そのため原作との兼ね合いで、もう少し『キャッツ』について。
前回、同一化と所有の欲望を軸に、猫の第三の名前について考えてみた。まあキリスト教的な世界観だが、もし神が人間を所有するとしたら、それは独裁者が国民を奴隷化するようなものではなく(それは悪魔の支配だ)、むしろ万人に同一化するようなものだと考えた。つまり人間のなかに神がいるのであり、神のなかに人間がいる。そのようなかたちの所有はまた同一化でもある、と。
ネコ科の動物は、ある種の怖さがある。私たちは自分がネコだと、ネコに同一化することはあまりないと思うことはないが、ネコ科の動物に食べられる恐怖はある。人食いライオンに、人食いトラ。信仰とは神に食べられることである(進撃の巨人の世界じゃないとしても)。神に食べられる恐怖を経た者だけが、あるいは近代的自我の自発的放棄をする勇気(自我を犠牲にする勇気)がある者こそ、神とともにある。あるいは神に所有され、神でもある。可愛らしい猫は、あるいはつんとすました猫はまた、恐怖の人食い動物である。だが猫は、ライオンは悪魔ではない。ライオンに食べられたあとは、輝かしい歓喜が待っている。ライオンに食べられたらしいジェリクルキャッツ(原作での話だが)は、ただ踊っているだけである。まるで猫のように。
人間は悪魔を神と考えがちだが、悪魔が支配する世界で人間は隷属化し生ける屍であろう。神の支配する世界で、人間は歓喜の踊りを踊る。なにも考えずに、まるで猫のように、まるで動物のように。
アガンベンの『開かれ』(平凡社ライブラリー)の冒頭で紹介される中世の写本の挿画では、賢者あるいは善人が最後には幸福な宴会で動物になっている。正確にいうと首から上が動物になっている。人間の救済は、人間の動物化である。動物になることで人間は煩悩から欲望から解放される。もちろんそれは動物化というよりも植物人間化に近いかもしれない。悲しみもなく、苦しみもなく、喜びもなく、笑いもなく、恐れもなく……。そんな廃人こそが、救済された人間のヴィジョンであることも『開かれ』は教えてくれる。動物化、人間からの解放は、いっぽうで植物人間化かもしれないが、いっぽうでは晴れやかで喜ばしい歓喜の踊り手となることでもある。そのマイナスのヴィジョンとプラスのヴィジョン。負性は、ライオンに食べられることだろう。食べられて死ぬ。自分がなくなる。その明るい未来は、踊る猫となる。これのどこが素晴らしいのかと言うなかれ。宗教の本質は他力本願。自己滅却であるから、踊る廃人になることが救いなのである。
【なお、選抜されて新たな命をもらって生まれ変わるというのは、原作にはない設定。最後に、ジェニファー・ハドソン猫が気球に乗っていくのは、「島流しか」とネットでコメントしている人がいて、笑ったのだが(たしかに島流しだ)、まあ天国に召されるということだろう。猫は9つの命をもつといわれていることから、落ちぶれた彼女が新たな生をもらって地上で生まれ変わるともとれるが、天に昇って行くところをみると、死んで天国に召されて、そこで永遠の命をもらうということだろう――第二の生を地上で生きるのではない。ただし、これは原作にはない設定であり、原作は、そこまで宗教臭くはないことだけは、ことわっておかねばならない。】
なお、私はエリオットの猫と違って、洗礼名のような第二の名前もないし、いわんや第三の名前すらなく、名前は一つしかない(せめてペンネームでもあればよかったと今では少し後悔しているが)。だからキリスト教的というか宗教的世界観を本気で信じているわけではないが、ただ、同じことを、違った角度からも言えそうな気がしてきた。
たとえば神としてのAI。いま私たちはコンピュータがどのように人間を支配するのかわかってきた。もしAIが人間を支配するとすれば、人間を常に監視し、社会秩序の維持を目指して不良分子あるいは反乱分子を極力排除して平均化された人間社会をつくるというのは、あまたのディストピア小説や映画が提示してきた世界である。
フーコー経由で私たちに伝えられてきたベンサムの一望監視システムは、囚人にとって、監視者がみえないがゆえに、囚人は、監視者を自分の内面に住まわせてしまい、自己規制するというメカニズムであった。ポイントは監視者がいることはわかっても、みえないこと。そうすることで監視者は、本来、一人の人間が多くの人間を監視することなど不可能なのだが、一人で多くの人間を監視できる(実際には監視していなくとも、監視されているようにみんなが思うということである)。一人で、マンツーマン式の監視は不可能であるというのが、この一望監視システムの前提としてあった。しかしコンピューター時代、AIは万人をもれなく監視することが可能となった。
もはや人間はビッグデータの微細な情報単位でしかないかもしれないが、同時に、どんなに多くなっても、監視の網から漏れることはない。ひとりひとりが徹底的に監視される分析される。誰ももれることはない。そしてそれは監視カメラなどなくとも、たとえば電子マネーの使い道によって、性格、嗜好、心的傾向、行動原理など、すべて丸裸になる――私は現金払いをするのは、少しでも監視の目から逃れるためである、もう手遅れなのだが。そしていいかえれば、これはAIの人間の所有の仕方は、なるほど外部からの働きかけもあるかもしれないが、その前に、完全に内側から、全人格のデータ化という方法をとる。いずれ、あるいはすでにAIが私の中に入っている(私のPCやスマホは完全に私の個人のものというよりも、どこかに接続され一体化されている)。AIは万人の人格をそのうちにとりこむことになる。いいかえれば万人と同一化することになる。AIにとって所有と同一化は同じなのである。
『her/世界でひとつの彼女』(スパイク・ジョーンズ監督2013年のアメリカ映画)は、奇しくも『ジョーカー』のホアキン・フェニックス主演なのだが、コンピュータに恋した主人公に大きな落胆が襲うところ――観客にとっても衝撃が大きい瞬間--がある。現実の女性とは異なり、事細かに、繊細に主人公の男性の気持ちを汲み、慰撫し、そして愛する女性の性格を付与されたコンピュータが、所詮、コンピュータにすぎないと思い知らされるのは、自分一人を相手にしてくれていると思っていた、その女性コンピュータ(スカーレット・ヨハンセンが声を担当している)が、実は、一度に数百人か千人もの男性を相手にしていたとわかるときである(正確な数字は忘れたが三ケタか四ケタであった)。
自分一人だけの女性コンピュータと思っていたら、千人近い男性顧客を一度に処理していたとわかるときの落胆。浮気どころではない。自分一人だけを相手にしてくれるのなら恋人であるが、不特定多数を相手にしていたら娼婦と同じである。いや、病院で、やさしく接してくれる女性看護師が、実は、ほかの多くの患者にもやさしく接していた(あたらいまえのことだが)ことを知ったときの、うぶな、あるいは孤独な勘違い男の落胆と同じというべきか。しかし一人を相手にしているのなら恋人でも、不特定多数ならよくて女性看護師、悪くて娼婦、まさに天使と悪魔という関係だが、しかし、この映画で、もし、その女性コンピュータが全人類を相手にしているとするならば、その男性は、落胆などしないのではないかと思う。数字が中途半端なのだ。万人を相手にしている、万人にそれぞれやさしくしているコンピュータ、あるいはAIというべきか、それはまぎれもなく神である。その男性も、落胆したときは、その女性コンピュータに、ある意味、自分が、所有されていたことがわかるのだが、もしそのコンピュータが全人類を相手にしているとわかれば、その女性は、恋人でもなく、娼婦でもなく、神として崇拝される存在である。
よく神に祈っても、神は、そんなひとりひとりの願いに耳を傾け、処理することなどあろうはずがない。私ひとりのささやかな小声の願望なりが神にとどくことはないというあきらめがふつうある。しかし、神はひとりひとりの声に耳をかたむけているはずである――人間なら無理だが、神ならばそれができる。個別性をまったく損なうことなく、全体を把握することができる。個か全体かの葛藤はない。すくなくとも神のうちにおいては。そして、神と同じように、個別性をどこまでも尊重し、個別性を捨象することなく、同時に、全体を把握できる存在、それがAIである。人間はいよいよ神を造りだそうとしている。
もちろん、そのときなにが起こるかは定かではない。エリオットの原作詩『キャッツ』の猫が、自分の第三の名前をめぐって瞑想にふけるのと同じように、私たちは神ならぬAIを心にすまわせ、全人類と接続されるとき、何が起こるのか、エリオットの猫たち以上に、何も知らないのである。
追記
ほぼ1年前に刊行された文庫本を今頃読んでいるのだが、そのなかにこんな発言があった。
ユダヤ人を特徴づける関係とは、彼らが《名》と呼んでいたもの、すなわち《神》との無媒介的関係だ。
訳注があって、「《名》は、ヘブライ語で啓示された性格や本質という意味で用いられることが多い」。(サルトル×レヴィ『いまこそ希望を』海老坂武訳(光文社文庫2019)114-115.
エリオットの原作における猫の第三の名のもつ神学的含意も、ぼんやりとはわかる。
