二場冒頭のクレオパトラの台詞であり、カミュは原文とは少し違った表現にしていると注をつけている。もとの原典となったものに、そのような注があったのか、あるいは翻訳者自身が発見したのかわからないが、りっぱな訳注である。

英語訳と比べると。英語訳者は、これをシェイクスピアからの引用とは気づかなかったようだ(正直、私も、これが『アントニーとクレオパトラ』からの引用とは気づかなかった)、そのため英語訳はこうなっている。

A higher fife is born of my despair.

fife? たぶんこれは電子化するときのミスでlifeなのだろう。それにしてもfifeとは、なんちゅうまちがいだ。『マクベス』かと,突っ込みも入れたくなるのだが、シェイクスピアの『アントニーとクレオパトラ』の原文はこうである――

My desolation does begin to make
A better life.

なるほど、この原文をカミュはまちがって記憶してフランス語にした、あるいはカミュが参照したフランス語訳がまちがっていたか、そのフランス語訳をカミュはまちがって記憶したか、そのカミュのフランス語を、英語訳者は、シェイクスピアからの引用とは気づかずに、カミュの原文に忠実に翻訳したということなのだろう。伝言ゲームみたいなのだが、シェイクスピアの原文をフランス語にし、そのフランス語をさらに英語訳しても、もとにはもどらないということがわかる。

ただ、英語訳は、この部分、日本語の翻訳のように訳注をつけておくべきで、シェイクスピアの引用であることも気づかなかったのは失態で、日本語訳のほうが優れている。

あとは、聞くに堪えない読むに堪えない悪口を。

この『悲劇喜劇』のアルベール・カミュの特集号、白井健三郎先生の『正義の人びと』をまるまる再録しているのだが、それは初訳ではなく、実際、新潮世界文学のカミュIIに収録されたものであって、私は、そちらのほうですでに読んだ。「悲劇の未来について」という初訳作品を掲載してもらうのは、とてもありがたいが、この再録は、けっこうなページをとっていて、ページ稼ぎだろう。まあ、カミュ特集に書いてくれるひとがいなかったということだろうが。なさけない。

「悲劇の未来について」には、人名、劇作家に訳注がついていて、それはそれで読者にはありがたいものだと思うが、ありがためいわくのところもある。

エウリピデスの説明で、「代表作に『メディア』、『アンドロマケ』などがある。」となっているが、こまかいことだが、『メデイア』だろうし、この二作が代表作というのは、好みの問題もあろうが、すこし変。せめて『バッコスの信女(バッカイ)』か『トロイアの女たち』のどちからひとつくらいは入れておくべきだろう。

ローペ・デ・ベガは、フランス語読み、英語読みすれば「ヴェガ」となるものの、スペイン語読みでは「ベガ」もしくは「ベーガ」。「セルバンテス」を「セルヴァンテス」とは表記しない。

クライストについて、「代表作に『シュロッフェンシュタイン家』、『こわれ甕』などがある」とあるが、『こわれ甕』は有名だから代表作といっていいが、『シュロフェンシュタイン家』?恥ずかしながら、私は、この悲劇を聞いたこともなければ、読んだこともなかった。私に恥をかかせやがってといいたいところだが、恥ずかしいのはお前だ。よくもまあ、『シュロッフェンシュタイン家』を選んだものだ。クライストといえば、この『シュロッフェンシュタイン家』ではなくて、私の好きな『ペンテジレーア』とか、あるいは『ホンブルク公子』だろう。クライストの『シュロッフェンシュタイン家』は、若書きの作品で、のちにクライストは『シュロッフェンシュタイン家』だけは駄作なので読んでくれるなといっていたらしい。それをまあ、代表作に『シュロッフェンシュタイン家』とは、クライストが生前あるいは死後、受けたいろいろな屈辱のなかで、これは最たるものだろう。また、好きだから選んだといういいわけは通用しない。『シュロッフェンシュタイン家』が代表作というのは、一般読者にとっては誤情報そのものであるから。

かくして私と、この翻訳者と『悲劇喜劇』との社会的文化的距離はマックスになると思うが(憎まれるだろうから)、まあ、たがいに、それでなんの損失もないので平気である。

(おわり)

posted by ohashi at 05:47| 翻訳論 | 更新情報をチェックする