帰省者と帰省警察
少し前だが、青森県でお盆のある帰省者が、帰ってくるなと非難する匿名の批判文を家のドアに張り出されたということが報道された。それに類する帰省警察の活動もあって社会問題化したことも報道されていた。
張り紙をだされたこの男性は、実は、帰省前に自費でPCR検査を二度もおこなって陰性であることを確認したうえで帰省しているのであって、そこまでして帰省する、良心的な、理想的ともいえる帰省者は、そうざらにはいない。
そもそも警察の取り締まり以上のことをする岡っ引き体質というか岡っ引き行為、戦時中の隣組的監視には、ただただ不快感しか感じないのだが、さらに問題なのは、帰省者が誰であろうが、たとえばPCR検査をうけて陰性であることを確認したうえでの帰省しようが、自分が感染していることも知らずに帰省して感染をひろげる無神経かつ不用意な帰省者であろうが、関係なく、一律に批判するというのは、イスラム教徒なら誰でもテロリストだととか、ユダヤ人はみんな呪われた民族だとか、捕虜虐待をする日本軍だから民間人もみんな悪魔の種族で原爆で大量虐殺してもかまわないというような発想と同じで、まさに道徳ファシズムに感染している行為としか思えない。
地方は、新型コロナウィルスに感染する前に、道徳ファシズムに感染しているのだ。
もちろん、その誹謗文書を貼り付けた人間が、事情を知って、少なくともその相手は非難されるべき人間ではないということがわかったとき、謝罪したのだろうか。その後の報道がないのでなんとも言えないのだが、もし名乗り出て謝罪したのなら、その人物は、過ちを帳消しにするような、たんなる道徳ファシストではない正義の人だと尊敬にすら値する人物とみることができる。もし何の謝罪もなかったのなら、偉そうに非難することだけが楽しみの、クソ人間でしかない。
ここで私が勝手に思い出すのは、映画『愚行録』(監督:石川慶、脚本:向井康介、原作:貫井徳郎『愚行録』、2017年)の冒頭の場面。
路線バスの車内(ちなみにこの路線バスの車内は、あとで心象風景的にも使われるのだが)で、 空席がなくやや混雑しているところ、高齢の婦人を立たせたまま席に座っている青年に対して、中年のサラリーマン風の男が、老人を立たせて若いのに座っているのはけしからん、席を譲れと高圧的に銘ずる。
その青年(妻夫木聡が演じているのだが)は、無表情のまま席をたって老女に席を譲るのだが、立ち上がった青年は、脚をひきずっている。脚が悪く、揺れる車内で立っているのがやっとの状態で、すぐに転倒してしまう。苦労して立ち上がった青年は、次のバス停で脚をひきずりながら降りる。
ほんとうにそのバス停で降りるつもりだったのか、座ることができないバスに乗り続けることができないと判断して降りたのか、あるいは車中の無理解と冷たさに絶望して目的地でないところで降りたのか、それはわからない。ちなみに彼に席を譲れと命じた男は、私たちがバス停から車中をみると、バツの悪そうな顔して青年から目を背けて、そのまま乗り続けるのだった。
若いのだから年寄りに席を譲れという命令は、言い方にもよるが、わからないわけではない。ただしい社会道徳を主張している。その男は、ある意味、高潔な人間である。
しかし、その青年が老人を立たせて座り続ける無神経な若者ではなく、立ち続けるのが困難な脚が悪い人間だとわかった瞬間、席を譲れと命じた男の本性があらわになる。
その男は自分の過ちを認めない。その青年に、悪かったなと謝ることは簡単にできるのに、あやまらずに知らん顔しつづけるのだ。結局、社会道徳を尊重し遠慮なく不正をただす高潔な人間とはうわべだけで、一皮むけば、ただいばりたいだけのクソ野郎だということがわかる。
実際、青森の帰省警察人間も、おそらく謝っていはいないだろう。張り紙をしたのは本人しか知らないのだから、知らぬ存ぜぬを決め込んで、何事もなかったように過ごす卑劣感なのだと思う(とはいえ、そう決めつけている私も、ちがっていたら、卑劣感の汚名を着させられそうなので、違っていたら謝るが)、
この映画のなかで脚の悪い青年は、偉そうに席をゆずれと命ずる人間の下劣な品性を白日のもとにさらけ出したということもあって、かなり爽快な場面でもあった。
もちろん、私は映画のことを誤って記憶しているのではない。
この場面には続きがあって、バス停で降りた妻夫木は、車中では脚をひきずっていたのだが、降りてバスが発車し去っていたら、ふつうに歩き出すのである。脚など悪くない。演技だったのだ。となるとこの青年、老人がそばに立っていても知らんふりして座り続け、席を譲れと言われて、脚が悪いふりをして、ころんだりして、その命じた男に恥をかかせた、相当のワルである。
実際、この妻夫木演ずるジャーナリストの男の冒頭のこの行動が、その後の彼の行動の意味を暗示しているのだが、それはともかく、誤爆ということは誰にでもある。だが、ほんとうの誤爆は別にして、過ちを認めることで、取り返しのつく誤爆も多い。
実は人に注意することは勇気のいることである。タイミングとか語り口とか言葉の選択など、経験を積まないと逆効果になるし、また勇気の必要な偉業でもある。しかし、誤った注意のしかたをした場合、つまりパフォーマンスとして成功しても、内容がまちがっていたら、同じ勇気をもって訂正し謝罪すべきである。その勇気の方がほんとうの勇気だろう。
映画のなかで妻夫木演ずる青年も、たとえ演技で相手を瞞しているとしても、相手が真剣にあやまってきたら、結局、恥じ入るのは、青年のほうである。そうでなければ、偽善家の道徳ファシストと、その正体を暴く、冷酷な詐欺師のばかしあいみたいなもので、意味がないのだから。
つづく