2020年08月03日

米語訳

ジャック・デリダの本は、難解だが、同時に、英文学研究者あるいは英文学ファンにとっても貴重な霊感源にいまもなっているのは、脱構築という批評方法のためばかりではなく、有名な英文学作品を丁寧に読解してくれるからである。晩年の『動物と主権者』における『ロビンソン・クルーソー』の議論がそうだし、『マルクスの亡霊たち』では、『ハムレット』の亡霊についての議論がある。

残念ながら、デリダの『ハムレット』読解を、自分の研究に活かしてはいないのだが、できれば将来活かしたいとも思っている。そのデリダの日本語訳『マルクスの亡霊たち』をぱらぱらとめくっていたら、変なことに気づいた。

最初に誤解のないよう述べておけば、べつに翻訳に問題があるというようなことではまったくない。この難物を単独訳として上梓したことの意義は大きいし、まちがいなく、これからも読み継がれるりっぱな翻訳だと思う。この点に、なんら問題はない。

ただ訳者解説で関連図書を紹介する際、
Jacques Derrida, Specters of Marx, tr. Peggy Kamuf, Introduction by Bernd Magnus&Stephen Cullengberg, New York, London, Routledge, 1994.【訳者解説での表記のまま】について、デリダの原書のあとに出版された本として

翌年、本書の米語訳が刊行されている。


とある。「米語訳」? 米語? 訳?

私はこの「米語訳」をもっているのだが、どこにあるのか見出せていないので、なぜ英訳あるいは英語訳ではなくて米語訳なのか、確かめることはできないのだが、たとえ、それを手にしても、どこが米語訳なのかの確証を、私は得られないと思うので、あってもなくても、かまわない。

また「米語訳」というのが、日本語翻訳者本人の強い主張であっても、翻訳者本人を含むサークルや学閥における慣用表現であっても、出版元の藤原書店の正式な慣用であっても、それはおかしい、エキセントリックすぎる、やめたほうがいいと、私は強く主張したい。
【ちなみに2007年出版の翻訳書なので、いまではすたれた慣習であることは当然予想できる。】

たしかにアメリカ英語、アメリカン・イングリッシュという表現もあるし、ブリティシュ・イングリシュという言い方はある。

またデリダの本の「米語訳」は、タイトルが Specters of Marxとなっている。Specterは、ブリティシュ英語ではSpectreとなるので(これはTheaterとTheatreの違いと同じ)、アメリカ式の綴りがタイトルにも取り入れられていること、訳者のPeggy Kamufが(詳しい出自は知らないが)、アメリカの大学の教員でもあるから、それで米語訳としたのだろうか。

しかし、たとえば関西方言で何かを翻訳したという場合でも(そういう試みは現実にあるが)、それは日本語訳と呼ばれる。あるいは東京近辺で生まれ育ったり暮らしている人たちには理解できないような特定の地方の方言で翻訳された本があっても、それは日本語訳と呼ばれる。

また日本の英語教育では、基本が、アメリカ英語である。その証拠に、SpecterやTheaterは、SpectreとかTheatreと書くようには教えられていない。だとすれば、日本の英語教育という表記はまちがっていることになる。正しくは米語教育とすべきである。さらにパラドキシカルな言い方をすれば世界中で使われている英語は、たぶん、過半数が米語である。ではもう英語という表記はやめて米語にしたらどうか。

まあ、そんなアホなということになるのだが。

日本での英語教育は米語が基本だが、しかし、こてこてのアメリカ英語を教えているわけではない。実際、テレビやラジオの英会話関連の番組では、そんな英語、アメリカ人にしか通用しないぞと思われるような表現を教えたりすることもあるが、基本は英語の会話でよくて、米会話としなくてもいいだろう。

またもし日常的に関西弁しか話さない人が、外国語の本、それも哲学思想書のようなノンフィクションを翻訳するときに、その翻訳の日本語がコテコテの関西方言になることはない。

同じく、いくらデリダの翻訳者がコテコテのアメリカ英語しか話さないとしても、その「米語訳」の翻訳が、イギリス人が読んだら頭を抱え吐き気を催すくらいのコテコテの米語だということはないだろう。【現実問題としてアメリカの大学の教員が書く英語はアメリカ臭のないニュートラルな英語であるのがふつうであって、「米語で訳している」といわれたら、たぶん本人は憤慨するだろう。】

さらにいえば、もし翻訳者がオーストラリア出身のオーストラリア人で、出版社もオーストラリアの出版社だったら、どうせオーストラリア英語で書かれているのだろうからということで、「豪語訳」というのだろうか(まあ、いわないで欲しいのだが)。

さらにさらにいえば、もし翻訳者がカナダ人で出版社もカナダの出版社だったら、どうせカナダ人のなまった英語で書かれているのだろうから「加語訳」とでもいうのだろうか。絶対にそんなことはない。加語あるいはカナダ語というのは存在しない。なぜならいうまでもなくカナダでは公用語が英語とフランス語だから、「加語」では、どちらかわからない。

一つの国でふたつの公用語があったり、ひとつの言語を、複数の国が公用語としているという現実は、一国一言語ということしか念頭にない日本人にはわかりづらいのかもしれない。

私は「米語訳」とは絶対に言わないし、その関連で言えば「和訳」とか「邦訳」とも基本的にいわない。

まあ「和訳」というのは嫌いな表現で、受験勉強における「英文和訳」という使い方のみにとどめておいて、どうかその枠からはみ出してほしくないと思うし、「邦訳」というのは、慣習的に使っているで消滅させることはむつかしいが、私は「日本語に翻訳」しているのであって、そこに「日本国」という意識はない。日本人でなくとも、日本語を理解し、話す人びとは多いのであって(たとえ英語ほどではないにしても)、言語と国との一体感と癒着ほど気味の悪いものはないと思っている。

posted by ohashi at 22:54| 翻訳論 | 更新情報をチェックする