2020年08月01日

文学と感染症 1 

英国演劇篇

この新型コロナ感染症の蔓延によって、社会と文化の構造が大きくかわることが、まだ、そのただ中にありながら、確実視されているのだが、それにともない私たちの文学の見た方もまたかわりつつある。

実際、感染症(ペストなどの疫病)は、そこにあっても、これまでは全く認識されなかったといっていい。初期近代英国の演劇--要はシェイクスピアの演劇の時代――において、たとえばベン・ジョンソンの『錬金術師』という喜劇作品は、ペストでロンドンの市民が田舎に疎開しているあいだ、金持ちの家の留守をあずかる召使い階層の人間たちが、錬金術師をかたって、疎開できない庶民たちを詐欺にかけるという芝居だが、そのようにペスト禍を舞台設定にしなくとも、実は、ペストはシェイクスピアの有名な作品にもあった。

放送大学(ラジオ)の非常勤講師をしているのだが、その仕事には、たんにラジオ授業での録音をするだけでなく、受講生の課題の添削などもふくまれるのだが、受講生のなかに、作品におけるペストの存在を指摘する課題レポートがいくつもあった。『ロミオとジュリエット』についてである。

ジュリエットが仮死状態になる薬を密かに飲んで埋葬される。ロレンス修道士は、ヴェローナから追放されたロミオのもとに使者をつかわし、ロミオとジュリエットが再会できるよう手はずをととのえるのだが、使者が途中で足止めをくらい、ロミオのもとにたどり着けない。そのいっぽうでロミオの家の召使いがロミオにジュリエットの死を伝えるべくやってくる。ジュリエットの死を知ったロミオは……。

というとき、ロミオへのロレンス修道士の使者を止めたのは、ペストの蔓延だった。ペストによるロックダウンと、外出自粛。そして使者が修道士でもあったので重症者の世話を求められた。こうして情報の行き違いから、喜劇的ハッピーエンドになるはずの芝居が悲劇的結末をむかえることになる。

多くのあらすじは、このペストの影響を、書き割り的な、うすっぺらな設定として言及すらしていない。かくいう、私も、放送大学のテキストで担当した『ロミオとジュリエット』の章では、あらすじを紹介する際に、ペストについては、なにも触れていない(執筆時は2028年)。

しかし、今の私たちは、若い恋人たちの悲劇に影をおとしているペストの存在を見過ごしたり、省略したりはしないだろう。
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posted by ohashi at 19:54| 文学と感染症 | 更新情報をチェックする