比較的コンパクトな本だが、それは外見だけで、中身は、250ページあまりの本の後半は2段組となっていて、分量的にも思いのほか多いし、もちろん内容は、コンパクトな入門書ということだが、これも思いのほか重厚で、なおかつ入門書として必要な文献を多く紹介しているし、資料的価値も高い。読みやすさと情報量の多さをねらった入門書として21世紀における現時点で最高の本といっても過言ではない。べつに不必要なお世辞でもなければ、褒め殺しでもなんでもない。手に取って数ページ読んだだけでも誰もが思い抱く評価だと思う。
本書でも紹介されている『現代批評理論のすべて』大橋洋一編(新書館2006)は、この種の入門書としてはいまなお有効な本だと自負しているが、本書『文学理論』は、これを凌駕している、まさに21世紀版ともいえるだろう。ただし、『現代批評理論のすべて』が、いまなお有効であることについては、このあとすぐに述べるが、たとえば『文学理論』における後半トピック編では
第6章ネーション/帝国/グローバル化と文学
第7章ポストヒューマン/ニズム
第8章環境と文学
第9章精神分析と文学
第10章ジェンダー・セクシュアリティと文学
において、第7章と第8章は、まさに今ならではの内容で、これは『現代批評理論のすべて』を編集していた頃には、なかった主題というかアプローチでもあり、この二つの章だけでも、読むに値する。
では第6章と第9章と第10章は、これまでのトピックと同じかというと、題目は同じだが、これらもまさに現在の視点から書かれていて、入門者を過去の時点に置き去りにするのではなく、しっかり現在へと導いてくれる。そういう意味で、後半のトピック編も、前半の基礎講義編も、どれも入門したあとの出門も考えられていて、そこはただ教科書的な記述で終わっているものではない。
また資料編として「Book Guide――文学理論の入門書ガイド」は、まさにこれまでの入門書を、的確なコメント付きで網羅的に紹介しており、さらなる読書案内と同時に、これまでこんなに文学理論関係の入門書が書かれたのかと(私も、それにささやかながら貢献しているのだが)一望でき、記録的価値も高い。すくなくとも、興味がある読者は、これまで、こんなに出ているのだということで感銘を受けてほしいと思う。またそれぞれの入門書については、どれも、特徴とその良さを指摘していて、執筆者の個人的評価を押さえているのは、きわめて好感がもてる。
そしてこの入門書ガイド編の前に「世界の文学(裏)道案内」が欧米系の翻訳文学のみならず、というかそれ以上にいわゆる「第三世界」(こういう表記はもう消滅しているのかもしれないが)の翻訳文学が読めるシリーズなどを紹介してくれて、資料的価値はきわめて高い。
さらに、この二つの資料編(「文学入門書案内」「世界の文学(裏)道案内」)は、『現代批評理論のすべて』にはない、望めないもので価値が高いのだが、それは『現代批評理論』の時代には、まだ紹介できる入門書がほんとうに限れられていたし、また世界文学の意識がなかったこともあげられる。むしろ批評理論において、たとえばポストコロニアル理論などが活発に論じされていたにもかかわらず、世界文学との遭遇が十分ではなかなかったことが悔やまれる。また世界文学と文学批評理論の有意義な遭遇として、東京大学文学部に「現代文芸論」専修課程・専門分野が誕生したことは、まさに時代の趨勢を反映しつつ、時代を先導するものであったと感銘深いのであるが。
ただし『現代批評理論のすべて』が時代遅れになったとは思わない。『現代批評理論のすべて』は、語られていない話題や問題はあるとしても、語られていることのなかに不要になったものはひとつもない。そしてまた執筆者が、当時は、まだ無名の若い執筆者であったのだが、いまや誰もが有名人になってしまって、いまなら、これだけのメンバーを集めて、本をつくることは不可能である。実際、再版の際に、執筆者の今現在の肩書きを入れようとして、完全を期するのがむつかしいこと、過ちがあったら大きな問題になることから、初版のときのままである。はじめて『現代批評理論』を手にとる人は、若い講師や助教授が多いと思うかもしれないが、彼らは現在は著名人となって、編者の私をしのぐ業績をものしている人たちは多い――ほとんどすべてがそうかもしれない、そういう意味で、あの人が、ここにいる、そしてこんなにシャープなことを書いているという驚きも詰まった本であるので、年を経るにしたがって、むしろ価値が高まっている本ではないかと思う。
『文学理論』にもどると、現在、多様に展開している文学研究や批評について、それをまとめるのは至難の業である。どのようなまとめ方も、とりこぼしがでる。だから、批判するのはたやすいのだが、
第1章テクスト
第2章読む
第3章言葉
第4章欲望
第5章世界
という基礎講義編は、これ以外にもまとめかたはあるだろし、まさに編者の苦渋の選択かもしれないのだが、また個々の章が、鋭い洞察、圧倒される知見があるために、そのぶん、もう終わりかという物足りなさが残ることも事実だが、しかし、編集の妙は、この第一部と、トピック編の第二部もそうなのだが、個々の章が短くて、もう少し書いてくれたらという物足りなさがあるのだが、相対としてみると、現在の文学理論が確かな手応えとなってみえてくる。
これはすばらしいことで、どの章から読んでもいいのだが、全体を読むと、全くの初心者であっても、これから先に進めるような自信がわいてくるのではないかと思う。また、初心者でない場合でも、ここには驚くような洞察がちりばめられていて、読んでいて飽きない、いや、圧倒されるところも多い。
また、さらにいえば自分の勉強不足が恥ずかしくなるところもある。そういう意味で初心者から専門家にまで、本書は開かれている。いや、初心者や専門家にも、手ぶらで帰さない刺激に満ちている。
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あとは個人的な感想を。
編者の三原芳秋氏が「はじめに」に書かれていることだが、
1990年代なかば、(中略)わたしが通う大学に新たに赴任なさった先生が、「現代批評/文学理論」の講義を開講なさいました(当時、「文学理論」の名を冠する講義は、日本ではまだめずらしかったと思います)。なにかを期待するでもなく講堂のうしろの方で聴講していた生意気な学生だったわたしでしたが、講義の冒頭でその若い先生がおっしゃったあることばに強い知的興奮を覚えたのを、いまだもありありと思い出すことができますーー「文学理論を学べば、さまざまな境界をどんどん越えていくことできる」。P.4
以下、この若い講師の言葉について、三原氏の注解、敷衍、解説とともに、鋭い洞察が述べられるのだが、それは本書を読んでいただくことにして、「その若い先生」というのは、たぶん私である。たぶんというのは、もし私なら、その頃の私は「若くない」。そのころ東京大学の英文研究室で四〇代の先生方は平石、高橋、今西という、いまは名誉教授の先生方だったが、その最年長の平石先生と私は五,六歳の差しかない。私は四三歳で赴任している。これは三原氏が、思い出話を語るときに演出して私を若くしたということではなくて、当時、私は、年寄りともいえないが、若いともいえず、中年だったが、当時の文学部英文研究室では最年少だったという、なんとも微妙な年齢で、三原氏としても、年寄りとか中年というよりも若いとしたほうが、印象がなくよいと判断されたのだろう(最年少という意味で「若い」だったかもしれないが――いずれにせよ、もし私が三原氏だったら、同じことをする。
問題は、私がそんなことを言ったのかどうか覚えていないことだ。たとえば毎年同じことを言っているのだったら覚えているだろうが、その場でとっさに思いついて言ったことだろう。ただ、おもしろいことを、なるほどと思えることを言っていると思った。もし私が学生として、その言葉を聞いたらな、そういうものかと感銘を覚えたかもしれない。あいにく、いまの私は老人ぼけで覚えてないどころか、そういう発想もできなくて、なさけないばかりだが、三原氏のねつ造とも思えないので(というか三原氏のすぐれた洞察からねつ造されていてもおかしくないのだが)、昔の私は頭がさえていたと思うしかない。
文学理論の授業は私が先鞭をきったのではない。三原氏の世代は、文学理論を教える、何世代かわからないが、ある意味、第五世代か第七世代くらいだと思う。その第七世代の誕生にもし私が一役買っているのなら、これは名誉なことで、勲章として墓場までもっていってもいい功績なのだが、文学理論は、これまでも、いくつか山があった。ただそれは長くなるのでここでは語らないが、九〇年代の半ばから世紀末にかけて、あらたな文学理論の世代が生まれ、それが大学などで文学理論の講座として定着したという三原氏の語りは、実際、多くの入門書が出ていることからも正しいのだが、同時にまた、私の感想では、また私が身を置いていた場(べつに大学だけにかぎらないのだが)では保守派がいまのなお主流で、文学理論などバカがするものという偏見が根強いことも確かである。
これは『現代批評理論のすべて』のそれこそまえがきで書いているのだが、文学理論というのは、頭が良すぎるか、頭が悪すぎる人間がやるものであって、まともな人間が、あるいはするものではない。文学などこれっぽっちもわからない者がやるのだという偏見が根強いのである。
いっぽうで文学理論の人気が右肩上がりに上昇しているといえるのだが、同時に、文学理論の人気が下落傾向にもあるとみることもできる。理論の時代は終わった、ポスト理論がいまの趨勢だということもできる。その意味で、今回の『文学理論』がヘーゲルのいうミネルヴァのフクロウとならなければいいのにと思うのだが、あとは文学理論を考察しまた実践する私たちの試みひとつにかかっているといえようか。
とはいえ、この不吉な予感は、現実化しそうなところがある。新型コロナ・ウィルスの感染によって、文化的事業は大打撃を受けるだろうし、アカデミズムでの活動もどうなるかわからない。私自身も感染するかもしれなくて、まさに本書が終焉の時に飛ぶミネルヴァのフクロウとなることが冗談ではなくなりつつある。そのようなことがないことを祈るばかりだが。
